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「問い」をカタチにするインタビューメディア

問いから学ぶ

アート思考カタリスト・若宮和男さんが聞きたい、「日本社会の変化を促す、アートシンキングの可能性」

アート思考カタリスト・若宮和男さんが、
東京工業大学 准教授・伊藤亜紗さんに聞く、
「大学教育にアートが必要な理由」

建築、アート研究、大企業での新規事業立ち上げ、起業など多彩なキャリアを通じて構築された「自分起点」の思考法についてまとめた『ハウ・トゥ アート・シンキング』の著者であり、ビジネスの現場にアーティストの思考を注入する実践者でもある若宮和男さん。そんな彼が教育や地域の現場における「アート思考」の可能性を探っていくことをテーマにインタビューを続けている本シリーズで今回インタビューするのは、東京工業大学 リベラルアーツ研究教育院准教授の伊藤亜紗さんです。美学や現代アートを専門とし、身体や感覚をテーマにした著書などを多数執筆するとともに、教育の現場の最前線にも立っている伊藤さんに、若宮さんが聞きたいこととは?

若宮和男
アートにはどんな力がありますか? 

ビジネスの現場にアート思考を持ち込むために色々活動する中で、大企業などで働く高学歴の人ほど、どこかに「正解」があると信じて込んでいることが多いと感じてきました。こうした考え方は、受験を前提とした現在の学校教育によって形成されたものではないかと思っていて、以前から教育というもののあり方には興味を持ってきました。そこで今日は美学の学友でもあり、東工大でアートや感性をテーマにした授業などもされている伊藤さんに色々お話を伺いたいと思っています。

伊藤:ビジネスとアートの関係を考える時に、「芸術や美は役に立たないから良い」と言われることがありますよね。美学の世界では「無関心性」という概念があり、例えばカントは「美しいものに対する喜びはいっさいの関心を離れたものだ」というようなことを言っていて、「役に立たないから良い」というのもこれに通ずる言説ですよね。でも、最近私はこれに違和感を持っていて、「役に立たないから役に立つ」というアイロニーではなく、いま本当に大事なこと、生きていく上で力になるものという観点からアートをとらえたいと考えています。例えば、社会人になると書類の書き方など「これ本当に意味あるの?」と思うルールがたくさんあるじゃないですか(笑)。感じることと考えることをきちんと連動させながら判断する能力を養ってもらう練習として、自分の授業を考えているところがあります。

効率を考えて標準化されたものを盲目的に信じてしまい、すでに形骸化しているものがいまなお続けられているというケースは、大企業や行政などによく見られることですね。どちらが「役に立つ」んだかわからない(笑)。

伊藤:そうですね。無関心性という芸術観の背後には、「人間は自然のままだと競合状態になってしまう」というホッブスの言説があるのですが、東工大にいる理工系の研究者などを見ていると、彼らの「自然状態」は決して競合状態ではなく、むしろお互いがお互いを必要とするような利他的な関係が築かれているんですね。関心を持つということは他者をケアするということで、そこに「無」をつけてしまうことはある意味とても残酷ですし、そうではない「関心」的な芸術観も教育において必要なのではないかと考えているんです。いきなり大きな話になってしまいましたが(笑)。

ビジネスの世界においても、特に資本主義では企業が増収増益で大きくなり続ける「競合状態」が「自然」ととらえられてきたと思うのですが、その競合の中で本質的な価値を見失ってしまうことが実際にあります。「関心」(=interest)という言葉には、利害や利益というような功利主義的な響きもあるので、そういうビジネスの競合的自然観の中で「アートが役に立つか」と言われると抵抗もある。ただ、最近はビジネスの世界でもダイバーシティやSDGsがフォーカスされるようになり、大きさのように定量化できる価値とは異なる軸をいかに増やすかという観点も生まれていて、そうした部分に美学やアート、あるいは感性や身体など伊藤さんの専門領域が担えるところがありそうだと感じています。

伊藤:アカデミックの世界でも、例えば理工系の研究者は感性や身体性によって成果が導かれたという言い方は絶対しないですし(笑)、自分の思考を抽象化し、属人性を排した状態で共有する論文という制度の中で生きています。理工系の学生にしても、アート作品を見た時に自分がどう感じたのかということを話したがらない傾向があり、それは属人性というものをノイズだと思っているからなのだと思います。でも、実は理工的なテクノロジーと感性的なアートは補完し合うものなのだということを伝え、感性を肯定していくということを私の授業ではしているつもりなんです。

若宮和男
評価についてはどう考えますか?

定量化できる価値とは異なる軸を増やすという話をしましたが、受験やテストによる評価が前提となる現在の学校教育にはこの視点が足りていないような気がします。伊藤さんは、教育における評価についてどうお考えですか?

