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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

美術作家・梅沢和木さんが、
アニメーション作家/劇団イヌカレー・泥犬さんに聞く、
「個人的なアニメーションをつくる理由」

カンバセーションズにはインタビュアーとして2度目の登場となる現代美術作家の梅沢和木さん。その梅沢さんが今回インタビュー相手として選んだのは、『魔法少女まどか☆マギカ』における異空間設計をはじめ、『ニセコイ』『偽物語』『うさぎドロップ』など数々の作品に関わってきたアニメーション作家ユニット「劇団イヌカレー」の泥犬さん。メディアやアプローチこそ違えど、同じコラージュという手法を用いて独自の世界観を構築してきた泥犬さんに、アニメーションの世界にも精通する梅ラボさんが迫った貴重なインタビューをお届けします。

梅沢和木
どんな経緯で活動を始めたのですか?

劇団イヌカレーはどういう経緯でスタートしたのですか?

泥犬:とりあえず仕事を辞めて個人的な活動をしていきたいと考えていたところ、同じように考えていた2白犬とタイミングが合い、せっかくだから一緒にやろうと始めました。ちょうどその時に2白犬が依頼された仕事があり、じゃあそれも一緒にやろうということになって、現在に至ります。もともと商業アニメーションは全く意識していなかったのですが、その後も専門学校時代の同級生だった演出家の宮本幸裕から、『獄・さよなら絶望先生』のオープニングアニメーションの制作を頼まれたことがきっかけでシャフトの仕事をするようになり、たまたま現在まで仕事が続いているという感じです。

劇団イヌカレーさんのような手法を商業アニメーションの世界でやっている人は他にほとんどいないと思うのですが、それについてどう思いますか?

泥犬:もし自分たちがやっていなければ、きっと近いうちに他の誰かがやっていたと思いますし、これも運が良かったのだと思っています。犬も、専門学校時代には商業作品のアニメーターを目指していたのですが、途中で性格が圧倒的に向いていないと気が付き、これは無理だと感じました。そこから紆余曲折あっていまのような感じになったのですが、別にイヌカレーの制作スタイルで商業的に食べていけるとは思っていませんでしたし、いまもそう思っています。改めて振り返るとラブコメ主人公レベルの運気です。いつまで続けられるか未知数ですが、いざとなれば個人で作品を制作しつつ、公園の鳩を調教して小銭を稼ぐことで生活が成り立てば良いです。

泥犬さんとは、先日の展覧会で共同制作をしましたが、このような形で作品をつくる機会はおそらくあまりないですよね? 今回のような機会と、商業アニメーションなどクライアントからの依頼で作品を制作する場合では、やはり考え方は違うのですか?

泥犬:商業アニメーションの仕事の場合も、割と好きにやっていいと言われることが多いのですが、作品の内容に合わせて、方向性や基本ラインをふたりで話してから、それぞれが良かれと思うことを盛っていくというつくり方をしています。一方で今回は、わざわざ展示に見に来てくれる人たちに、少しでも作品の前で長く楽しんでもらえるようなものを意識しました。ただ、良かれと思うことをやっているという点ではどちらも同じですし、すっきり美しい作品を提示することよりも、何かそこに悩める要素や考える隙があった方がいいんじゃないかとは考えています。例えば、怖い話を読んだ後に、机の下に何かいるかもしれないと思い始めてしまうと、気になってしかたがないですよね。でも、不安になるということも人生の楽しみだと思っています。

先日PARCO GALLERY Xで開催された展覧会のために制作した泥犬さんと梅沢さんのコラボレーション作品。

梅沢和木
コラージュの魅力は何ですか?

僕は、主にデジタル・コラージュで作品をつくっているのですが、例えば自分が好きなアニメのキャラクターの中でも特に萌えや強度を感じるパーツがあって、その好きな部分だけを増殖させたり、再構成していくことでしか生まれ得ないイメージを作っています。泥犬さんはなぜコラージュで作品を制作しているのですか?

