MENUCLOSE

発想とカタチ

メディアアーティスト・市原えつこさんが聞きたい「来訪神をリデザインする方法」

メディアアーティスト・市原えつこさんが、
アーティスト/ミュージシャン・和田永さんに聞く、
「祝祭空間のつくり方」

「来訪神のリデザイン」「儀式・祝祭のデザイン」をテーマに掲げ、次回作の構想を進めている市原えつこさんが今回インタビューをするのは、オープンリール式テープレコーダーやブラウン管テレビなど、役割を終えた家電を新たな電子楽器として現代に蘇生させる作品やプロジェクト、パフォーマンスなどで世界的に注目を集める和田永さん。先日開催された和田さん主宰のプロジェクト「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」のイベントで共演も果たしている市原さんが、「儀式」や「祝祭」をテーマに和田さんにさまざまな質問を投げかけます。

市原えつこ
なぜ儀式に興味を持ったのですか?

以前に私は「都市のナマハゲ」という作品をISIDイノラボさんと一緒につくったのですが、それがきっかけで日本の奇祭や来訪神という存在への興味が強まりました。そこで次回は、オリジナルの来訪神や民間行事など、現代の民間風習的なもの生み出すような作品を制作し、祝祭や儀式のような形で発表したいと漠然と考えているんです。私は学生の頃から和田さんの追っかけをするほどファンで(笑)、創作の面でも影響を受けまくっているのですが、和田さんの作品からは一貫して「儀式性」が感じられます。なぜ、儀式というものに興味を持つようになったのですか?

和田:自分でも理由はよくわからないのですが、子どもの頃から両親に連れられて東南アジアなどで変な儀式をたくさん見てしまったことが影響しているのかもしれないです。バリ島で見たガムランやケチャはトラウマ級に記憶にこびりついているのと、大学の頃に行ったベトナムの町角で見た光景も忘れられないです。後ろでネオン管がチカチカ光っている中、お坊さんがエレキギターを弾いていたのですが、同時に足でキックのような楽器を踏んでいて、「コンッ」と木魚みたいな音がするんですよ(笑)。そして、お経が聴こえ、線香の煙が立ちこめる中で人々が祈りを捧げていました。まさに伝統が電化されたような光景が衝撃でした。

そういうものは自発的に調べて足を運んでいたのですか?

和田:たまたま現地で出会ったものに自分の波長が合うということが多かったですね。人智を越えた自然界とコミュニケーションを取っているんだなという体感があって。エレクトロなものもひとつの窓口のような。例えば古いテレビやラジオでチューニングを合わせたり、レコードに針を落とすような行為なども、どこか異界に足を踏み入れるというか、見えない世界をとらえるような感覚があって、東南アジア旅行後、こうした装置にもちょっと儀式的な要素を感じるようになったんです。

たしかにアナログレコードや黒電話などの機器には魔術っぽい雰囲気がありますよね。一方で最近のアップル製品などは、そういうオカルト性は薄いのかもしれません。

和田:そう言われればそうかもしれないですね。とはいえ、現代のスマホやVRなどにも、多少なりともそういう要素はあるんじゃないかと思っています。これらは利便性や合理性を追求した結果生まれたものですが、すべてをゼロとイチだけで表して制御するデジタルの技術って、よく考えてみるとイカれているじゃないですか。そして、そこにはちょっとした宗教性なんかを感じたりもする。実在するものがゼロとイチの幽霊になるんですよ。要は、テクノロジーに科学を見るのか、神秘を見るのかということなんだと思いますが、そもそもあらゆるテクノロジーというのは、あらかじめ世界にあったものを人間が発見しただけに過ぎないと考えることもできる。ということは、その大元のプログラムは一体どこからやって来たのか、という最大の謎にやっぱり畏怖しますね。

最新のテクノロジーというのは、生々しい人間の身体を無理矢理拡張しようとしているとも言えますよね。そう考えてみると、最新機器というものが少しグロテスクに見えてきました(笑)。

和田:例えば、超未来人が超原始人に最新機器を渡した時に、どんな反応が起こるのかということを妄想するのが好きなんです。もし、MacBookを古代人が手にしたら天に掲げて崇めるかもしれないし、逆に1万年後の未来人が、バッテリーが切れたMacbookを掘り起こした時にどう見るのか。ゼロ・イチ時代古い神と見なしたり、リンゴマークからニュートンやアダムとイブを連想して、一種の聖書と見なしたり(笑)。ある種、モノボケみたいなものですね。「モノボケからモノノケ化」をよく脳内でやってます(笑)。

市原えつこ
祝祭に必要な条件は何ですか?

和田さんの作品やパフォーマンスは、空間を支配する力がとても強く、どんな大きな会場でも一瞬にして飲み込んでしまうように感じています。それを可能にする要素として、音はもちろんですが、同時に光というものもあるような気がしています。先ほどの儀式の話に引き寄せてみても、光というのは重要な要素になっているのかなと。

和田:やっぱり音も光も波を感じるというか。身体を使って時間と空間を感じる中に、音や光があるような感覚です。オープンリールをはじめ僕が用いる装置は、自分にとって時空を操る民族楽器のようなものなんですね。身体と音、そして光が繋がり合っている感覚を身近な電化製品を使ってたしかめているのかもしれないです。

自分の作品も含め、メディアアートというのは少し一発芸的なところがあると感じていて、和田さんの作品のように、空間のみならず時間までも支配するようなものは少ない気がしています。一発芸的な表現から脱却するためには、どんなことが必要だと思いますか?

