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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

メディアアーティスト・市原えつこさんが聞きたい、「来訪神をリデザインする方法」

メディアアーティスト・市原えつこさんが、
日本テレビ プロデューサー・宮下仁志さんに聞く、
「祝祭や神事における必要条件」

今年中に、来訪神や祝祭をテーマにした新作を発表することが決まっているメディアアーティストの市原えつこさん。そんな彼女が今回インタビューするのは、日本テレビのプロデューサーとして、『ぐるぐるナインティナイン』『さんま岡村SP』などの人気番組を手がける傍ら、休日を利用し、覚詮という法名を持つ修験者として全国各地を巡っている宮下仁志さん。国内外の聖地で数々のスピリチュアルな体験をし、また、全国の寺社事情にも明るい宮下さんに、作品発表の候補地として神社を検討しているという市原さんが、神様や御神体、聖地、神事など新作の核となる諸テーマについて、率直な疑問を投げかけました。

市原えつこ
神様はどんな存在なんですか?

宮下さんと初めてお会いした時に、漠然とした次回作の構想をお話ししましたが、いまは祝祭の場所として神社を検討しています。宮下さんは修験者としてさまざまな神社に足を運ばれていますし、以前にされていた神社のコンサルティングのお話も印象的だったので、今日はその辺りを中心に色々伺えればと思っています。

宮下:わかりました。僕がお話しできるのは、修行の中で感じた個人的な体験に基づくことくらいなので、そのつもりで聞いていただければと思います。まず、神社のコンサルについては、僕が勝手にやりたいと思っているだけなんですが(笑)、例えば、神社に来る人の多くは、何がまつられているかわからないまま手を合わせて拝んでいると思うんですね。でもやっぱり、その神社にどんな神様がまつられているのかはわかっていた方がいいし、それを課題ととらえている神社も少なくないんです。ただでさえ人口減少で参拝者は少なくなっているわけですし、さらに神職も少なくなっているから神社全体の数も減っている。僕は基本的に、(神様が)人間だったらどう思うかという視点から神様について考えることが多いのですが、自分のことを大切にしてくれる人が減るというのは神様にとっても不本意なはずで、何かできないかと思っているんです。

具体的に考えているアイデアもあるのですか?

宮下:例えば、神社でいただくお神酒というのは残念ながらあまり美味しくないものもありますよね。でも、やっぱり美味しいに越したことはないですし、せっかくなら神社の社殿や周囲の森などから採取した酵母を使って、その神社のアイデンティティを示すお酒を醸したらいいと思うんです。それが美味しく、しかも健康にも良いとなれば人が神社に足を運ぶきっかけにもなるはずです。

霊験あらたかな感じがして良いですね。商売繁盛に利く○○神社のお神酒など、サプリメント的な展開もできそうです(笑)。私は、電気やIT関連の仕事をする人たちから信仰を集めている京都の電電宮など、現代的な概念が持ち込まれた神社に興味があるのですが、自分のまつりのことを考えると、あまりに突飛過ぎるものだとギャグっぽくなってしまうので、伝統的なテーマとの紐づけが必要になると思っています。その中でお賽銭などこれまでもさまざまな形で神聖な場所に入っていた「お金」という概念を、仮想通貨などを活用しながら真ん中に据えるようなまつりができないかと考えています。

宮下:信仰心が強い人ほど、お金儲けは良くないと思いがちですが、お金というのはある種のエネルギーでもあるし、それを拝むことがあってもいいはずです。現代においては、お金は稲の代わりになるものかもしれないし、神様だって「いまどき稲かよ」と思っているかもしれない。そう考えると仮想通貨などもアリですよね。神様は多くの人が思っているほど杓子定規ではなく、逆に面白いこと好きなんですよ。例えば、古事記の「天の岩戸開き」の話にしても、全裸に近い姿で踊って神様たちをを笑わせたアメノウズメは両性具有だったという説があります。アメノウズメが踊る度に男女の性器が両方見え隠れして、それがあまりに理解を超えていたために神様たちが大爆笑したんだと。もちろん、中には厳格な神様もいるかもしれませんが、風通しが良くて明るい場所で楽しいことをすれば、神様たちも喜んでくれるのだと思います。

市原えつこ
御神体にはどんなものがありますか?

御神体についてもお聞きしたいのですが、これまでに宮下さんが見てきた御神体の中で印象に残っているものを教えてください。

宮下:山の上にある有名な神社の御神体がきれいな紫色をした巻き貝で、これは珍しいなと思いましたね。また、何重にもガードされていて、なかなか本体が見えない構造になっている御神体や、本体は見られないけれど、つながっている紐には触れるという御神体もありました。経年変化し、もはや原型をとどめていない御神体や、以前に見た時と形が大きく変わっている御神体などもいくつか見ましたし、いわれとは異なる神様を表した御神体がまつられていたこともありました。単に認識が間違っていたのか、盗まれて取り替えられたのか、あるいは化けたのかわかりませんが、御神体に裏切りがあるパターンも結構あって面白いんです。

