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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

美術家・HOUXO QUEさんが、
キュレーター・上妻世海さんに聞く、
「ポストインターネット時代の美術展について」

2010年代以降のインターネットカルチャーを背景にした表現を続けている各分野のアーティスト、クリエイターを集め、日暮里・higure17-15casで開催された展覧会「世界制作のプロトタイプ」。展覧会のホームページなどを通して、開催前からそのプロセスを公開し、展覧会開催後も各方面から賛否両論さまざまな意見が飛び出したこの展覧会のキュレーター・上妻世海さんに、同展に参加したアーティスト・HOUXO QUEさんが鋭く迫ります。

HOUXO QUE
展覧会を企画した意図は何ですか?

「世界制作のプロトタイプ」を開催しようと思ったのはなぜですか?

上妻:もともと僕は、千葉雅也さんというフランス現代思想を専門としている哲学者の下で学んでいたのですが、それと並行して、マルチネレコーズのtomadくんや、アーティストのexonemo・千房(けん輔)さんらと知り合う中で、さまざまな問題意識が芽生えてきました。ひとつは、インターネットやクラブカルチャー界隈はまだパイが小さく、社会的な影響力を持ち得ていないのではないかということ。そして、もうひとつは、上の世代から、10年代のカルチャーは面白くないととらえられていることです。僕は、20歳の時にちょうど2010年だった世代なのですが、この時代のカルチャーに参加し、楽しんできた人間として、つまらないのではなく、わかっていない、言い換えれば、伝えきれていないだけなんじゃないかという反発心のようなものがありました。それなら自らが盛り上げ、同時代の文化を語り得るような枠組みを提示しようと考え始めたことが、今回の展示のきっかけです。つまり、同世代の間では趣味の共同体が細分化され、それがTwitterのようなプラットフォームによって消極的に支えられているので、バラバラになってしまっている。また、同時に、世代間による分断も大きいと思いました。その理由として、マーケットが小さいから注目しにくい、理解するための概念的な枠組みが提示されていない、などがあると思います。

実際に展示会への準備を進める段階では、どんなことを考えていましたか?

上妻:今回の展示では、細分化されてバラバラになった世界の中で、いかに共同性を立ち上げるかということが大きなテーマでした。その中で、キュレーターが作家に対して、こういう展示にしてほしいということを伝えるようなトップダウンのツリー構造ではなく、インターネット的なフラットな構造の中で相互作用が起こり、良くも悪くもコミュニケーションが連続していくような創発の過程、つまり作家同士のコミュニケーションから生まれていくものを展示したいと考えていました。その過程を視覚化するために、参加作家たちのチャットのやり取りをホームページに反映したり、展示に興味を持ってくれた人たちのSNS上の反応などを拾っていくなど、見に来てくれる人たちも巻き込んでいくことを意識しながら、展示をつくっていきました。認知科学者のフランシスコ・ヴァレラや、哲学者のジル・ドゥルーズは、異質なものたちが、お互いの自律性を保ちながら共存し、相呼応して共進化していくというヴィジョンを持っていたように思います。

実際に展示を見に来た人たちの中には、キュレーターの不在ということに対する言及などもありました。インターネット的なフラットな構造や創発性というものを形にしたかったということですが、現場では、展示の実装部分に対する指摘が多かったように思います。要は、もっと強度のある見せ方があるのではないかということですよね。そこには、そもそもインターネットの創発性というものが、実は物理的現実における強度のあるものではないのかもしれないという仮説が立てられるのと同時に、厳しい言い方をすれば、キュレーターの不在という指摘に対する上妻くんのエクスキューズとして、インターネットの創発性というものが使われているとも言えるかもしれない。その辺りについてはいかがですか?

