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「問い」をカタチにするインタビューメディア

地域と関わる

写真家・中川正子さんが、
建築家・弥田俊男さんに聞く、
「私たちの家族の未来」

建築家の弥田俊男さん、写真家の中川正子さんは、2011年の震災を機に、東京と岡山の二拠点生活をスタートしたご夫婦。今回の「QONVERSATIONS TRIP OKAYAMA」では、雑誌や広告、CDジャケットから、写真展の開催や写真集の出版まで幅広く活動をしている中川さんが、岡山理科大学の建築学科で准教授を務めながら、東京ではご自身の建築事務所で設計の仕事をしている弥田さんにインタビューをします。震災、独立、移住などさまざまな転機が重なったご夫婦がいま、話したいこととは果たして?

中川正子
岡山についてどう思っていましたか?

今回俊男くんにインタビューしたかったのは、こういうパブリックな場で将来について語り合うのもアリかなと思ったからなのね。家にいると、父親と母親という役割があるけど、子どもがいなくて、第三者もいるようなところでそういう話をするのも面白いんじゃないかなって。移住してもう1年半くらい経ったけど、どうですか、岡山は?

弥田:なんかザックリし過ぎた質問だね(笑)。

もともと震災のちょっと前に俊男くんが岡山理科大で先生をすることが決まっていて、ちょうどそのタイミングで建築家としても独立することになって、東京半分、岡山半分という暮らしを始めようとしていたじゃない。私も子供を産んで間もない頃だったけど、そろそろ保育園に預けて仕事にフル復帰しようというタイミングで。その頃はまだ私も東京で活動するつもりだったんだよね。

弥田:そのタイミングでちょうど震災があったんだよね。もともと岡山は全然知らない場所で、直島なんかに行く時に通過することはあっても、あくまでも「通る」場所だった。でも、岡山で働くことになって、改めてこの場所を見てみると、東京には新幹線で行ける距離だし、関西や九州、四国などにもアプローチしやすい。さらに、美術館なども多くて文化的な土壌もあるし、ポテンシャルの高い場所なんだということがわかって。僕が仕事をしている建築の分野で言うと、ある意味スゴく遅れている場所なんだけど、それは穴場とも言えるし、スゴく可能性があるんじゃないかと。それで岡山に飛び込んでみようと思っていたところで震災があって、社会的状況が大きく変わったんだよね。

震災直後は愛知にある俊男くんの実家に避難して、そこで協議して一緒に岡山に行ってみようということになったんだよね。でも、最初はあくまでも「ちょっと行ってみよう」という感覚で、そもそも岡山がどこにあるかもわからなかった。正直、渋々来たみたいなところもあって、最初は本当にひとりも知り合いがいないような感じだったけど、森山(幸治)さんとかいろんな良い出会いが巡ってきて、気づいたらスゴく面白くなってた。

弥田:そうだね。震災前から次のステージをどうしようかなとは考えていて、日本や東京にいるだけじゃ全然ダメだなという感覚はあったんだよね。そこに震災が重なって、ますますその思いが強くなっていった。よく東京の建築家が地方に行って、地元の事情もわからないまま実効性のないことを偉そうに言うだけ言って、お金をもらって帰ってくるみたいなことがあるけど、そういうのはもうないなと思っていて。だから、片足をズッポリ突っ込んだ形で地域に密着して関わりながら、東京も見るということが必要なんじゃないかとは考えてた。東京と、もうひとつどこか別の地域に片足ずつ置きながら世の中を見ていきたくて、そういう意味で岡山という場所はスゴく合うんじゃないかとは考えていたんだよね。

弥田さんが手がけた住宅のリノベーション「住吉の居場所」。

行く前からそんなことまで考えてたの、いま初めて知った(笑)。

弥田:一緒にいる時間が短いし、だいたいそっちが一方的に話し続けてるからね(笑)。

そうだった、ごめん(笑)。話したいことがありすぎて!

中川正子
東京とはどんなところが違いますか?

実際に岡山に1年半住んで先生をやってみて、どうだった?