一般的に御神体というのは、神様の依代的な役割があると思うのですが、そうした機能性だけには収まらない謎めいたところがありますね。

宮下:そうですね。そもそも神様というのは、風や光、音など自然現象そのものだと考えられてきました。ハワイの古典フラにはクムという指導者がいるのですが、さらに「ウニキ・クム・フラ」という特別な指導者がいて、その人が何かをすると自然現象の印が起こると言われています。「ウニキ・クム・フラ」の認定試験というものがあって、長老たちが自然界からの知らせを受けてそれは始まるのですが、しばらくはみんなじっとしているんですね。やがて、それまで雨が降っていたにもかかわらず急に雲が割れ、白い虹がかかった月が現れると、それとともにみんなが音楽と踊りを捧げ、終わった瞬間にピタッと空が雲に覆われたそうです。これがまさに神様の印であり、その人は自然界に認められたということで、晴れて「ウニキ・クム・フラ」になったのです。御神体の話とは少しそれましたが、神事とはこういうインタラクションがあるものなんだと強く感じました。逆にインタラクションを演出として取り入れ、暦や地形、気象状況などを計算して神事やまつりを設定する人というのもいます。

神や自然界とのインタラクションとは、究極のインタラクティブ・アートですね……。自然現象をうまく利用することで、祝祭性、儀式性を高めているんですね。

宮下:はい。神事において風や光、音などの現象は重要な要素です。古代の人たちは自然の真似をすることで神様との同調を試みたはずで、祝詞ももともとは風や雷などと共鳴するための音(声)を出すことが始まりだったと思います。実際に山の中に入ると自分もその感覚は理解できますし、風や音、あるいは光によって神様とつながった感覚が持てた時には意識変容が起こり、人間が光の粒の集合体のように見えてくるんですよ。こういう話をすると頭がおかしい人に思われるのですが(笑)、人間の意識変容、身体変容について科学的に研究している人たちもいますし、光や風、音の演出によって、意識変容を促すようなこともできるのかなと思います。

市原えつこ
どうやって聖地ができるのですか?

これも以前に宮下さんから伺いましたが、縄文時代の人たちは、四隅に杭を立てることによって日常空間に聖地をつくっていたのではないかという話がとても興味深く、「テンポラリーな聖地」というテーマも気になっているところです。

宮下:例えば、お寺や神社に行くと建物があり、人はそこに向かって手を合わせたり拝んだりするわけですが、いや、ちょっと待ってくれと思うんです。そもそも何もなかった空間に建物ができたことで方向性が生まれているだけで、もともとはその場所全体が聖地であるという体感があり、その目印として石が置かれたり、建物がつくられているのに、いつの間にかみんな勘違いをして、その建物を拝むようになってしまった。縄文人の話は、空間を限定して聖地としたり、器としての聖地を信仰する考え方の起源かもしれませんが、さらに遡るとそうした目印すらなかったんじゃないかと思うんです。

この場所は他とは何かが違うという漠然とした感覚があったんでしょうね。聖地化される場所は神社など限定された空間に限らず、本来はその辺の道端もテンポラリーな聖地になり得るかもしれない。そういう意味では、一見神聖なイメージとはほど遠いニュータウンのような場所でも、そこに何か神聖さを抽出した目印を置いて聖地にするというアプローチはできそうですね。

宮下:そう思いますよ。以前にどんな病気も一発で直してしまうという沖縄の治療家の方とお会いした時に、その人がずっとグーグルマップを見ていたんです。そして、東京・目黒のあたりを指さして、いまここに光が降りていると言うんです。その後、みんなでそこに行って法螺貝や笛を立て、お経を上げたりしたのですが、聖地に対するこういう感覚もあるのかと驚きました。

なんと! グーグルマップなどの二次元情報や位置情報から聖地が見つけられるとなると、かなり自由度が高まりそうです(笑)。

宮下:場合によると、聖地を決める時にその場所自体が神がかっていなくてもいいのかもしれません。聖地と言うと、その場所の背景にあるストーリーなどを考えがちですが、あえて偶然に委ねてしまうというのもアリなんじゃないかと。これは僕がいつも気をつけていることでもあって、聖地に行くと、「神様に呼ばれた」とか「自分には役目があるから来た」という人とよく会うのですが、突き詰めて考えると結局は自分が来たくて来ているところがあるんですよね。振り返ると僕自身もそうでしたし…(笑)。いまではなるべくそういう意思を排除し、偶然に委ねたいと思っていますが、実際に独鈷という密教の道具を投げ、それが空間を移動して偶然落ちた場所が聖地になったという言われなども残っているんです。

市原えつこ
祈りの本質は何ですか?

