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「問い」をカタチにするインタビューメディア

未知との出会い

アートディレクター/ウェブデザイナー・勅使河原一雅さんが、
臨済宗常福寺住職・原 和彦さんに聞く、
「禅寺でライブイベントを催す理由」

今回カンバセーションズに初登場するのは、グラフィックとプログラミングを駆使した独自の作品世界をインタラクティブメディア上で発表し、国内外から高く評価されるクリエイター、qubibiでの活動でも知られる勅使河原一雅さん。そんな勅使河原さんがインタビュー相手として指名したのは、神奈川県相模原市にある臨済宗建長寺派「常福寺」の住職・原 和彦さん。禅寺でありながら、現代音楽、舞踏、映像などの分野で活動するさまざまな表現者を招いて開催される「常福寺ライブ」を年に2回開催している原さんに、昨年同ライブに出演した経験を持つ勅使河原さんが、いま聞きたいこととは?
※このインタビューは、雑誌「QUOTATION」との共同コンテンツです。3月24日発売の『QUOTATION』VOL.18の誌面でもダイジェスト版をご覧になれます。

勅使河原一雅
なぜお寺でライブなのですか?

昨年、常福寺さんのライブに出させて頂きましたが、こうした芸術的な活動を通して、どんなことが生まれると考えていらっしゃるのですか?

原:簡単に言うと、来てくれた人たちが本来あるべき自分というものに気付いてくれるといいなと考えています。自分に気づくなんて言うとなかなかカッコ良いですが(笑)、いまの世の中というのは、科学という宗教に侵されているところがあると思うんですね。科学的であるということは理解できますが、それだけではなく、非科学的なことや再現性のないことを否定してしまう風潮がありますよね。科学という既存の考え方だけを信じこんでしまうと、一定の尺度でしかものが見られなくなってしまうところがある。だからこそ、勅使河原さんのような広い見地でものを提示できる人たちの表現をここで見てもらうことで何かに気づいてくれたら、それはとてもありがたいことだなと思っています。また、そこで提示してくださるものは、できればあまり常識的ではない枠の方が面白いんです。

「常福寺ライブ」を始められたのはいつ頃からなんですか?

原:平成4年からです。私自身音楽が好きなこともあり、初回は知り合いのパーカッション奏者やサックス奏者に主体になってもらい、サヌカイトや笙など雑多な楽器を集めた即興音楽をやりました。自分としては、お寺という場所でこういうことをするのは至極当然なことだと思っていますし、本来お寺というのはこういう形だったんじゃないかと考えているところがあります。いまは「葬式仏教」なんて揶揄されることもありますが、いつのまにか本来あるべき姿が見えなくなってしまっている気がしていました。例えば、私が説法上手の魅力的な坊主で、どんどん人を引き寄せて、信者さんたちを救っていくことができる人間ならこんなことをする必要はないのですが、あいにくそういう能力に欠けているので、じゃあ他にお寺を使ってできることは何かということを考えていったんです。

ライブが始まる前にみんなで座禅をして、演奏が終わってからは一緒にご飯を食べるという体験も新鮮でした。このような流れにしているのはなぜですか?

原:ライブも本堂で行っていることなので、基本的には宗教行事として考えているんですね。はじめに3、4分程度の座禅をするというのは、その導入という意味合いがあると同時に、これから起こることを受け入れられるように、感性を開くためなんです。普段座禅やお線香の香りなどと無縁だった人が寺に来て、こういう環境の中でライブを見て、なんだかわからないけど感動してしまったというような体験をしてもらえればと考えていて、そのための流れというのは意識しています。終わった後にご飯を食べるというのは私の楽しみでもありますが、みんなでいっぱいお酒を飲んで気持ち良くなってもらえればと。私は気が小さくて人見知りなので、あまり人付き合いがうまくないのですが、一緒にご飯を食べて、お酒を飲むことで心が開かれるところがあるんですよね。

勅使河原一雅
説明をしないのはなぜですか?

ライブの後、若い方から年配の方まで、幅広い層の方々とお話ができてとてもうれしかったのですが、あのライブにはどのようにして人が集まってきたのですか?