弥田:東京だけでやっていたらこういう感覚は得られなかっただろうなって思う。いまは岡山の大学で先生をしながら、東京の事務所で設計の仕事をするということをやっているけど、最近はさらに岡山の街のことにも関わり始めているから、同時に2、3ヶ国語を覚えていくような感覚に近い。新しいことを同時に進めているからそれぞれのペースは遅いんだけどね。でも、21世紀に入ってからしばらく経って、東京的なものに向かって上へ上へ行こうとすることに多くの人が違和感を感じ始めていたと思うんだよね。いまはネットやSNSなど、お互いが離れていても活動できる状況になってきているし、これからは自然と人間、街というものがもっとコンパクトな形で混ざり合う必要があるんじゃないかなと。そういう意味で岡山という場所は、東京的なものに行き過ぎちゃった人たちがまた戻ってきて、ここに降りてこようとしている姿にとても近いという感じがして、そこにポテンシャルを感じてる。

自分たちの街をどうしていこうみたいな話って東京にいた時はしなかったよね。

弥田:うん。いま岡山の街に関われていることはスゴく面白い。よく地元の人たちが言うんだけど、岡山は平和で自然豊かだから、みんなそこにあぐらをかいていてあまり危機感がないんだって。そして、いまさら周回遅れの状態で東京を目指そうとしていたりする。せっかく良いものを持っているのに、それを放棄しようとしてしまっているように見えて、スゴくもったいなく感じるんだよね。そういうことを、もともと岡山にいた志の高い人たちと、震災を機に東京周辺から集まってきた外の人間とで考えていけるのはスゴく面白いなって。

岡山に来てからの人の出会いというのも大きかったんじゃない?

弥田:スゴく大きかった。僕らが岡山に来た後、もともと面識があったfiftの五十嵐夫妻が移住先の候補を岡山で考えてるというのを聞いて、頼むからぜひ来なよって熱烈に勧誘したんだよね(笑)。それで7月くらいに五十嵐さんたちと能登夫妻が引っ越してくることになって、その後正子がツイッター経由で森山(幸治)さんとつながって、東京から来たメンバーと岡山にいたメンバーで「ENNOVA」というNPOを作ることになって、そこからスゴく広がっていったよね。

岡山くらいの規模感だからこそ、この街をどうにかしたいとか、もっと面白くできるんじゃないかって感覚があるのかもね。

弥田:そうだね。岡山の街というのは、師匠に巡り会えずにいた、これから延びていく若い素材というような感覚があるんだよね。もちろん育て方によってどうにでもなってしまうんだけど、ものスゴいスーパースターになれるかもしれないし、その場に立ち会えている感覚がある。

中川正子『新世界』(2012/PLANCTON)

東京にももちろんつながりはたくさんあるんだけど、とにかく人が多いからそこで全部がつながることはないけど、岡山だとみんな知り合いっていう感じがしない? 自転車とかで街を走っていると絶対友だちに会いまくるし(笑)。

弥田:そういう小ささが面白いよね。僕らは東京と岡山を行き来しているからこそ、そういう違いを感じやすいんだろうね。

中川正子
二拠点生活で何が変わりましたか?

大学のお仕事は最低4年なんだっけ? これから岡山で具体的に何をしていきたいというのはあるの?

弥田:こういう縁のあった場所で自分の力が発揮できるプロジェクトがあれば関わっていきたいし、自分なりにベストを尽くしていきたいと思ってる。岡山という場所にこだわっているわけではないけど、色々なことを考える大切なベースになっているし、何か岡山で地域の人たちと一緒にやれる良い機会が作れたらいいなって。建築の人は、とにかくどんどん作ったり、メディアに取り上げてもらうために自分本位なことをしがちな人もいるのね。でも、そういうことじゃなくて、しっかりしたものが作れるペースで、じっくり丁寧にやっていけたらいいなっていまのところは考えてる。

岡山に来て何もわからない状態から、こうして1年半楽しく過ぎたじゃない? この経験を活かして、例えば海外とか他の街とかでまた何かをやっていくというアイデアはある?

弥田:そういうこともアリかなと思ってる。難しい点は色々あると思うけど、みんなに拠点が複数あって、個人や家族が色んな場所に動きながら、そこで新しいつながりが生まれていくと、大きく状況が変わると思うんだよね。例えば、今回の震災のようなことがあった時でも、複数の拠点があれば少なくともすべてを失ってしまうことはなくなるだろうし、そこに縁のある人たちがいれば、お互いに助け合える。今後そういう国になっていったら、劇的に変わるような気がする。そのためには、交通費とかの仕組みが変わらないとなかなか難しいと思うけど。