泥犬:梅ラボさんがおっしゃるように、自分の好きな部分だけを持ってこれるというのはコラージュの良いところだと思います。例えば、「目」がたくさんあったら単純に楽しいですし、何かがバラバラになって増殖したり、勝手に動いていた方が本能的な感情にも似て面白いし、不安や喪失感を出すのにも便利だと思っています。自分たちの制作過程においても、どんどん要素を盛ったり、ゾンビ的に分裂・増殖させていくような考え方で感覚的につくっていくところがあるので、コラージュという手法の方がより都合が良いということもあります。

劇団イヌカレーの作品は、商業アニメーションよりは、例えばルネ・ラルーやユーリ・ノルシュテインなどに見られるようなアート・アニメーションの質感や世界感に近いものを感じます。実際にそういう表現や、その界隈のつくり手を意識することはありますか?

泥犬:アート・アニメーション関連のイベントに行って、普通に楽しんで帰ってくることはありますが、実際につくっている方たちと交流があるわけではないですし、そちらの世界を意識するほどの技術もなく、体系的に芸術を意識できるほどの知識量もありません。自分たちの作品は、庭で育てた手づくり野菜のようなもので、基本的には自宅でがんばればできる程度のことをやっています。普通の人が家電量販店で買えるカメラを使ったり、百円ショップで買ってきたものを組み立てたりしてコツコツ撮影しているので、たまにNHKで『ニャッキ!』などの撮影現場の映像を見ると、こうやって撮っているんだと勉強になることも多いです。とはいっても、設備的にかなり次元が違いますが。

まどマギ」を見て、いままでに見たことのないアニメーションだと感じる人も少なくないと思うんですね。コラージュという手法自体はシンプルなものですが、一般的な商業アニメの描線に慣れている人にとっては、かなり異質のものに見える。こういうのってもっと起きるべきだと思います。本来アニメーションは何をやっても良い表現なのに、手法がほとんど決まってしまっている現状が不思議に感じます。

泥犬:商業作品にも、アート・アニメーションのような質感や、個人的な表現を感じさせるものが入ってくることで、多少なりとも引っかかりや親しみが生まれればという思いはあります。たとえば、ピクサーやジブリがつくる凄くクオリティの高いアニメを見て、自分もこうなりたいと考えられるくらい本気の人はそこまで多くない気がしますが、ちょっと絵を描いてみたいという人たちがイヌカレーでつくった映像部分を見て、これなら自分も好きなものを切り貼りしたり、絵具でベタベタ塗れるかもと思ってくれたら良いです。一般的なアニメ表現に必要不可欠なきれいな線を引く技術よりも敷居は低いんじゃないかと思います。

Blu-ray『魔法少女まどか☆マギカ 1』(2011/アニプレックス)

梅沢和木
なぜ個人性が大切なのですか?

商業アニメで面白いと感じるのは、多くの人が関わった結果出てきたものがひとつの作品になるところで、監督や脚本家が意識していないところに作品の新しい魅力が生まれることもありますよね。例えば、「まどマギ」にしても、新房(昭之)監督とキャラクターデザインの蒼樹うめさん、さらに劇団イヌカレーさんそれぞれの個性が混ざって化学変化が起きている。蒼樹うめさんと劇団イヌカレーさんの組み合わせによるギャップは、最初から確信的だった印象があります。

泥犬:自分自身に対しての言い訳にもしているのですが、作品内に部分的でも何か個人性へ通じることが見えるのは大切なんじゃないかと考えています。例えば、ピクサーのアニメーションは大好きなのですが、イヌカレーで同じことをやって勝てるのかと。そのひとつの対抗手段として、徹底して個人的であるということも必要だと思っています。とはいえ、商業アニメーションの場合は、表に名前が出ない非常に多くの人たちの労働法ギリギリの努力によって成り立っているという前提がありますし、それを考えると、手前勝手に個人性ということも簡単には言えない気もしますが。イヌカレーは皆さんの優しさで成り立っています。

アニメーターというのは、表現者、技術者それぞれの側面がありますからね。でも、泥犬さんが仰っているのは、とてつもなく大きな存在に対抗できるものが、個人の強さであるということですよね。

泥犬:10人中8人に支持されるものではなく、3人くらいをターゲットにするような、ある意味カルト的なものを目指した方がむしろ良いのではないかということを、自分たちの映像の言い訳にはしています。単純に「お前がそう言うならどうしようもない」というような個人性があると思うんです。例えば、漫画などにしても、きっちり論理的につくられた作品がある一方で、『グラップラー刃牙』のように個人性が非常に強いものもある。「刃牙がそう言うならしかたない」と思わせるものがありますよね。

「まどマギ」は物語の重要な起点が震災を挟んで放映されたということもあり、社会性という観点からも注目された作品でしたが、普段の制作で社会性などを意識することはありますか?