原:そう感じて頂けたならありがたいですね。実は、ライブにいらっしゃるご年配の方たちの中に檀家さんはほとんどいないんですよ。誰にでも間口は広げているのですが、おかげさまで続けていくうちに信頼を得られてきたということが一番ありがたいですね。始めた頃は、各所に協賛をお願いしたりしながら一生懸命赤字にならないようにがんばってきたのですが、次第に赤字覚悟でやるようになっていきました(笑)。その結果いまは、老若男女関係なく自分で来たいと思ってくれた人たちが来て、見たいものを見るという感じになってきました。中には、お寺という特別な環境や雰囲気があるから来てくれるという方もいらっしゃいますね。

普段僕はものをつくっている時に年配の方たちのことはあまり意識しないのですが、そういう方たちも楽しんでくれているんだなと感じました。

原:お寺という場は垣根を外しやすいところがあるのだと思います。例えば、お年寄りというひとつの括りで、あの人たちにはわからないだろうと考えてしまうことがあるとすれば、それはとてもつまらないことですよね。「常福寺ライブ」では、音楽にしても、形ある表現にしても、抽象芸術というものを提示してきているのですが、抽象的なものというのはみんな説明を受けたがりますよね。このライブでは、お寺という精神性が高いとされている空間で、説明をせずにそれらを提示しているのですが、老若男女関係なく、わけのわからないものを楽しんでくれている。そういう反応を見ることがこのライブをやっているひとつの楽しみでもあるし、信心が失われたと言われる時代になってもなお、お寺というのは信頼性や精神性を持っているものだと思うし、そこはもっと上手く使ってもいいんじゃないかと考えています。

常福寺ライブ「"-be-"~有明の月/下り月~」 2013年9月28日(土) 出演:佐藤允彦(ピアノ), 勅使河原一雅(映像)

禅宗というと、「禅問答」などのように割と言葉を使うイメージがあるのですが、お話を聞いていると、むしろ説明的なことを排除されようとしているんですね。

原:例えば、禅問答と言うと「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか?」「手を叩いた時に音が鳴るのは右手か?左手か?」というものがよく例に出されますが、その答えが大切なわけではないですし、そもそも答えがあるわけではありません。ただ、こういう問いをされると人は頭を使って答えを出そうとするじゃないですか。その時点でその人は引っかけられているわけなんですが、その引っかけられたことに気づければいいんです。そういう意味で「禅問答」は全体を見る訓練のようなものなんです。また、臨済宗というのは教義として明確なものがあるわけではなく、修行の時なども仏教の教えはこうですよということを教えてくれるわけではない。それよりも座禅をして、肉体を通して己を知っていくところがあるんです。

28日(土) 出演:佐藤允彦(ピアノ), 勅使河原一雅(映像)

勅使河原一雅
お経って一体なんですか?

お経というのは、当然そこに書かれていることに意味があると思うのですが、いまはそれを知らずに読み上げていくところがありますよね。昔の人は意味をわかって読んでいたんでしょうか?

原:日本に仏教が入ってきた500年代は、学問としての側面も大きかったので、もちろんその意味を理解していたと思いますが、仏教的な信仰になった頃からは、意味よりも「行」としての意味合いが深まっていったのだと思います。現代社会は科学的なことしか信じられなくなってしまったという話をしましたが、本当に信じられる空間をつくるためには、「行」をする必要があるんです。例えば、檀家になると何回もお寺に通ってお坊さんに挨拶したり、お気持ちを届けたりしないといけないので、普通に考えたら霊園に料金を振り込むだけの方が楽だし、便利なはずなんです。でも、ご本尊様にお参りするということを10年続けると、本堂の前で手を合わせた時にホッとできる空間が生まれるんです。10年続けなければその感覚は生まれないし、それがひとつの信心の素のようなものです。お経を唱えることも同じで、自分の信心をつくっていく行為なんです。

僕が小さい頃、うちではお経を唱える習慣があったんですね。自分ではよくわからないまま、言われるままお経を唱えていました。ある時期から面倒になってその習慣はなくなったのですが、あの時に膨大な時間をかけてしていたことは、いま自分の中にどのような形で残っているんだろうとたまに考えたりするんです。

