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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

映像作家/アートディレクター・喜田夏記さんが、
俳優・オダギリジョーさんに聞く、
「表現者としての心構え」

今回インタビュアーとして登場するのは、TVCM、ミュージックビデオ、アニメーションなどの映像ディレクションから、パッケージやテキスタイルなどのデザインまでを手がける喜田夏記さん。そんな彼女がインタビューするのは、「アカルイミライ」「メゾン・ド・ヒミコ」「ゆれる」「東京タワー」をはじめ数々の映画に出演し、日本映画界において唯一無二の存在感を放つ俳優・オダギリジョーさん。音楽活動も行うオダギリさんが、バンド・勝手にしやがれとコラボレートした「チェリー・ザ・ダストマン」のミュージックビデオの監督を手がけて以来、公私に渡って交流を続けている喜田さんが、オダギリさんの知られざる一面に迫ります。

喜田夏記
映画とCMの違いは何ですか?

最近は、ミュージックビデオよりもCMの仕事をする機会が増えているんですが、オダギリさんは、役者として映画に出ることをメインのお仕事とする一方で、CMにも出ていますよね。CMを撮っていると、やっぱり役者さんからは特別なパワーを感じるし、CMとはいえ、コメントする時の気持ちやキャラクター性を掘り下げていく人が多いんですよ。オダギリさんとはまだCMの仕事は一緒にできていないですが、映画とCMではスタンスの違いはありますか?

オダギリ:例えば、映画やドラマというのは、自分で選んで見るものじゃないですか。一方でCMは、意識していない時にふと目に入って来るようなものですよね。ある意味無防備な見せられ方をするということも含めて、下手なことをしたら痛い目を見るというある種の怖さがあるんですよね。だから、より慎重に向き合っている部分があります。

それが広告の怖さであり、強さでもありますよね。たかだか15秒だとしても、それだけ影響を及ぼすものだから、制作陣とキャストがちゃんとディスカッションして作るのが理想だと思うんです。でも、タレントさんとは事前に話す時間があまりないことがほとんどで、現場でも撮影時間が短いから、なかなかじっくり追求して作るのが難しいのが現状ですよね。私はもともと広告業界にいた人間ではないけど、広告を作る時でも自分なりのメッセージやストーリー性が出せるものをやりたいなと思っているんです。それによって広告業界に少しでも自分流の風を入れられたらいいなと思うし、さらっと流れてしまうようなものは作りたくないんですよね。

オダギリ:せっかくお金をかけて、優秀なスタッフや機材を揃えて作るわけだから、さらっとしたものを作っている場合じゃないですよね。喜田さんのようにちゃんともの作りができるアーティストが然るべき予算とスタッフを使って、自分の世界を表現するというのがベストだと思います。僕自身、CMの仕事をしていても、もの作りを大切にしている企業やクリエイターと一緒にやれると凄くうれしいですからね。

「ディア ジャングル」CM Dir.喜田夏記 ©Japan Gateway 2013

私は、オダギリさんのプライベートな表情を知っているだけに、CMとかで見せる表情が普段見たことのないものだったりする時があるんですね。「これは一体何モードなんだろう?」と(笑)。オダギリジョーという一人の人間が、映画、CM、ドラマ、ドキュメンタリーなどさまざまな場所に出て行く時に、自分の中の引き出しを使い分けている感覚ってあるんですか?

オダギリ:CMの場合は、さっきも話したように時間帯や状況に関係なく流れてくるもので、無意識のうちに目にしてしまうものだから、そこであまりコアな部分を出しても拒絶されてしまうと思うんですね。ある意味お客さんを選べない場所だから、全体的に平たいものを出そうとしているところはあるかもしれないですね。もちろん作品によりけりで、挑戦的なことが許される場合は喜んでやりますが、基本的には老若男女すべての人に受け取ってもらわないといけないものですからね。そこで自分が好きなことだけをやっていても受け取ってもらえる範囲が凄く狭くなってしまうと思うんです。そういう意味では、やっぱり仕事によって使い分けているところがあるのかもしれないですね。

喜田夏記
なぜ自分で音楽を創るのですか?

オダギリさんは音楽が凄く好きで、ご自身でもCDを出したりしていますよね。初めて会った時もトム・ウェイツを敬愛しているという共通点があることがわかって、それだけで一気に距離が縮まった感覚がありました。有名だけど偏りがあるトム・ウェイツのような人だからこそ、余計親近感が湧いたんです。音楽というのは映画とも密接なものですけど、やっぱりオダギリさんにとって大きな存在なんですか?