泥犬:例えば、梅ラボさんのようなアーティストの方は、社会に向けてこうしたいという思いが少なからずあると思うのですが、劇団イヌカレーは社会性というものを目指したことはなく、非常に個人的な視点でつくっています。犬も個人の悩みや不安というところにしか興味がなかったので、その個人性を軸に、自分たちができる範囲で表現していこうという前提がまずありました。それが「まどか」のような非常に多くの人に観て頂くアニメ作品の一部として協力させてもらえたことは未だにどこか実感がないですし、不思議な感覚です。そもそも、現代社会で生活している人間がつくっている以上、必然的にある程度の社会性が入ってくると思いますし、自分たちとしては意識してそれを持たせようと思って取り組んでいるわけでありません。

梅沢和木「テラストラクチャーオブクィアバイン」

梅沢和木
鑑賞者のことは意識しますか?

もし泥犬さんが、5分なり10分なりの映像作品を完全に自由につくるとしたら、これまでとは違うものになりそうですか?

泥犬:そうだと思いますが、そのなかでも起承転結があるようなものをつくる気はします。アート・アニメーションなどには起承転結がない作品も多いですし、それはそれで面白いのですが、そういった系統の映像作品に興味がない人にとっては見やすい形態だとは思わないので、最低限ちょっとだけでも物語を含んだような映像を考えると思います。音楽などにしても、コアなファンほどタイトルや主題がないようなものを好む傾向がありますが、わかりやすさという点では、旋律や展開があるようなものの方が入りやすいですよね。アート系の作品をつくるにしても、そこにアートだけがある状態にしないといけないわけではないですし、何かに付随してアートの要素もあるくらいの方が、個人的には好きです。カルト的であっては良くても、敷居は低くしたいです。

梅沢和木「カオスをほろぼすもの」

その辺は僕も非常に考えているところです。僕の場合は、いわゆる現代アートと言われるような作品をつくって発表していますが、アートの世界にも鑑賞者のことをどれだけ考えるかというところにはそれぞれ差があります。その中で自分はどちらかと言うと見る人のことを意識していて、カラフルな色やキャラクターを使っているというのもひとつのフックにしているつもりではあります。一方で、一見本当に黒いだけの抽象画なんかを自分がやってみたらどうなるんだろうとも考えます。

泥犬:ありがたいことに最近はテレビなどで放映されるものをつくっていることも多いのですが、お茶の間のお客様とは全く接点がないですから、生きている人間が見てくれているという実感があまりありません。未だに視聴者とは架空の生物なんじゃないかとも疑っています。そういう意味では、一方通行なものをつくっている感覚というのが凄くあるので、いざ何かを展示をするということになったとしても、やり方が全然わからいないというのはあります。

でも、以前に見た「まどマギ」の原画展では、劇団イヌカレーのブースにたくさんの人が集まっていましたよ。商業アニメをベースにやっている泥犬さんは、いま僕なんかが話したような鑑賞者への意識というものよりもはるかに高いレベルで、見る人を楽しませようとする意識があるのだと思います。

泥犬:そうでもないですが、芸人気質なところがある気はします。どんな感想を持たれるかは別として、どこにオチをつけるかというのは意識しています。それは別にふざけて笑わせるということではなくて、変な気持ちなら変な気持ち、嫌な気持ちなら嫌な気持ちになって帰ってもらいたい。狙い通りにならないことは全然構わないのですが、何かしらテーマパーク的な要素があった方がいいと考えています。ただ、それが商業的な理由からだと思われても良くないし、例えば、パンクやロックミュージシャンが分かりやすく客に媚び過ぎて、それが期待はずれと取られる場合があるような感じでしょうか。でも、そうは言っても、意表を突くレベルを越えて誰も喜ばないことをするのもどうなのかなとか。難しいですね。いまは人から頼まれてつくることが多いので、その時点で自分だけの話ではないから何とも言えませんが。

梅沢和木
もし仕事がなくなったらどうしますか?

