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「問い」をカタチにするインタビューメディア

地域と関わる

大川印刷 代表・大川哲郎さんが、
椎野正兵衛商店 代表・椎野秀聰さんに聞く、
「クリエイターに必要なものづくり精神」

インタビュアーを担当する大川哲郎さんは、1881年に横浜で創業した大川印刷の代表取締役社長。NPO、NGOと協働しながら、市民参加のワ ークショップでファシリテーターを数多く務めるなど、地元のための活動にも積極的な大川さんがインタビューするのは、椎野正兵衛商店の椎野秀聰さんです。世界的音楽機材メーカー・ベスタクスを創業するなど数々の事業を成功させ、現在は、江戸末期開港当時から絹ビジネスを展開し、世界的な評価を獲得した曽祖父・椎野正兵衛氏の意思を引き継ぎ、絹製品ブランド「S.SHOBEY」の製造販売を行っている椎野さんが、横浜の街やもの作りの真髄について語ってくれました。

大川哲郎
どんなことをやってきたのですか?

私は、1881年に創業した大川印刷の6代目で、横浜で生まれたからには地元のために色々なことができればと思って活動をしています。今回インタビューをしたい相手として私が選んだのは、椎野正兵衛商店代表の椎野秀聰さんです。非常に多岐にわたるキャリアと実績をお持ちの椎野さんですが、これまでの活動や現在のお仕事などについて簡単にご紹介頂けますか?

椎野:まずはじめに言っておきますが、私は落ちこぼれです。うちは親父も兄弟も東大を出ていて、自分もそうなるだろうと思っていたけど、受験に落ち続けて3浪しました。昔からずっと好き勝手してきたんですが、私がやってきたのは、クリエイターという仕事なんじゃないかと思いますね。これまでに色んな楽器を作ってきたし、デザイン事務所を作ったこともある。デジタルの分野でのもの作りなどもしましたね。

DJが使うターンテーブルやフェーダーなどの機器で世界的な成功を収めたベスタクスが有名ですね。

椎野:これまでに色んなことをやって、上場した会社もいくつかあるけど、何ひとつとして最後まで続いたものはないんですよ。DJツールなんていう不良のための機材を作ったら、それが世界中で有名になってしまった。でも、それによって周囲にいる人たちは勘違いしておかしくなるし、自分も変になっていくでしょ。だから、おかしくならないためには会社ごと捨てればいいんだということで、上場の前に辞めちゃったんですよ。これまでに世界のアワードなどもたくさん獲ったけど、自分にとってはそれが何なのかと思っています。ああいうものを獲ってしまうと周囲の見方が変わるし、自分も変わってしまう。あんなもの獲っちゃいけないんです。貧乏でスッテンテンで、これからどうしようかなという時にしかクリエイティブというのは生まれないし、それが私らしい人生なんです。金というものに一切縁がないというか、縁を切ったことによってクリエイティブを保ってきたという感じですね。お金と縁を切ると言っても簡単にはできない。でも、私は本当に全財産を捨ててみたんです。そうしたらまたクリエイティブというものは出てくるんだよね。

一度全財産を捨てたというのは、椎野正兵衛商店を始める前のことになるのでしょうか?

椎野:そうです。私の曽祖父は横浜開港当時に絹織物で世界を制していたんです。それで、その絹織物でもう一度世界一のものを作ってみようということで始めました。普通自分が立ち上げた会社というのは、そこを辞めた後でも気になってしまうものらしくて、結局会社がダメになりそうになると元の社長が戻ってくることも多いんですよ。私が出た後に業績が悪くなった会社も多いけど、自分は別にそれに耐えられるんです。金持ちになりたいとか有名になりたいという欲は全然なくて、もともと落ちこぼれなんだから、落ちこぼれたヤツなりの人生が全うできればいいじゃないかと。

大川哲郎
横浜イズムって何ですか?