原:普段は保険のように自分の中にしまい込まれていて、なかなか顔を出してこなかったとしても、もし今後何かに追い込まれてしまった時などに、信心というものが心の働きとして出てくるかもしれませんね。繰り返しになりますが、信じる世界というのは自分がつくり上げていくしかないんですね。逆に人というのは、説明されるほど信じなくなってしまうところがある。説明は、反発や疑いを生み出すものです。言葉があるとどうしてもその裏を見ようとして信心から離れていく。一方で自分で行や儀式をするということは、疑いようのない世界を作り上げていくことです。だから、私はなるべく説明しないようにしています。

過去に行われた「常福寺ライブ」の様子。 現代音楽 金沢健一氏(彫刻・演奏)、永田砂知子氏(演奏)

それは「常福寺ライブ」の話にも通じることですね。

原:説明をすることで目の前のものが見えなくなってしまう場合があります。例えば、私は絵画展などに行っても、作品の横にある説明書きは絶対に見ないんです。あれを見てしまうと影響されて、絵が見えなくなってしまうからです。「常福寺ライブ」にしても、出演して頂く方には、具体的な言葉が入るものは避けてほしいというお願いをしていて、なるべく言葉を排した世界の中で形をつくっていくということを意識しているんです。

過去に行われた「常福寺ライブ」の様子。 ダンス 山田せつ子氏

勅使河原一雅
死んだ後はどうなるのですか?

先日、食べ物のダシについての興味深い話を読んだんです。ダシというのは死ぬことで一気に流れ出るものなんだそうです。生きている時は、体内にあるものが流れ出ないような力が働いているのですが、死ぬとその力がなくなってダシが出るというんです。たしかに死というのはフワッと散っていくイメージがありますよね。でも、それは肉体についての話で、意識というのは死後どうなるんだろうと考えたんです。

原:意識というのは、身体を通して外界を感知した感覚などが積み重なってできていると思うんです。例えば、私は花が好きで自分で生けたりもするのですが、よく考えると花を好きになる積極的な理由はあまりないんですよね。その時に、もしかすると進化する前の人間がまだ虫で、花粉を求めていた時の記憶が蓄積されているから、花が魅力的に見えるんじゃないかと感じたんです。そう考えると自分ひとりの意識だと思っていたものは、人が虫やナメクジだった時代からの積み重ねでつくられているじゃないかと。

hello world by qubibi

それはとても面白い考え方ですね。

原:生まれたばかりの赤ちゃんの目は、約30cmで焦点が合うようになっているそうなのですが、これはおっぱいをもらう時に見える母親の顔と同じくらいの距離なんです。「目は口ほどにものを言う」という言葉がありますが、赤ちゃんは腕の中に抱かれながら、親が何が好きで何が嫌いなのかということを瞳孔の開き方から察知しているんじゃないかと思うんです。脳が最も成長する時期に親から子へとそういう情報が急速に受け渡されているとするなら、人の意識や感覚というのは自分一代の中に閉じこもっているものではないんじゃないかと。仮に自分が死んでも意識というものは子に伝わるかもしれないし、勅使河原さんであれば、映像を通して意識が展開していくかもしれない。肉体が滅ぶのは悲しいことですが、意識はもっと自由に時空間を行き来できるものなんじゃないかと思うんです。

ダシの話を読んだ時に、意識も肉体同様に死とともに分断されてしまうのかと感じたのですが、そういう考え方もできますね。

原:仏教には、輪廻転生という考え方がありますよね。ある仏教学者は、肉体として滅んだものが形を変え、次の命に転じていくことが輪廻転生だと言っています。そこに意識までくっついていくことができれば、それこそが本当の輪廻転生なんでしょうが、おそらく肉体と意識は別々になってしまう。自分というものはなくなってしまうけど、意識自体はずっと存在している。そこがつらいところではありますよね。

勅使河原一雅
現在と過去の違いは何ですか?