特別意識しているわけではないんですが、自分の作品はデジタルやネットがキーワードとして挙げられるだけあって、いまっぽいと言われることなどもあります。個人的に劇団イヌカレーの作品は、中高生から20代にかけての若い子たちに特に支持されている印象があるのですが、世の中からの受け入れられ方や、作品が持つ時代性という部分は意識されていますか?

泥犬:さすがにネットで自分たちの評判を覗く勇気はないのですが、どちらにせよ世の中からの受け入れられ方というのはあくまでも結果に過ぎないと思うので、ほとんど意識していません。時代性ということについても、たまたまそこに運良く席が空いていて、うまく収まることができたという感覚です。だから、明日も同じ仕事があるとは思わずに、いつ必要とされなくなってもしかたないという気持ちで仕事をしています。いつかは野良犬生活です。

幸い僕もいまは作品を発表する機会が色々あるのですが、もしかするとある日突然何もなくなるかもしれないと思うことがあって、もしそうなったら何をしようと考えたりするんです。泥犬さんは、もしいまの仕事がなくなったらどんなことをしますか?

泥犬:いまの仕事がすべてなくなったとしたら、考えてはいたけどやり損なっていたことを一からしたいです。そう考えると、完全に名前を変えて、映像コンペに作品を応募するということをすると思います。でも本当は仕事の合間にでもやるべきなのでしょうが。ちなみに、梅ラボさんはどんなことをしたいと思っているんですか?

梅沢和木「デジタル・ハードコア・クッキー・レクイエム」

僕も自分が好きだったけどいままでやっていなかったことですね。例えば、趣味でMAD動画をつくってニコ動やYouTubeに上げたり、漫画を描いたりですかね。中学生の頃は、漫画家になりたいと思っていたんですが、次第に自分には向いていないと思うようになって。自分がやりたいことと得意なものが違うというのは往々にしてあることで、ゲームや漫画などをつくるというのは憧れていたことなんですが、自分は物語をつくるということがおそらく得意ではないんです。一方で、同じ幅でずっと線を引いていくとか、何かをクリックし続けるとか、そういうことが自分には延々とできるので、ひたすら画像をコラージュをしたり、細かい絵を描いたりということができたのかなと。おそらくそれは一生できることですが、物語をつくるということは続けていくと辛くなるのかなと思ったりします。

泥犬:とにかく絵を描き続けていきたい人と、物語も込みでつくっていきたい人がいますよね。犬の場合は、本格的な仕事としてアニメに携わることを諦めてからは、何かしら物語をつくって映像で表現できないかと考えるようになったんですが、実は個人の活動の仕方がわからないままここまで来てしまったところがあって、現在もこれで大丈夫なのかと思っています。梅ラボさんは、個人で作品を制作、展示するということを続けているので、個人の論法というものがわかっていると思うんですが、犬はたまたま流されるままここまで来てしまった感があるので。もしいまの仕事がなくなったとしたら、映像制作を目指す人がまず何をするかということを考えるだろうし、そうするとコンペに出すことになるのかな、みたいな。


インタビューを終えて

泥犬さんは劇団イヌカレーの中の人という印象があったのですが、色々と話させてもらった後だと、ひとりの真摯なつくり手としての印象が強く残りました。
実際にできた作品や映像は、世界を埋め尽くす勢いで画面中に展開している印象があるのですが、泥犬さん自身は自分の手の中の範囲内でものを切り貼りしてつくるその感覚をとても大事にしていて、だからこそ多くの人を魅了する作品が生まれているのだと思います。
自分以外のアニメーション作品に対する意見や、表現者としての姿勢について色々とお話を伺えて、表現者としても、ファンとしても充実した時間を過ごさせてもらいました。
非常に僭越ながら、世界を切り貼りする作品をつくる者同士、また何か一緒につくることができたらと思っています。ありがとうございました!