今日はクリエイターの方も会場に多くいらしているようなので、椎野さんのもの作りのこだわりについてもお伺いしたいと思います。

椎野:以前にある賞をもらってアメリカに行った時に、「日本人は俺たちが作ったものを猿真似ばかりするから嫌いだ」とアメリカ人に言われたことがあったんです。それならお前らが作れないものを作ってやるという思いでずっとやってきているので、昔からオリジナルじゃないとやりたくないというのがまずあります。あと、これまでに凄いという人たちにたくさん会ってきましたけど、そのほとんどは凄くないんです。やっぱり本当に凄い人というのは、何も言わずに裸電球のもとで一生懸命しこしこ作っているような人なんですよ。それはクリエイターだろうがエンジニアだろうが同じで、自称”凄い人”で凄いものを作った人はいない。だから、いまの時代のようにタレント化した人をマスコミがもてはやす時代に乗っかっていては本物のもの作りなんかできないんじゃないかと思いますね。今日は若いクリエイターが来てるから、人生の捨て台詞を言うには良い機会ですね(笑)。

いやいや(笑)。椎野さんと横浜の関わりについても教えて頂けますか?

椎野:私は横浜の山手に住んでいて、元町小学校出身です。私たちが子供の頃はまだアメリカ軍がいて、貧しい人たちが彼らにぶらさがって「ギブ・ミー・チョコレート」と言っていた時代を横浜で過ごしました。私の父も本町2丁目で生まれて2丁目で死んでいますし、4代にわたる生粋のハマっ子です。椎野正兵衛商店もかつては本町通りに4軒ビルがあったんですが、私が新たに始めるまではそれすらも誰も知らなかったくらいだと思います。横浜開港当時、私の曽祖父は絹織物で世界のマーケットを独占するほどだったんですが、そういうことは誰も知らない。本当の話というのはだいたい歴史には出てこないんです。ある哲学者も歴史上有名になった人にはろくなヤツがいないと言っています。穿った見方かもしれないけど、歴史には功績を乗っ取った人の名前だけが残るけど、その影にはちゃんとした人がいるんですよ。

横浜という場所が特別だった時代を、椎野さんの会社も弊社も体験してきていると思うんですが、私が強く感じているのは、当時のもの作りというのがもう語られなくなっていて、若い人たちがそれを知る機会がなくなってしまっているということです。

椎野:横浜の人たちは来るものは拒まず、去るものは追わないところがあるけど、なぜそうした横浜ができたのかということはみんな知らないんですよね。開港当時の横浜に来た多くの外国人は、汚い格好で貧しいものを食べていた日本人が目だけは輝き、気持ちは大きくて、親子でニコニコしながら食事をしていて、この国は一体何だと驚いたそうです。なぜその当時の横浜がいま語られないかというと、語るべき資料が関東大震災で消失してしまったから。私のうちも3代までは遡れるけどその先はわからない。ただ、これはまさに横浜イズムだと思うんだけど、椎野正兵衛は1859年の創業当時から英語とフランス語でしか広告をやっていなかったんです。正兵衛は外為の知識も持っていたんですが、当時の江戸にはまだそういう知識がなかったんですね。彼らの代わりに正兵衛が外為をやっていた時期もあったんですが、非常にアカデミックなことが当時の横浜では行われていたんです。異なる文化がひとつのところで接触すると、過大なエネルギーが生まれるという現象がありますが、横浜というのは、まさに日本とヨーロッパの文化が摩擦し合っていた街なんです。

大川哲郎
売れるものを作ってはいけないのですか?

椎野正兵衛商店では、本物のシルク製品を作るために蚕からこだわっているんですよね。

椎野:いま日本で作ることができる一番良い糸は何かということなどを調べて、日本の蚕の中でも最高の蚕を大事に育てるというところに行き着きました。日本の糸のレベルはだいぶ下がってしまっているんだけど、養蚕には長い歴史があって、そこで培われてきたものは大切にしないと消えてしまうんです。やっぱり人間の知恵には連続性がないとダメだし、もの作りの根源というのはそこにある。ところがいまはなんでも使い捨ての時代でしょ。私はそれがイヤなんです。人が昔に作ったものを見ていると捨てられなくなるし、そこから何か聞こえてこないか、見えてこないか、昔の人の生活が垣間見られないかというところからものを作ってきているんです。

S.SHOBEYのシルク製品。

現在「S.SHOBEY」の製品は、販売会やインターネットなど一部の場所だけで買えるという状況になっていますよね。

椎野:店を全部辞めてしまいましたからね。あえて売らないというスタンスが面白いでしょ(笑)。でも、ずっとそういう仕事がしたいと思っていたし、そうすると人は探してくれるんですよね。明治の中盤くらいからエコノミズムという考え方が出てきて、みんながあまりにも売れるものを作るということばかり考えるようになったけど、それによって見失ってしまっているものがあるんじゃないかと。売れるものを一生懸命作ろうと思ってもダメなんですよ。売れるものというのは、いつか必ず売れなくなる。ファッションだって、なくなるからこそファッションなわけでしょう。それをなくならないと思って作っているから不思議なんですよね。