オダギリ:かなり大きいと思います。映画にしても音楽の入れ方で一気に印象が変わりますしね。芸術ということで考えても、あれほど直接的に影響を生む表現に対して魅力を感じますね。

『さくらな人たち』監督: 小田切譲 (C)2008『さくらな人たち』フィルムパートナーズ DVD発売中 発売元:スタイルジャム

ご自身が監督した映画の中でも音楽を作っていましたが、例えば、自分が信頼しているミュージシャンに音楽を任せるということはないんですか?

オダギリ:自分が作るよりもこの人に頼んだ方が絶対良いと感じたらお願いすると思いますが、自分が作る映画などの場合、その世界観を一番理解しているのはやっぱり自分だから、音楽も自分で考えてしまうところがあるんですね。あと、音楽に頼りすぎることも怖いと思っていて、余計な音楽は入れたくないという感覚もあるので、なかなか人に頼みづらいというのもありますね。

勝手にしやがれ+オダギリジョー「チェリー・ザ・ダストマン」 Dir:喜田夏記

私も音楽は大好きだけど、自分が作ることはないので、あくまでも鑑賞者という立場なんですが、映像と音楽は切っても切れないものだし、共通の友人でもある「勝手にしやがれ」の武藤(昭平)さんをはじめ、ミュージシャンの存在というのは凄く敬愛しているんです。

オダギリ:僕は音楽に関しては勉強もせず、自分の感性だけでやってきたところがあるんですね。でも、勝手さん(勝手にしやがれ)なんかとお仕事をさせてもらうと、やっぱり知識の幅が凄く広いと感じるし、武藤さん自身はパンクな人なのに、クラシック音楽とかもちゃんと理解していて、そのなかでああいう曲を作っているから全然深みが違う。そういう裏付けがある人は本当に信頼できますよね。

それでいうと、オダギリさんは役者というひとつのプロフェッショナルを追求しているわけで、その大変さというのは分かっていますよね。

オダギリ:そうですね。ただ、そこにあまり強いプライドを持ちすぎるのは良くないと思ったりもしますけどね。

でも、やっぱりオダギリさんにも簡単に真似できない下積みがあるから、現在のような仕事ができているんだと思うし、そこにプライドはあって然るべきだと思いますけど。

オダギリ:もちろんそういうプライドはありますよ。ただ、たまにとんでもない天才って出てきますよね。そういう人が出てきた時に、一気にひっくり返されてビックリしたりしますよね(笑)。

喜田夏記
海外の仕事は何が面白いんですか?

オダギリさんの活動を見ていると、仕事を選ぶ観点が素晴らしいなと思うんです。例えば、ヘルツォークの映画のナレーションをやったり、「じゃりン子チエ」のはるき悦巳さんの短篇集の推薦文を書いたりしていて、これらはオダギリジョーという存在がメインで出る仕事ではないけど、作品自体の質をしっかり上げていて、独特の仕事の選び方をしているんだなと。

オダギリ:そう言ってもらえるのは凄くうれしいです。そこにも自分のプライドみたいなものがあるのかもしれないですね。ヘルツォークにしても、はるき悦巳さんにしても、僕が彼らの作品を好きだと知ってオファーをしてくれたんですが、そうであれば余計にがんばりたいですし、やっぱり自分が好きなものの仕事をするのが一番いいじゃないですか。

「マイウェイ 12,000キロの真実」(C) 2011 CJ E&M CORPORATION & SK PLANET, ALL RIGHTS RESERVED

最近は積極的に海外の仕事をやっているように思うんですけど、何か意識があるんですか?