和田:やはりそこでセレモニー化するという話にも繋がって来る気がしますね。文化や概念として表現するような。難しいですね。

キリスト教の賛美歌しかり、インドネシアのガムランしかり、セレモニーや祝祭などには音楽がつきものですよね。今回リアルな祝祭の場をつくるにあたって、楽器などを操りながら一体感を持ってうねりを制御していく音楽というものは必要不可欠なのかなと思っています。ただ、私の本名には「歌」という字が含まれるのですが、残念ながら音楽の才能があまりなくて、やはりプロの方に入って頂かないとおそまつなものになってしまうかなと…。

和田:そこは難しいところですよね。もちろん音楽は複雑な創造の産物ですけれど、本来はとても自由なものですよね。なので、あえてプロを入れない方が面白いものになる可能性だってあるわけです。例えば、電子楽器やサンプラーを360度取り囲むように並べて、物心ついた子どもたちに演奏をしてもらったりしたら、知と天然のギリギリをいくプロには出せないあり得ないグルーヴが生まれるかもしれない(笑)。

「ブラウン管ガムランカルテット」 Photo:Mao Yamamoto

市原えつこ
どうやって人を巻き込んでいるのですか?

たしかにお祭りには、地域の人たちが寄り集まって、各々が自由に音楽を奏でているような雰囲気がありますよね。和田さんはもともと音楽のバックボーンがあるし、2015年からスタートした「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」では多くの人たちと協業するなど、制作やパフォーマンスの現場にさまざまな人を巻き込んでいくプロだと思いますが、クオリティ・コントロールなどについてはどのように考えていますか?

和田:そこに関しては大喜利のように考えているところがあります。あるお題に対して不特定多数の人たちがどんな”座布団1枚”な答えを出すのかという感覚で、それを集合知として活かしていくようにしています。「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」では、Facebook上にクローズドのページをつくって、そこに参加する人たちが自分のつくったものや面白いと思うアイデアをどんどん投稿しています。その中からこれは面白いと思うものにある程度の予算をかけて具現化し、ステージに持っていくというやり方をとっていますね。

参加メンバーには、やはり和田さんのファンが多いのですか?

和田:最初の頃は、たしかにファンも多かったのかな。最近はそれよりも純粋にプロジェクトの内容自体が好きで参加してくれる人が増えてきました。中には、単純な好奇心から参加して、徐々に刺激を得ながらギークになっていくような人もいて、面白い循環が生まれつつあるなと感じています。参加者の分野がバラバラで面白いですね。

冒頭で話したナマハゲにしてもそうですが、民間信仰やお祭りというのは基本的には匿名性が強いもので、ある意味中心的な存在がないとも言えるかもしれません。もともと和田さん目当てで集まってきた人たちが、徐々にギークになっていくという話にも通じますが、東京に代々続いていくような匿名的なお祭りのようなものがつくれたりすると理想的かなと思ったりします。ただ、私は周りに不特定多数の人が集まってくるとピリピリしてしまうタイプで(笑)。ボランタリーに集まって来る人たちを受け入れる和田さんのようなおおらかさが必要そうですね。

和田:その状況を楽しめるかどうかは重要もしれないですね。魑魅魍魎たちが集まってくる中で、全く予期せぬことが巻き起こっていくので、失敗のリスクはありますよね。それでもそのカオスに身を投じてみると、予想していなかった風景と突然出会えたりする。僕はその状況をだいぶ面白がっている人なんだと思います。専門家ではないがゆえに出てくる程良い適当さや、純粋に好きなことをするからこそ生まれるエネルギーみたいなものがいいんですよね。

以前に一度お祭りのリハーサル現場に伺った時、「この多幸感、ヤバイな」と感じました(笑)。

和田:もうずっと「文化祭の前日」が続いている感じです(笑)。電機メーカー勤務のエンジニアなんかも参加しているのですが、職能を無駄使いしまくって青春していますね。昼はものづくり、夜は魔ものづくりって言っています(笑)。以前に墨田区のスタジオで滞在制作をしたのですが、新しくできた電気屋さんと勘違いした近隣の人など色んな人がやって来ました。子どももたくさん来る中で、僕は近所の発明お兄さんみたいな立ち位置になって、何も知らない子どもたちに電磁波について教えたり、ラジオ受信の愉しみをプレゼンしたり(笑)。そこにお婆ちゃんが現れて踊り出したり。そういうわけのわからないカオス空間が生まれることが滞在制作の面白さですね。あと、盆踊りというセレモニーの形で発表の場をつくることで、それまで日頃バラバラに散らばって動いていたもの同士が集って、新しい場が生まれるということも感じましたね。

「電磁盆踊り」 Photo:Mao Yamamoto

市原えつこ
作品制作のモチベーションは何ですか?