冗談のように聞こえる人もいるかもしれないですが、そこに椎野さんのもの作りの精神というのがあるのだと思います。

椎野:最近、私みたいなジジイのところに若いイギリス人やフランス人が「一緒に何かをやりたい」と言って来るんですよ。何をやりたいかと聞いてみると、残るものを作りたいと言うんです。なんでも使い捨ての時代になって失われてしまったものを取り戻そうとしている若者も世界にはいるんだなと。スイスの時計メーカーが1万年後まで動いている時計というものを作っていて、そんなもの売れないとは思うけど、1万年後に人類がいなくなっていたとしても、その時計だけは動いているわけですよね。生きているうちは誰も評価してくれないかもしれないけど、儲けてやろうとか余計な野心を持たずに一生懸命作っているものは、必ず残るんですよ。

大川哲郎
もの作りには何が大切ですか?

先日、NPO団体を通じて、東日本大震災の津波で倒壊したお寺の柱が瓦礫処分されてしまう前に、なんとか有効活用できないかという相談を受けたんですね。もともと私は廃材がギターになることを知っていたので、椎野さんに相談をして4本のギターを作ったんです。そのうちの1本をお寺に奉納するということで、椎野さんのおかげで出来上がったギターを南三陸に持っていったんですが、合同供養の際に演奏をしたら檀家さんが涙を流して聴いてくれたんですよね。椎野さんはこれまでにさまざまなもの作りをされてきていますが、その中でも思い出に残っているものがあれば教えて頂けますか?

椎野:もともと音楽が好きで、楽器、電子楽器関連だけでも世界で80ブランドくらいやってきましたが、やはりギターは思い出に残っていますし、衝撃的だったのはDJ機器なんじゃないですかね。80年代頃からミュージシャンが売れるものばかり作るようになって音楽がつまらなくなった時に、彼らに焼きを入れてやろうと思ったんですよ。人が作った音楽を借りてきてつなげるなんてことをやったら、ミュージシャンのヤツらが困るだろうなと。そうしたらそれが流行っちゃったんですね。別に成功しようと思って作ったわけじゃなくて、くだらない音楽に飽きていたんですよね。きっとみんなも同じだったんでしょうね。どんどん新しいツールを作ってあげないと新しい音楽は生まれてこないと思うし、私は新しいものを見たいんです。

オリジナルギターを手にしているアル・マッケイとジョニー・グラハムは椎野さんとも親交が深いアース・ウインド・アンド・ファイヤー結成時のメンバー。

これまでの数々のお仕事のなかで失敗されたこともあったかと思いますが、そういう時にはどんな思考や行動で乗り越えてきたのですか?

椎野:別にカッコ良いことは何もないです。何事にも壁というのは必ず現れて、それに向かって何とかしようとしていれば、いつのまにか扉は開くんです。だからコツコツとでも何かをやっていないとダメなんですよ。なにかをやっていればなんとかなるし、基本的にはその勇気があるかどうかということなんだと思いますね。

最後に、会場に来ている若いクリエイターたちに向けて伝えたいメッセージなどがあればお願いします。

椎野:みなさんには大きな可能性があると思います。私たちの時代は、なにかをやろうとすると、巨大な組織や企業と競争をしないといけなかったけど、いまは大企業が何を作ればいいかわからなっているから、戦う必要がないんです。また、あなた方は生まれながらにして外国の文化を見て、食べて、触れてきたインターナショナルな時代を生きていて、それは有利な点だと思います。私たちの時代は自分が作ったものをわざわざ海外に行って売り込まなくてはいけなかったけど、いまはネットもあるし、今日作ったものが明日にはみんなに知られているなんてこともある。そういう意味では凄く可能性があるけど、ただ売れるものを作っていてもいずれ売れなくなるし、売れるためのデザインというのは、しばらくすると野暮ったくなる。じゃあ売れないものを作るのかというと、そういうことでもない。一生懸命作ったものは必ず何かになるんです。骨董品などを見ていても、一生懸命作ったものには、人の血と汗と涙が見えてくるじゃないですか。情熱、誠意、勇気を持って作ったものは必ず残るし、それを続ければ世界でも認めてもらえる人になれると思います。そこにお金は要らないんです。