オダギリ:日本で仕事をしていると、やっぱりオダギリジョーという何となくのイメージがあるじゃないですか。でも、海外の人と仕事をするとそういうものがほとんどないので、まっさらな目で見てくれるところに自分という素材だけで飛び込んでいける感覚があるんですよ。僕が何をしてくるかも向こうは全く予想していないし、そこで勝負できるのが面白いんですよね。

日本ではオダギリジョーというイメージが確立され過ぎている分、それに応えないといけないという余計な意識も働いてしまいそうですよね。

オダギリ:そのイメージ以上のものを返すか、もしくは裏切るかして、何かしら答えを出さないといけない。でも、海外だと感じたままを出せばいいというところがあるんです。ゼロからのスタートですから。あと、日本でやる場合はこれまでの経験もあるから、下手に甘えてしまうこともできちゃうんですよね。すでにそこそこ仕事をやってきていて、中堅的な扱いをされるわけですけど、そこに対する気持ち悪さみたいなものもあって。

私もオダギリさんと年齢が同じだから、その感覚は凄く良くわかります。ある程度仕事を理解できるようになってくると、死に物狂いでやっていた若い頃みたいに本当に100%の力を出せているかわからなくなることがあるんですよね。そこは自分で見極めていかないといけない。その話とも関係するんですけど、最近テレビで子ども向けのアニメーションを作っているんですね。これから育っていく新しい才能に何を伝えられるのか、まだピュアな子どもたちに少しでも良い影響を与えられるものが作れたら素晴らしいなと。20代の頃はとにかく自分のことで精一杯だったけど、最近はそういう思いが強まっているんです。

オダギリ:僕のいる世界はどんどん若い俳優が出てくるし、世代が変わるのも早いんですよね。僕も30歳になった頃から新しい次の世代のために何をするべきかを考えるようになりました。自分が永瀬(正敏)さんや浅野(忠信)さんらを見て、カッコ良い仕事の仕方をしないとダメだと思った世代として、下の世代にもそう感じてもらいたいというのはありますね。

喜田さんが取り組んでいる子供向けアニメーションシリーズ「Liv&Bell」。NHKプチプチアニメにて連載中。©Natsuki Kida・NHK・NEP

喜田夏記
映画を観なくなったのはなぜですか?

オダギリさんは最近も映画はよく観るんですか?

オダギリ:昔は凄く観ていたんですけど、ここ5年くらいはほとんど観なくなりましたね。先日久しぶりに映画を観て、それは自分も参加させてもらった黒沢清監督の「リアル」だったんですけど、凄く良かったんですよ。もともと黒沢監督の「アカルイミライ」が初めて主演映画だったこともあるし、ずっと敬愛している監督なんですが、作品を観て「やっぱり流石だな」と思った時点で、影響を受けちゃっているわけじゃないですか。「この撮り方が黒沢監督なんだよな」とか、そういうことを感じること自体、ある意味勉強になっているんですね。そういう重なりが、自分が表現する時にも出てしまう気がするんですよ。昔は好きな監督の作品はどんどん見ていたんですけど、最近はそういうことがなくなりましたね。

「リアル~完全なる首長竜の日~」 大ヒット上映中 (C)2013「リアル~完全なる首長竜の日~」製作委員会

それはすでにオダギリジョーのオリジナルというものが完成されつつあるからということなんですか?

オダギリ:いや、むしろ完成しない方がいいと思っているんですよ。ずっと僕の中でジレンマがあって、それは知識が感性を鈍らせるということなんですね。わかればわかるほど技術で逃げられるようになるじゃないですか。そういうところに行きたくない気持ちが強くて、映画にしても芝居にしてもわかっていくことが嫌なんです。できれば感性だけでやっていたいし、ものを知らないことの強さみたいなものがあると思うんです。

たしかに知らないが故の強さというのはあるし、わかってしまうとできないことが生まれてしまって、それが表現においては足かせになる時もありますよね。何もかも恐れずにぶっ飛んだ表現をするか、常識の範囲を越えてしまうところまで行くかして制約を壊していかないと、表現としてつまらなくなってしまうのかもしれないですね。

オダギリ:物分かりが良くなり過ぎるのが嫌なんですよ。いま自分が俳優として関わる仕事は、監督やプロデューサーの作りたいものに対して、自分がいかにプラスアルファを提示できるかということを第一に考えるんですね。もちろんそれをするためには、自分が身を投げられるくらい信頼できる相手であることが前提なんですけど、基本的にはその人のためにやるという意識が強いんです。でも、20代の頃は監督が求めてくることを拒否してでも自分がやりたいことをやっていたところがあったんです。結局それはお互いにとって良くないと気づいて変わっていったんですけど、逆にその無茶苦茶なやり方も悪くなかったのかもしれないと思うところもあって。たまたま目にした昔の作品とかを観ていると、よくこんなメチャクチャやったなという恥ずかしさもありつつ、こいつ凄いなという思いもどこかにあるんです。

喜田夏記
どこまで「オリジナル」でいられますか?