次回作では仮想通貨の要素も取り入れたいと考えています。最近、「ポトラッチ」という富の再分配や、贈与による権力誇示を目的にしたある地域の文化について知ったのですが、仮想通貨の仕組みを使って現代のポトラッチを祝祭の場で実現できないかなと。いまはビットコインなどを投機によるお金儲けの手段と考えている人も多いですが、合理的な生産システムや資本主義が崩壊したパラレルワールドをつくれないかなと思っているんです。現代社会では、お金や性的なものは俗物とみなされたり、タブー視されることが多いですが、実は神聖な場と密接に結びついているケースも多いし、これらをゆるやかにつないでいくことは私の創作テーマでもあります。例えば、祝祭の場におけるお金というものが、病魔を払ったりするまき塩的な存在になるかもしれないと妄想したりしています。

和田:その祭りは人が集いそうですね(笑)。ビットコインのことはちょっと勉強不足なのですが、ビットコインをマイニングしているハイスペックマシンが神輿に乗せられ、踊り子が巨大な扇でそれを仰いで冷ましているような状況があったら面白そうですね(笑)。そこはビットコインが流通している架空の村で、ビットを崇めているから挨拶などもすべてゼロ・イチのハンドサインで交わされるみたいな(笑)。僕のいる村と市原さんがいる村は地理的にかなり近そうですね(笑)。

「Open Reel Ensemble」

テクノロジーという同じ信仰対象を持ちながら、かたや音楽やパレードが盛んで、かたやお金や貿易が好きな村みたいな(笑)。ということは、今日の会話は村民の外交会議みたいなものだったんですね(笑)。

和田:そちらの村では、いまどんな思想が蔓延しているんですか?(笑) 一口にお祭りや祈りと言っても、豊作や健康、子宝祈願など色々な目的がありますが、市原さんの住んでいる村では何が一番徳をもたらすのでしょうか?

なるほど、そうやって考えていくと作品のイメージが固めやすい気がしてきました。そもそもお祭りに集まってくる人たちも村民みたいなものですしね。今日の宿題として、ビット村の村民の規則や世界観を考えてみようと思います。

和田:何百年も前から村に伝わるビットの徳(笑)。

作家の頭の中にあるのは、それこそ村の規則みたいなものかもしれないですね。そして、発表の場では全く異なる文化圏の村民にもそれを見てもらうことになるという。

和田:異なる文化圏の人たちが見た時に、「そんな村あるの!?」「そんな価値観あるの!?」っていうズレが生まれるようなことがあるといいですよね。

「電磁盆踊り」 Photo:Mao Yamamoto

メディアアートの醍醐味は、現実世界に食い込みながら、ひとつの歴史やパラレルワールドをつくっていけることだと感じています。「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」の本祭に行った時も、SFの世界や白昼夢を思わせるようなパラレルワールド感がハンパなかったです。

和田:捨てられた電化製品を奏でる部族が出てくる世界線ですよね。僕はもともと映画を撮りたい人間だったんですけど、実際に映画を撮るのは大変なので、その代わりに現実世界に投影する映画の1シーンをつくっているような感覚があります。過去と接続しながら、その先の物語を想像するような。市原さんの村でどんな物語が展開していくのかめちゃ楽しみです!

これを機に村同士の交流を深めていきたいと思っているので、今後もよろしくお願いいたします!

和田:ヴァ・ビット!


インタビューを終えて

最後に出てきた「村」という概念が何気に衝撃的で、ガラパゴス的に独自の文化圏、経済圏、思想、風土といったものが構想できるとしたら……と考えると、一気に思考の自由度が広がりました(現代の常識や倫理観ではありえない、と無意識に排除しているものが可能なものとして浮上する)。グローバルスタンダードに背を向けて、徹底的に土着的でミニマムな文化圏を構想することが、現代社会の代替世界を作り出すスペキュラティブ・デザインの機能を持っているということが驚きでした。私は何度か炎上経験があることもあり、ついポリティカル・コレクトネスの自粛フィルターがかかってしまう部分があるのですが、いったんは善悪や倫理の制約を外して、自由に思考実験をしてみようと思えました。
和田永さんの作品の最終アウトプットは「楽器」なのですが、作品の背後には大きな世界観や白昼夢のようなパラレルワールドが潜んでいるように感じています。それを可能にしているのが、「架空の村」的な人の営みを孕んだ立体感のあるイマジネーションだったのかもしれません。
つねづね「資本主義は宗教だ」と思っているのですが、現代の資本主義から逸脱した貨幣の捉え方を考えるべく、祝祭空間における贈与や、貨幣の歴史のリサーチをしようと思いました。
しかし、この「村」というワードへのときめき。。。私の前世は「村長の娘」だったと聞いたことがあるのですが、「村バイブス」のようなものがあるのかもしれません。

※インタビューを終えた市原さんが、和田さんとの対話からインスパイアされたアイデアスケッチを描いてくれました。詳細はこちらから。