絵や彫刻というのはモノとしてずっと残っていくものですよね。例えば、ひとりの作家が気持ちを込めて作った絵というものには、何かがまとわりつくものなのかなと思う時があります。僕がデジタルで作品をつくっているからこそ考えることなのですが、そこにはデジタルでは勝てない何か特別なものがあるのかなと感じたりするんです。

原:私は、丁寧に時間をかけて作ったものであれば人の心を打つかというと、そうとは限らないと思っています。逆に短時間でさっと描いたような線が人を感動させることもあるだろうし、どちらかというと作品に乗ってくるものというのはそうした手間暇よりも、その人の精神性の部分ではないでしょうか。もちろん、人によっては時間をかけたものに深い意味を感じる方もいらっしゃるだろうし、私は少し冷たい見方をしているのだと思いますが、どうしても精神性の方に重きを置いてしまうところがありますね。

DRIFTER by qubibi (Taste of NURO DEVILMAN)

それを聞くと少し安心できます(笑)。これもよく考えることなのですが、原さんは、過去の作品と現在進行形の作品をそれぞれどう捉えていらっしゃいますか?

原:過去の作品は安心して見られるところがあります。私は骨董なんかも好きなのですが、こういうものはすでに評価が定まっていますよね。時代を越えて価値が認められていたり、人の心を打つというのは、そこに本質的な価値観があるからだと思うんです。一方で、現在の作家の作品は、それが本質的なものなのかどうかを自分では見極められないところがあるし、そういう意味では不安ですね。でも、不安だからつまらないのかというとそういうことではなく、不安というのは面白いことでもあると思っています。仏教には「煩悩即菩提」という言葉があって、これは迷いや苦しみは、そのまま救いでもあるという意味なんです。もし悩みや苦しみがすべて排除されてしまったら、非常につまらない世界になるでしょうし、不安や迷い、悲しみがあるからこそ、生きる歓びもあると思うんです。

DRIFTER by qubibi (Taste of NURO DEVILMAN)

たしかに不安があった方が面白いです。

原:「大疑団を打破して、大信根を至る」と言われているように、本当に信じられるものは、本当に悩まないと得られないし、中途半端な悩みは中途半端な信心、信頼にしかならないものです。先ほど、花が好きだという話をしましたが、生花をする時にも花屋さんで買った花材というのはつまらなくて使えないんですね。逆に枝が曲がったり、途中で折れているものの方が魅力的に感じるのですが、これはつまり、現在という時間の中で、過去の苦しみを受け入れたり、楽しむということだと思うんです。大きな苦しみを味わった方がいいと言うと説教っぽくなってしまうし、いま現在苦しい思いをしている当事者に対してはそんなことは言えませんが、人生で最も苦しかった時期が、振り返ってみると一番大切な時間だったということはよくあります。でも、その一方で、一休さんは死ぬ時に、俺は死にたくないと言ったそうなんですが、それもまた素晴らしいことだと思うんです。私も死は受け入れたくないし、最後まで生かしてくれとすがりつきながら死んでいきたいですね。


インタビューを終えて

常福寺境内から見える光景は美しい。本堂はもちろん、客間からの景色、廊下のぼんやりとした灯り。所々にさり気なくたたずむ置物は、どこか因縁があるような雰囲気を漂わせ、じっと眺めていると吸い込まれそうになるものばかり。原さんは音だけでなく美的感覚にも並外れたものがある。
原さんには何度かお酒をご馳走になっているが、気づくと原さんの顔は真っ赤になっている。まさに酔いどれ和尚だ。場の緊張はふわーっと解けていき、こちらもそれに甘んじて身を解す。もし僕が逆の立場なら原さんのように振る舞えるだろうか? そんなところに僕では到底及ぶことの出来ない、原さんの達観した一面を垣間見る。
さて、原さんの言葉で一番印象に残っているのは『あなたはあなた一代では出来上がらない』というものだ。僕はそれを聞いた時、自分に流れてきた時間や血が、はるか遠くから脈々と紡がれてきているようなたしかな感覚が湧き立ち感動した。自分だけではないのだ。身体がじわっと温かくなるような、または忘れてはならない戒めのような言葉だと思う。