場所にとらわれず、ミニマルに聖地がつくれるという考えにもとづくと、私がやろうとしている祝祭の可能性や柔軟性も色々広がりそうです。

宮下:神聖な存在というのは瞬間瞬間に移動していくのだと思います。一定でも固定でもなく、変化していく。そもそも地球というのはもの凄い速度で日々回転していて、常に宇宙空間における配置は変わっているはずなのに、ある場所が何千年も変わらぬ聖地と言われていたりすることを僕は疑っているところがあります。例えば、伊勢神宮というのは気の遠くなるような年月を経ている、これからも変わらぬ聖地ではありますが、その伊勢神宮には元伊勢と言われるものが何十箇所もあって、これらを点々と移動しながら、最終的にいまの場所に落ち着いたわけですからね。市原さんのまつりにしても、色んな場所を移動しながら続いていくというのは面白そうですよね。神道には「分け御霊」という考え方があるように、神様というのは分割可能な存在で、実際に伊勢神宮や鹿島神宮などは全国に無数にあるわけだし、コピー可能な御神体というコンセプトも現代的でいいですよね。

カルスという植物の万能細胞について多摩美の久保田晃弘先生から教えて頂いたのですが、こうしたものが活用できそうな気がしてきました。

宮下:チベットヨーグルトみたいに培養して、どんどん分けていけたら面白そうですね。さらにブロックチェーンの技術も活用したら、「この神様、一回うちの田舎のそばも通ってる!」なんてこともわかるかもしれない(笑)。

先ほどのお話にあったように、聖地や祝祭をモバイルなものにして色々な場所に展開するという漠然としたイメージも持っています。時空間を移動していく感覚はどこか修験道とも通じるものがありそうですし、さまざまな要素をコントロールしながら、神聖なものをさまざまな場所に出現させるというのは少しバーチャルリアリティ的な感じもします。

宮下:僕もまさにバーチャルリアリティだと感じることがありますよ。以前に長野の戸隠山にある、真冬には誰も訪れないような磐座にクロカンスキーで拝みに行ったんです。そこで法螺貝を吹き、お経を上げていたら、急に観音様の像がモーフィングのように次々と色々な顔にトランスフォームしていったんです。これだけ寒いところで単調なお経を延々と上げたり、法螺貝のバイブレーションで身体が振動したことで意識変容が起こり、幻覚が見えているのだろうと一応冷静に分析している自分がいたのですが、それでも目の前の観音像はどんどん姿を変え、しまいには知人や自分の顔にもなって、その場所のストーリーを語ってくるようでした…。この世には言葉では説明し得ないようなことが起こるんだなと思いましたね。

今日は、目からウロコが落ちるようなお話をたくさん伺うことができました。これまで祝祭や神事の概念について色々調べていましたが、従来の型にとらわれすぎずに、エネルギーを集めていけるような場をもっと自由につくっても良いのかなという気がしてきました。

宮下:そもそも人が説明のつかない力に恐れや驚き、感動を抱いたことが神事の始まりなので、素朴なフィーリングやエモーションを忠実に表現していくことが神様に近づく方法だと思うんです。僕が吹いている法螺貝にしても、水に関係がある場所ではこういう曲を吹くといったルールが一応あるのですが、実際に現場でそれを吹いても全く響かないと感じることもある。その中でいかにフレキシブルにその場に合った音やお経を選択し、神様と会話をしていけるのか。最もふさわしい身体の使い方で音が出せた時に、初めて神様とのインタラクションが生まれるんです。神様に打診をしながら、チューニングを合わせていくということが、祈りなのだと思います。


インタビューを終えて

宮下さんのインタビューは、まるで神の使いと話しているような時間でした。最近は、神仏や祝祭について書籍で調べまくり、いろんなお作法や伝承でやや頭でっかちになっていたのですが、神事は意外と自由で、新しくてもいいんだな……というアハ体験。フリースタイル性というか、独自に編み出す部分が強くあっても問題ないのだなと。制作プランへ絶大な影響を与えたインタビューで、この翌日にプランを具体的に詰めないといけないタイミングだったのですが、本当にこの日お話を伺えてよかったです。 「いまどき稲かよ」はめちゃくちゃパワーワード……。

宮下さんのお話で、「神仏や神社仏閣とのインタラクションの考え方の原理」を教わることができ、取材後にかなり実践的に活かされています。記事内にはないのですが、「神社に祀られている神様にもいろいろ性格があり、神社に行く道すがらの自分自身の気分の変動でそれが分かる。愉快な神様がいる神社だと楽しい気持ちになるし、厳かな神様だと気分が引き締まる」というようなお話もされており、最近京都に行った際まさにそれを体験しました。たまたまお金の神を奉る「御金神社」に遭遇し、神社へ通じる道すがら本当に愉快で楽しい気持ちになったので、「宮下さんが仰っていたのはこのことか…!!」と衝撃。きっとファンキーな神様なんだと思います。
別の神社でも参拝中に本当に頬を撫でるような風が吹いてきたり、不自然なぐらいの強風で草木が落ちてくる、という出来事もあり、神性とのインタラクションというのは面白いなと体感しました(なにやら怪しい話になってきましたが……)。
神事にかかわるには、情報だけではなく五感や身体感覚、直観を研ぎ澄ませることが重要だとわかったので、テクノロジーだけでなく多様な側面から切り込んでいこうと思います。デジタルシャーマニズム作家として、もう一皮むける余地がありそうです。