そこが変われば一気に進んでいきそうだね。

弥田:そうだね。いまは東京と岡山を頻繁に往復しているから、移動に対して抵抗がなくなっているよね。フットワークが軽くなっていて、日本全国どこでもヒョイヒョイ行く感じで、新幹線の切符を買う抵抗がなくなったよね。ちょっと恐ろしいけど(笑)、それは自分への投資だと思ってるところがあるかな。

弥田俊男「住吉の居場所」

どんどん移動していけばいいっていうことを、もっとみんなに伝えたいって思うんだけど、なかなか難しかったりするよね。それだけ東京の渦というのは大きくて強いんだなって。地方に行った人のことを「リタイアした」みたいなイメージで見ている人もチラホラ見かける。ホントは新しく始まっているんだけどね。海外とかで具体的に行きたい場所はないの?

弥田:いまは特にないかな。自分としては、これまで日本の中の東京という狭いステージでやっていたけど、社会的な出来事や自分の独立などをきっかけに、いまは日本というレンジに広げながら何ができるかというのを考えている段階。そこで自分がこれをやったんだと言えるものをまずは作りたい。足場がしっかり作れたら、次のステップとして日本と海外のどこかに片足ずつ置いて、世界というところも考えていけるのかなって。変に焦らず、いまやるべきことをやっていけば自然と海外にもつながると思ってる。

中川正子
家族の将来についてはどう思っていますか?

岡山に来た当初は、俊男くんの大学のスケジュールに合わせて、私も東京と岡山を行き来していたけど、常に子どもと一緒だから結構大変で、ある時期から1ヶ月単位で20日間東京、10日間岡山という考え方に変えたじゃない。それによって会えない日も結構増えちゃって。私には毎日話したいことが山のようにあるから、その日のうちに伝えないと無理なのね(笑)。でも、電話やSkypeだと伝わらなくて、それは何度も悩んだことだよね。

弥田:悩んだよね。スゴく難しい問題だと思う。

こないだも無理矢理会うために私が岡山に戻ってきて、でも午後には東京に行かなきゃいけなかったからお昼だけ家族3人で食べたんだよね。ホントは子どもと一緒に公園とか行きたいのにほとんど行けてないし、やっとのことでお昼ご飯くらいかと思うとなんか泣けてきちゃって。でも、俊男くんはタイトな時間を割り振りして、家族のために時間を割いたり、やれることはすべてやってくれているからもう何も求められないし、これ以上はないんだって。でも、その時急に俊男くんが「素敵な奥さんと素晴らしい子供がいて、なんて幸せな人生なんだ!」って大声で言い出して(笑)。でも、たしかにそうだなって。その日の私は、「あれもできない」「これもできない」という現実の切り取り方をしちゃってたんだよね。他の家族と比べてもしようがないし、こういう人生を選んだのは自分たちなんだから、私たちは私たちの形でやっていこうって改めて決意したんだよね。

弥田:将来この家族がどうなっていくのかということはもちろん考えているよ。さっきの海外に行くという話だけじゃなくて、こんなことも、あんなこともあるという選択肢をフラットに広げておけば、その段階に来た時に一番良いチョイスに自ずと向かっていくことになるんだと思ってる。だから、いまの時点であまり悩んでいても、目の前の大事な時間がそれに奪われてしまうだけな気がするんだよね。いまは選択肢をこれだけ並べておけば大丈夫だろうとイメージさえできていればいいんじゃないかな。それに向けていまを一生懸命生きながら、自然な方向に進んでいけばいいと思う。どちらにしろ、岡山でこうして1年半生活してみて、色々スゴく面白くなったなと思う毎日ですよ。

私は、将来のことを心配しすぎないようにと思いつつ、そこからなかなか離れられなくてジタバタしていたのに、俊男くんはスゴいよね。私は超心配性だったし、根に持つタイプだったんだけど、ずっと一緒にいて出産や震災という出来事を経て、だいぶ俊男くん寄りの考え方をするようになったと思う。前よりは将来のこととか全然ゴチャゴチャ言わなくなったでしょ? 色んなことが意外にどうにかなってきたということも自信になって、「場当たり力」が強くなった気がする。子どもがいて、岡山に住んでいて、こっちで写真集を作るなんて絶対無理とか言われてたけど、いま思えばなんてことなかった。みんなの協力あってこそだし、私もスゴく痩せたけど (笑)。俊男くんから教わったことは多いし、スゴく助けてもらってる。どうもありがとう♡

弥田:こちらこそ、ありがとう。