私はもともと映画が好きで映像の仕事を始めたので、いつか映画を撮りたいという思いがあるんです。オダギリさんともよく話しますが、映画は長く残るものだし中途半端に手を出すべきではないとは思っているんですけど、映画を撮る時は当然ながらオダギリさんでアテ書きをすると思います。残された人生の中でそう何本も作れるものではないと思っているからこそ、堂々とオダギリさんにオファーできるような作品を用意したいなと。

オダギリ:喜田さんが作りたいものというのは絶対に日本だけでは収まらないだろうし、世界の映画祭とかで勝負しないといけない作品だと思っています。喜田さんは職業監督ではないわけですから、どうしても作りたいと思った作品を、作れるタイミングで絶対作った方がいいと思いますね。

そうですね。映像の仕事に携わってきて、本当に好きなものって変わらないんだなと最近感じます。20代の時に観て「こういう映画良いな」と感じたような作品を自分でも撮りたいなと。

オダギリ:よく思うんですけど、やっぱり僕らは影響を受けたものの中でしか作れないんですかね。例えば、映画というものが生まれて100年ちょっと経っているわけじゃないですか。これまでに色んな映画が作られてきて、その中から僕らは好きな作品を選んで観てきているわけですけど、結局そこで受けた刺激や、無意識のうちに刷り込まれた趣向みたいなものからしか自分の表現を出すことができないのかなと。理想論かもしれないけど、何の影響も受けないオリジナルの表現というのはあり得ないのかなと考えたりして、ちょっと悔しくなることがあるんですよね。

「さくらな人たち」撮影風景

いまオダギリさんがやっていることは、人間としてのオダギリジョーが色んな刺激を受けてきた結果だから、100%オリジナルを追求するというのは難しいのかもしれないですね。もちろん影響を受けたものをそのまま模倣するのはオリジナルとは呼べないけど、自分のフィルターを通して表現していければいいんじゃないかなと私は楽観的に考えていて、喜田夏記のフィルターを通して出るものはオリジナルなんだと思い込んでいるところがありますね。

オダギリ:例えば、「この映画のこの俳優の演技」というものをエキスとしてもらってきているわけじゃないですか。自分が演じる時にそれをイメージして臨むこともあるわけで、自分のフィルターを通すとはいえ、相当な影響を受けているわけですよね。自分が映像を作る立場になる時でも、「あの時のあの映画の雰囲気」というものが無意識に出ているのかもしれないし、「一体自分のオリジナルはどこにあるんだろう?」という気になっちゃうんですよ。音楽を作る場合も同じで、すでにある特定の音楽を再現しようと思っていること自体オリジナルじゃない気がして、自分の中でわだかまりみたいなものができちゃうんですよね。

本当にストイックですね。でも私が映画撮るまでは、役者辞めないでいてください。たまに冗談で辞めるとか言ったりするから。

オダギリ:でも、そのくらいの感覚じゃないとやっていけないんですよ(苦笑)。

万が一引退していたとしても、私が撮る時は「オダギリジョー復帰作」として戻ってきてくださいね。


インタビューを終えて

今日オダギリさんにインタビューして一番の収穫だったのは、最近彼が海外の仕事に積極的に取り組んでいる理由を聞けたことでした。オダギリさんも私ももう若手という年齢ではないし、気づいたら中堅と呼ばれるくらいの立場になっていて、若い頃に自分が立てた目標に近づきつつあるなかで、これから先何を目指していくかというタイミングだと思うんです。今日オダギリさんが話していたことは、自分もここ数年考えてきていることで、凄く共感できました。
物分かりが良くなりすぎるのが嫌だという話も、まさにその通りだなと思いますね。映画にしても、CMにしても、集団で何かを作っていく上では、それぞれにあるべき立ち位置というものがあって、仕事を重ねていくほど、その立ち位置を把握していた方が、仕事が上手くいくということがわかってくる。ただ一方で、そういうことを何もわからずにやっていくことで生まれる力というのもあると思うし、もっと破天荒にやった方があり得ない何かが生まれるかもしれない。色々なルールを知って、物分かりが良くなってきているいまだからこそ、そこは凄く考えるところなんですね。
オダギリさんとは年齢も同じだし、会って話をする度にいつも問題意識が近いなと感じるんですが、今日もまさにそんな話を聞くことができたと思います