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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

キュレーター・上妻世海さんが、
美術家・HOUXO QUEさんに聞く、
「作品とアイデンティティの関係性」

先日、Gallery OUT of PLACE TOKIOで開催されたアーティスト・HOUXO QUEさんによる現代美術ギャラリーでの初個展「16,777,216views」。ディスプレイに同時に表示できる最大数である16,777,216の色が、1秒間に60回のペースでランダム変化し続けるモニターに、蛍光塗料による抽象的なペインティングを施したQUEさんの作品が生まれた背景を中心に、同時期に彼が参加したグループ展「世界制作のプロトタイプ」のキュレーター・上妻世海さんが聞きました。

上妻世海
初個展はいかがでしたか?

QUEさんはグラフィティから活動をスタートし、ライブペインティングや、絵画作品の展示など、さまざまなキャリアを積んでこられましたが、今回初めての個展をされてみて、どんな感想を持たれましたか?

QUE:過去にもオルタナティブスペースで展示をすることはあったのですが、現代美術のギャラリーでの個展は今回が初めてだったので、作法の違いをかなり感じました。これまで僕が取り組んできたグラフィティやライブペイント、企業とのコミッションワークというのはぶっつけ本番感が強く、現場に行かないと何もできないところがあるんですね。逆にアートギャラリーで展示をする際には、その前段階の仕込みがものを言うので、強度のある作品を現場に実装するためにイメージを高めていくことが大切で、その違いはあったと思います。僕は現代美術のキャリアを積んでいないこともあり、最初は「こんなのが美術だと思っているのか!」と説教されるんじゃないかという恐怖心がありましたが(笑)、今回の作品ではディスプレイそのものを美術的に扱おうとしていたことを、個人的には意外にも正面から受け止めて頂けていると感じています。

今回のようなホワイトキューブでの展示は、ライブペイントやグラフィティなどとどんな違いがありましたか?

QUE:例えば、ライブペイントや、廃ビルを使って行われた「BCTION」などの場合、空間やシーンにオルタナティブな面白さが備わっているわけですが、それをそのままギャラリーに持ち込んでも僕としては面白くなるとは思えません。例えば、グラフィティをホワイトキューブに持って行っても、核となる運動性というものが失われてしまうし、ライブペイントにしても、暗闇の中で人々が爆音に身を委ねているクラブという空間だからこそ、身体性の美しさがあらわになるところがある。だから、今回の展示では、グラフィティやライブペイントにおける運動性や身体性というものを現代美術という枠組みの中で組み直す作業が必要になりました。グラフィティが街中で強く見えるのは、グラフィティライターたちが、都市空間の中で何かを更新するために運動を行っているからだと思うんです。一方でホワイトキューブには、更新する対象がそもそもない。その中で、都市とは違う意味で現代社会を象徴している対象としてモニターというメディアを選び、その上に絵具を定着させていったんです。

QUEさんには、僕がキュレーションしている「世界制作のプロトタイプ」にも参加して頂いていますが、個展とグループ展の間には意識の違いはあるのですか?

QUE:個展では、僕が世に問いたかった価値を美術的な枠の中で届けようと考えていたので、空間の中で作品だけを見せていくことを心がけています。一方で、「世界制作のプロトタイプ」では、個展のような空間強度が高い展示をつくっていく時に切り捨てられがちな情動的な部分や私的な倒錯なども含めて、空間の中でインスタレーションとして表現することを意識しました。上妻くんが出してくれた「世界制作のプロトタイプ」のステートメントによって引き出された部分もあります。そこに示されていた他者性や創発、またインターネット以降の価値といった概念というものを自分なりに理解しようと努めた上で、僕の私的な感情や作品を、どのようにして他者と関係させられるのかということを考えながら、制作に取り組みました。それは例えば、作品のプロジェクションが他の作家を巻き込んでいくことや、展示空間そのものを航行可能な空間と捉え、自身の作品だけでなく他者の作品の照明を操作したり設営場所を変えていくことでアップデートパッチをあてるといったことなどです。

上妻世海
なぜディスプレイに描くのですか?

今回の個展にも言えますが、QUEさんの作品は、蛍光塗料やブラックライト、ディスプレイなど、ペインティングにはあまり使われないメディウムが用いられています。この辺りについてお聞きしたいのですが、まずはなぜ蛍光塗料を使っているのかを教えて下さい。

QUE:屋外空間で行われるグラフィティでは、一般的にスプレー缶が使われますが、それを室内に展開しようとした時に、スプレーを使う必然性はなくなるんですね。なぜ屋外でスプレーが使われるかというと、広範囲をきれいにフラットに早く塗ることができ、また吹き付けることで対象との摩擦にとらわれることなく、抑制のない動きで表現できるメディアだからなんです。室内の場合は警察が来て捕まるリスクなどがないので、特に早く塗る必要性はない。さらに言えば、屋外では照明を自分で操作することも難しい。であるならば、都市空間で行われるグラフィティでは実現できないメディウムを使うべきなんじゃないかというのがひとつの理由です。また、僕は1984年生まれで、パソコンやインターネットなど情報空間の発展を見ながら思春期を過ごした世代で、自分の原風景の色彩は、RGBによるものなんです。さらに、東京で育った僕は、都市のネオンサインや渋滞している車のバックライトなど、「ブレードランナー」的なイメージに囲まれてきたこともあり、消費文化の象徴とも言えるこれらの色彩からインスピレーションを得て、蛍光塗料で表現した「Day and Night」という壁画シリーズを展開するようになりました。

今回の個展で使われているディスプレイに注目したのはなぜですか?