上妻:進化論を例に出すと、生物の進化というのは最適進化ではなく、ナチュラル・ドリフト、つまり適当に進化してきたという歴史があります。その結果、環境に適応できたものは生き残り、そうでなければ死んでいくということを繰り返してきたのですが、僕が話している創発性というのは、このナチュラル・ドリフトの考え方に近いんです。つまり、もし何かしらの問題が起きた時に、生き残るためには変え続けるしかないということです。今回は、展示そのものを環境と適応する形でブラッシュアップしていくということを意識していました。
これは行為と環境の相互作用という問題系です。環境ははじめから与えられるわけではなく、行為によって環境が立ち上がる。また、行為も最初から与えられるわけではなく、環境からどのような行為を取るかということが決定されるわけです。具体的に言えば、何かアクションを取ることで、置かれている環境は変わるし、それによって次に取る行為の質も変化するわけです。認知と行為と環境という関係は、このような動的に変化する円環構造になっています。
また、これらの前提知識を背景に考えると、インターネットの創発性が実は強度のあるものではないというのは、ある意味では正しいです。ある意味では正しいというのは、ある一時点で時間を切り取って空間的に見た場合、専門的なディレクターによる設計の方が一人の意見しか反映されていないという意味で、一貫性と整合性を持った空間にはなるでしょう。
しかし、このようにナチュラル・ドリフトで産まれた行為が、他者の様々な意見を産むという環境を創発したことで、その環境が次の我々の行為を産み出すという動的な円環として見た時に整合性や一貫性はないものの、時間の流れを見ることができるでしょう。そもそも、僕たちは一貫性や整合性を時間的に担保された人生を歩んでいないはずです。
このプランでいくと、 最初からきっちり展示をするということは僕にはできないので、展示空間に関してはナチュラル・ドリフトを志向し、一方で技術面に関しては、テクニカル・ディレクターを入れて対応するという考え方で臨みました。

『世界制作のプロトタイプ』at higure17-15cas

HOUXO QUE
なぜポスト・インターネットなのですか?

「世界制作のプロトタイプ」では、ポスト・インターネットがテーマになっていますが、この概念に引きつけたのはなぜですか?

上妻:ポスト・インターネットというのは、2008年にマリサ・オルソンというキュレーターが言及するようになった概念で、インターネットとリアルというものが、かつてのように「こちら側」「あちら側」という二分法で割り切れるものではなく、SNSなどの普及とともに、ネットとリアルの境があいまいになってきた世界の状況を示しています。日本においては、2011年の震災以降、特にそうした状況が強まってきました。今回の展覧会に来てくれた人たちから、「これがインターネットっぽい表現なんですか?」と聞かれることも多かったのですが、特にインターネットに強い人を選んでいるわけではないんです。表現というのは社会構造とともに変わるもので、かつてチューブ型の絵具が普及したことによって屋外で絵を描けるようになり、印象派が生まれたように、ポスト・インターネットの社会が訪れた時に、それに合わせて変わる表現もあるはずだという思いから、そうした社会構造の変化とリンクした表現をしている作家を選んでいます。

インターネット文化を背景にした表現というのはこれまでもさかんに取り上げられていて、今回の展覧会もそうした文脈と比較されることも多いと思いますが、それらと比べた時に、「世界制作のプロトタイプ」の新規性というのはどんなところにあるのですか?

上妻:ツイッターの反応などを見ると、「破滅*ラウンジ」との比較が多いのですが、この企画が開催された頃のインターネットの状況は、非常にドメスティックでガラパゴス的でした。そこには、特殊な環境下で進化したある種の強度があったと思うのですが、今回の展示では、言語ではなく、画像や音声データを媒介としたコミュニケーションが、TumblrやSoundcloudなどによって展開されるようになった後の状況を示したかったという思いがあります。今回の展示のキーワードでもある「他者性」というところにもつながるのですが、ある種の画像や音楽というものが、日本とは異なる国の人たちと接触することで全く違うものに変化するなど、現在のインターネット環境が解釈可能性を広げているという状況があります。それによって新しい表現が生まれるという正の側面がある一方で、「ISISクソコラグランプリ」のように、画像や動画によって簡単にイメージが広がっていくということの負の側面もある。そうした社会状況の中で生まれる表現というものにフォーカスを当てているのが、この展覧会の特徴です。

そうした社会状況そのものを展示会場に反映しようとしているのか、もしくはそういう環境を背景に持つ作家たちの展示ということなのか、その辺を明確に伝える装置が見えなかったことが、混乱を呼ぶことになってしまったのではないかという気がします。