伊藤:現在の制度上、点数をつけないわけにはいかないのですが、学生たちが私の点数をあまり気にしなくなるような工夫を色々しています。例えば、西洋美術史の講義では、最後に展覧会に行くという課題を出すのですが、そうすると多く学生は授業を通じて抽象画などの鑑賞の仕方がわかるようになっていることを実感するんです。単に知識を与えるのではなく、何かの能力をインストールするということを意識して授業を行うと、学生それぞれがテストの点数だけに依存しない「成果」を自ら実感でき、そこから学びのサイクルが始まる。自分で学ぶ習慣をつくることが教育の最も重要な役割だと思っているので、そのためのしかけをつくることを意識しています。

東工大科学技術創成研究院の中に設立され、伊藤さんがセンター長を務める研究拠点「未来の人類研究センター」のWebサイト。

ビジネスにおいても、かつては「答え」を知っていた上司が部下の評価をしていましたが、デジタル化などによってビジネス環境が激変したことで、旧来のものさしで評価することが難しくなっています。それこそ、これからは自分で自分を評価できるような仕組みをつくっていくことが大切になっていくのではないかと考えています。

伊藤:学生たちを見ていると、点数や単位などの形で与えられる評価よりも、自分の興味があるものを先鋭化させていくことにモチベーションを感じて頑張るところがあるんですよね。私が東工大に入ってまもない頃、1週間限定でブックカフェを開くというプロジェクトに関わったのですが、そこでは本好きな学生が選書し、絵を描くのが好きな学生がポスターをつくり、生協と組んでお弁当を開発する学生なんかもいました。このように一人ひとりの能力が信頼されている状況のもと、単位や授業とは関係なく評価されるような場があってもいいと思うし、このプロジェクトのリーダーと副リーダーが最近結婚したのですが、こうしたことも教員としてとても嬉しいことですよね(笑)。

企業でも最近はコミュニティというものへの関心が高まっていて、従来の企業活動の外で生まれる人とのつながりや学びなどから生まれるものが期待されるようになっています。こうした周縁から面白いことが始まるということはよくわかるのですが、だからこそ中心にあるものの存在意義がより問われてくるのかなと思っていて、それは教育にも言えることなのかなと。

伊藤:それで言うと最近の大学教育の主流は、かつてのように講義中心ではなくなっています。反転教育とも言われるのですが、私たちが学生だった頃のように教室で行われる講義で知識を得て、それを持ち帰って各自が演習をするというスタイルではなく、事前に各自が知識をインプットし、教室では演習や対話でそれを深めていくという形になりつつあります。それこそ昨今のコロナ禍によって、教室に集まる意味というのはますます変わっていくのかなと感じています。

若宮和男
教育の現場には何が必要ですか?

教室が受け身の学びから創発の場に変わっていくと、今後教育の現場には「ティーチャー」以上に「ファシリテーター」が必要になってくるように思います。

伊藤:たしかに東工大の人文系の教員は、3~5割くらいファシリテーターの仕事をしている感じがします。いまの学生たちは高校の授業などでワークショップを経験してきていますし、東工大でもワークショップのスペシャリストを大学に招き、教員の研修などにも力を入れています。一方、最近は学生の間でより戻しのような現象も起きていて、一部の学生はワークショップに不満を持ち始めているんです。ワークショップは基本的に誰でも発言をして良い空気をつくることが大切ですが、もっと自分が根本から揺さぶられるような学びの場を求めている学生もいるんです。私自身そういう経験があるのでよくわかるのですが、ワークショップ的な学びが一巡し、古典を読み込んだり、ラテン語をしっかり学ぶといったニーズが結構高まっているんです。

僕は、教育には「守破離」の考え方が大切だと思っているのですが、日本の教育は「守」から「離」にいたるまでの接続がうまくできていないように感じます。型となる知識を身につける「守」は、自分のいびつさに気づくプロセスとして大切だと個人的には思っているのですが、大学受験を頂点とする「入口主義」が強い日本では「守」自体が目的化されているところがあり、自分を表現する「離」に到達するという本来の目的が失われているように感じています。

伊藤:画一化された知識をインストールした後で、自分を表現しろと言われてもそれができないというのはよくある話ですよね。少し話が変わるかもしれませんが、最近私が思っているのは、勉強は自分のためにやらなくてもいいのではないかということです。私自身は自分のために勉強してきたところがありましたが、学生などを見ていると必ずしも自分が関心を持っていることを論文のテーマにしてうまくいく人ばかりではないんですよね。逆に案外遠いところから何かを見つけて掘り下げていくことで楽しさや満足感が生まれ、もともとは自分のために始めたものではないけれど結果的に自分らしい研究になり、社会にも良い影響を与えるといった利他的な学びもあると思っています。

(左)伊藤亜紗『手の倫理』(2020年 / 講談社)、(右)伊藤 亜紗、渡邊淳司、林 阿希子『見えないスポーツ図鑑』(2020年 / 晶文社)

アート思考で「自分起点」と言うと、「自分探し」みたいな話に取られることが多いのですが、僕の考える「自分」はどちらかと言うと他者との境界面で発火するようなものに近いと思っていて、それはいまのお話しに通じるところがある気がしました。