QUE:テレビなどにも言えるのですが、外側にフレームがあり、その内側にイメージが映されるディスプレイというものが、絵画の様式に似ているという単純な気づきが始めにありました。そうした絵画的な見地から見た時のディスプレイというメディアの面白さは以前から感じていたのですが、すぐにそこにペイントをしようと考えていたわけではありませんでした。その後、東日本大震災が起こり、僕らは津波や福島第一原発の事故の経過などの映像を、パソコンやスマートフォンなどのディスプレイ越しにリアルタイムで体験することになります。その時に、それまでのように新聞やテレビなどを通してニュースを知ることとは違う感覚を覚え、特に震災以降インフラ的な整備が行われた結果として急速に広がったSNSを含めたインターネット空間の中では、自分がその映像や情報に対しては傍観者ではいられなくなったような気がしました。それは画面の中に自分のアカウントが存在しているということとおそらく関係していて、決してその場にいたわけでもない事柄から起こる情報そのものに自分のアカウントがファースト・コンタクトをしてしまっている。ディスプレイというものが現代社会の中で引き起こすリアリティというものを生々しく得たんです。

ディスプレイの上に抽象的なイメージをペイントするようになるまでの経緯も教えて下さい。

QUE:人々は膨大な量のイメージをディスプレイ越しに見ていて、ここに示すことができない図像というのは存在しないのではないかと思ったんですね。その中で、「Day and Night」の時に描いていた花をはじめ、ひとつの図像を定着させる必要があるのかという疑問が生じ、抽象的な表現に向かっていきました。また、TwitterやFacebookのアカウントをはじめ、インターネット空間にはさまざまな自分が存在し、分人化が進んでいる現在の状況を考えた時に、画面の向こうには常に現実の自分と異なる人格というものが生成され続けているんじゃないかということを感じたんです。ただ、画面の向こう側には触れることは物理的に不可能です。その中で、可能な限り画面の向こう側に接近する、つまりディスプレイそのものにペインティングをするという身体行為によって何かしらの図像を浮かび上がらせ、現実とネットの二項対立に陥らない領域を示すことができるのではないかと思い至りました。その媒介として、ディスプレイのRGBとともに光る蛍光塗料は画面上に存在していると考えています。また、これは僕自身の態度というか衝動に関わる部分なのですが、SNSなどを通じて色々な人と出会えるインターネットは、現代におけるストリートなのではないかという仮説のもと、ディスプレイにペイントすることを、ストリートにボミングすることのメタファーにしているところもあります。

上妻世海
作品を通して何を伝えたいですか?

QUEさんのつくる作品は、ご自身のアイデンティティとどのような関係性があると感じていますか?

QUE:父が日本人、母が中国人、祖母が台湾人、曾祖母が韓国人である僕には、日本、中国、台湾、韓国というさまざまなルーツがあります。異なった文化が交差する状況で育まれた価値観があるのですが、むしろそれは衝突し、相殺し合った状況で、それぞれの固有性というのが消失したような状況でした。グラフィティ、ライブペイント、インターネット、ペインディングという領域の横断をしてきたのは、そういったものの反映かもしれません。そうしたある種のとりとめのなさというものを画面に定着させることで、ひとつの美意識を示したいという思いがあります。先ほどもお話ししたように、ペインティングではあまり使われない蛍光塗料やディスプレイというものを用いるのは、ストリートからインターネットまで、異なる文化を経由し続けてきた自分の中から生まれた価値観を示すと同時に、その交差する地点に作品を自立させ、僕らが生きている社会の現実を提示するためだと考えています。

作品が持つ個人性と社会性のバランスについては、どのように考えていますか?

QUE:先ほど、ディスプレイの中に生成される自分とは異なる人格の話をしましたが、そうした考えに思い至るもうひとつの理由として、自分が普段遊んでいるネットゲームがあります。ディスプレイの中では、自分のアバターが戦士として走り回ったり、美少女と恋をしたりするのですが、向こう側にいる自分というのは強くて最高で、意識的にも無意識的にもこちら側の自分以上のものになってしまうんです。そこで感じていたギャップというのは、個人的な倒錯とも言えるもので、社会に問うべき問題ではないだろうと留保していたところがあったのですが、SNS時代と言われる現在の状況の中で、僕が感じているこの感覚は、個人的なものにとどまらないのではないか、それは例えばTwitterで語る自分は現実よりも雄弁なこと、自撮りの自分はアプリのレタッチ機能でより鏡に映る自分よりも美しいこと、Facebookの自分は現実よりも良い食生活をしていること、などといった私たちの社会全体に漂っているものなんじゃないかと考えるようになりました。

今回の制作、展示を通して、何か新しい発見はありましたか?

QUE:今回の個展のために制作した作品は、ディスプレイを点灯させた状態で描いたものなのですが、常に画面の色が変化するようになっているので、余白のバランスなどコンポジションを考えることが難しく、自分でも何を描いているかがわからなくなるんですね。あらゆるものを示すことができるディスプレイというものに、自分自身を反映させることの困難さを感じ、かなり思い悩みました。ただ、絵具が乾いて定着した時に、薄く透けている箇所では、蛍光塗料と画面が放つ光の間の中間地点とも言える曖昧な領域が発生したんです。物理的に画面の向こう側に行けないことは自明でも、画面の向こうから放射される光に対して、こちら側で関われたという感覚はあった。2.7次元くらいの曖昧な領域を設定することがバッファをつくることになり、そうした地点から世界を見るということができるようになるのではないかと感じました。こうした価値観というものが、いまこの世界に生きている僕たちにとってひとつの選択肢になり得るのではないかなと思っています。