上妻:いま話したような社会状況がそのまま見えるような空間にしようとは考えていませんでした。僕は、それを見た瞬間にすべてがわかるような直接的な表現というものが好みではなく、ある程度読み込まないとわからないものの方が好きなんです。そこには問題意識もあります。ベンヤミンの『複製芸術時代の芸術』という有名な著書があります。内容を簡単に要約すると、ある対象(彫刻など)、ある対象についての表現(彫刻の写真)、表現(ヤバいとか凄い)という3段階に分けると、ある対象がもっともアウラがあり、ある対象についての表現が次にアウラがあり、ただの表現にはアウラがないわけです。
この問題は、物語か刺激かという、東浩紀さんが提示した問題系とも繋がってくるのですが、動物的な消費傾向だと、とにかくヤバいもの、カワイイもの、エロいものが求められます。つまり、その背景にあるものや、そこで動いている物語や意味には価値がないんです。例えば、統計的にもっともPV数を稼げるのは、エロサイトとバイラルメディアなんです。そして、そのバイラルメディアは「〇〇が今、ヤバい」とか「〇〇が今、熱い」というタイトルで人々を釣るんですね。
先ほどから、僕は何度か「空間ではなく、時間へ」という主旨のことを話していますが、90年代に宮台真司さんが「意味から強度へ」というスローガンを挙げ、その後に「動物化」という概念を東浩紀さんが提出しました。こういう歴史的な背景を前提にすると、今さら意味への回帰は難しいでしょう。意味と強度の間にあるのは、時間なんです。意味は、様々な背景や行為の連鎖によって生まれるものですが、それは本来的には生成し続けるもの、時間的なものです。
だから僕は、制作者と消費者という二項対立ではなく、いつでも参加することでこの二項対立を左から右へと移行できる体制を作りたいと思いました。時間と物語の中に参加してくれる人はすべて参加者なんです。ホームページ上に作家たちの議論の過程を反映させたこともそうですが、今回の企画は、プロセスアートというか、リレーションを結んでいくことで拡張していく類のものだったので、展示空間を見ただけではわかりにくいところがあったかもしれません。なるべくプロセスの段階から参加してもらえるように、事前にラジオ番組やDOMMUNEなどに出演したり、QUEさんとの対談記事を公開するなどしたのですが、それでも説明不足だった点があったのかもしれません。一方で、会場でDJをしたいと言って積極的に関わってくれた人たちもたくさんいました。一定の人たちには伝えたいことが届いたと感じていますが、一般的なホワイトキューブの展示の見方に慣れている美術業界の人たちには、なかなか理解されにくかったところもあり、そこは次の課題として受け入れたいと思っています。

HOUXO QUE
キュレーションで何を伝えたいのですか?

上妻くんが美術展のキュレーションを通して、現代の社会やそこに生きる人たちに対して問いたいことや価値観というのはどんなものなのですか?

上妻:先ほどもお話ししたように、僕の中に一貫してあるテーマは、バラバラになってしまった社会の中で、いかにしてもう一度共同性を立ち上げられるかということです。震災後、マスメディアは絆という言葉を連呼していましたが、それももはや機能していないように感じます。ナチス研究などを通じて生まれた「埋め合わせ理論」というものがあるのですが、これは正しい国家や家族というのは、それが変容したり、喪失した時に、共同幻想としての正しい国家像、家族像が埋め合わせ的に立ち上がるという考え方です。ただ、バラバラになった社会の間で生まれる共同幻想というのは、安直な形でポピュリズムにつながり、ネトウヨなどが生まれてくるという危険さがある。では、そうしたポピュリズムを経由することなく、どのように共同性を立ち上げるのかというテーマのもと、キュレーションをしているところがあります。

美術展を通して共同性を立ち上げるというのは、どういうことなんですか?

上妻:「共同性」と「目的性」というふたつの軸から物事を考えているアクセル・ホネットというドイツの哲学者がいるのですが、彼は、目的があることによって初めて共同性が生まれると言っています。わかりやすい例えを出すと、「キャプテン翼」というマンガは、全国優勝をするという目的のもとに、事後的に友情の物語が生まれているという図式がありますよね。逆に、共同性を高めること自体を目的にしてしまうとなかなか難しいところがあって、「仲良くしようぜ!」と言われても暑苦しい(笑)。そういう意味で今回は、展覧会というひとつの目的に対して14人の作家たちがコミュニケーションを重ねることで立ち上がる共同性というものをどこまで生成できるのかということがテーマでした。そうした実験的な側面も大きかったので、果たしてそれがうまくいったのかということは、これから問われていくことだと思っています。

展覧会をつくること自体が目的ではなく、本質的にはそうした共同性というものを生成したかったということですか?

上妻:そうはいっても、真に共同性を保つためには、真剣に展示をしないといけないんです。友だちになるために展示をしようと思っても、それはうまくいきません。だから、全力を出し切るつもりで自分も展覧会に参加したし、それがなければ破綻してしまうんです。そういう意味でも色々と花火をぶち上げたところがあったし、それによって物語をどんどん生成していきたかった。それは、国家主義に結びついてしまうような大きな物語でもなく、90年代に宮台真司さんが提唱した「終わりなき日常」という、物語が駆動しない退屈な日常が続く世界でもなく、その中間をいかにつくれるかということなんです。そのためには、ある種の小さな物語を起動するための装置を、できる限り用意するしかないのではないかということが、今回の展覧会で問いたかったことなんです。