伊藤:触発されることで変化するということを若宮さんも仰っていると思いますが、現在の大学にはそういう要素がほとんどなく、どちらかと言うと「これはショックが大きいかもしれないから、苦手な人は気をつけてください」といった具合に事前に注意をするなどして、触発したりショックを与えたりしないようにしているところがあります。本来の教育というのは、台本など一切ないライブ感や偶然性を通して人間力を養ったり、他者との出会いによって発火するような機会をつくっていくべきなのに、現在の大学という機関はそうはなっていない。なかなか難しいことではありますが、触発されて変化していくことへの肯定感や信頼が抱ける場を大学はつくっていくべきだと感じています。

若宮和男
学びと身体はどう関係していますか?

先ほど話した守破離ではないですが、教育には稽古のような側面があると思っています。最近読んだ『稽古の思想』という本には、日本の教育には保健体育など医学的な観点から身体を扱うものはあるが、いまこの身体がどういう感覚を持っているのかということを考える学科がないと書かれていて、これは現在の日本の教育を考える上で重要な視点だと感じます。

伊藤:最近18世紀の百科全書に興味を持っているのですが、これには身体化された特殊な職人の技を民主化するという目的意識がありました。やがて19世紀になると、料理本や楽器の教則本などのハウツー本が多く出版されましたが、これらを通じて「数値化」が進んだことで技から「身体性」が削がれていき、その延長線上にあるのが規格化された現代の教育です。でも、例えば料理をする時には外部環境に応じて大さじ3を2.5にした方が良い場合があって、この判断には身体的な感覚が求められますよね。ビッグデータなど身体性とは無縁に思える領域を専門にしている理系の研究者からもこのような身体性を見出すことはできて、現代においても優秀な研究者ほどある現象を身体的に捉えているようなところがあると感じます。

若宮さんが運営するアーティストのライブパフォーマンスをオンラインで体験できるサービス「#leap2live」。

そうした身体感覚がどのように育まれていくのかに興味があります。最近はオンラインでアーティストにパフォーマンスをしてもらうプロジェクトをしていて、そこで明らかに感じるのはオンラインでも身体感覚というのは触発できるということです。ただ、この時の身体感覚は僕らがオフラインで育んできた身体の「貯金」を引き出しながら使っているような感覚もあって、オンラインだけでオンラインならではの身体性を「貯金」することは可能なのか、もし人生のほとんどをオンラインで経験する世代になった時に身体感覚はどう変わるのか、その強度は下がるのだろうか、といったことを最近は考えています。

伊藤:いま「見えないスポーツ図鑑」というプロジェクトを進めていて、私を含む普段それほど運動をしているわけではない3人の研究者が一流アスリートの感覚をどれだけ分かれるのかということがひとつのテーマになっています。例えば、百均などで売っているアルファベットの木片を2つ組み合わせ、2人で引っ張り合って外そうとすることでフェンシングに近い感覚が得られるのではないかという検証なんかをしているんですね(笑)。いまのオンラインの身体感覚の話につなげると、フェンシングの分野における「貯金」がなくても、他の分野の貯金を応用することで理解できる身体感覚というものがあるのかなと思っていて、要は異なるものをつないでいく翻訳言語のようなものが大切なのかなと。

「見えないスポーツ図鑑」プロジェクトより。

それこそ教育においても、異なる領域や次元をつなぐ翻訳言語や知識と身体の体験を紐づけていく「結び目」が大事だという気がします。安田登さんの『身体感覚で「論語」を読みなおす。』という僕の好きな本があるのですが、これを読むと漢字が「体感」できるようになる。安田さんはよく、「文字や言葉はARマーカーのようなもの」とお話しされているのですが、伊藤さんの研究や授業で紡がれている言葉もAR力の高いものだと感じます。

伊藤:AR力、良い言葉ですね(笑)。たしかに教育にはARっぽいところがあるように思いますし、私自身、同じものが以前とは違うものに見えるような入口、それこそ「結び目」をたくさん与えていくということは常に意識しています。いまお話しした「見えないスポーツ図鑑」にしても、アルファベットの木片を引っ張り合うという体験を一度することで、フェンシングの試合の観戦の仕方が大きく変わるんですよ。その体験自体がゴールではなく、体験がひとつの「結び目」となり、新しい何かが立ち上がってくるということが大切なのかなと、いまお話しをしていて感じました。


インタビューを終えて

大学で美学芸術学を学んでいた時の学友でもある伊藤亜紗さんとのとても楽しい対談でした。ご自身の研究も領域横断的で非常に面白いのですが、教育においても、ある方向への訓練ではなく、「発火」や「破壊」「結び目」など、新しいものの見方が生まれる動的な場をつくろうと実験をされてることに共感します。大学がお勉強でも就職準備でもなく、価値観や生き方自体を探求し触発し合える、より面白い濃い場になっていくといいなと思います。