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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

写真家・大和田良さんが、
小説家・平野啓一郎さんに聞く、
「異業種クリエイターが考える写真の魅力」

大和田良さんは、雑誌、広告媒体などで活動する傍ら、写真集や展覧会などでコンセプチュアルな作品を発表し、写真界の次世代を担う存在として期待されている、いま注目の写真家です。そんな彼が、「いま話を聞きたい人」として名前を挙げてくれたのは、京都大学在学中に『日蝕』で芥川賞を受賞し、その後も数々の注目作を世に送り出してきた小説家・平野啓一郎さん。実はこの平野さん、東川町国際写真フェスティバルで選考委員を務めるなど、写真への造詣が深いことでも知られているんです。そんな平野さんに、写真のことから小説のことまで、大和田さんが独自の視点でインタビューを行いました。

大和田良
写真を見る愉しみって何ですか?

平野さんが写真に興味を持つようになったきっかけを教えて下さい。

平野:もともとアートや音楽など表現活動全般に興味があるんですね。そのひとつとして写真も好きで、最初はモード写真などを見ていたのですが、モード写真を撮っている知人などから色んな写真家の話を聞くうちに、自分でも写真集を買ったりするようになりました。その後、色々お世話になっていた筑紫哲也さんが選考委員を務めていた東川町国際写真フェスティバルに、筑紫さんが体調を崩された後、代わりに選考委員をやらないかと声をかけてもらい、そこから写真の本を読んだりもするようになりました。

選考委員として写真を見る時などに、平野さんが良い写真の基準としているものは何かありますか?

平野:東川に関しては写真集の選考なので、抽象的な言い方ですが、その本に「見ごたえ」があるかというのを基準しているところがあります。本を閉じた後に、どこに見ごたえがあったのか感覚的にわかるものとわからないないものがあるんですね。面白いことをしていても、見ごたえがつかめないものは僕はあまり評価できない。自分が何かを書いている時も、結局最後は「読みごたえ」だと思っているところがあります。それがたとえ変なものであろうと、作品を見た時の体験がひとつの足場のようになって、その先、生きていく上でも何かにつけて、その体験に戻ってきてしまうような重みがあるかどうかというのは、重要なことだと思います。

.最近、家で写真集をパラパラ見ていた時に、娘に「何が面白いの?」と聞かれたんです。その時は自分なりに色々説明したのですが、僕は自分が撮る立場でもあるから、見るということの魅力を語る時に何かしらフィルターがかかってしまう気がするんです。平野さんにとって、写真を見る楽しさというのはどんなところにありますか?

平野:写真というのは、シャッターを押せば誰でも撮れてしまうし、現実をそのままトリミングしたものだと思われがちですよね。例えば、一枚の写真を見た時に、「現実はこの写真よりもっとスゴイんだろうな」としか感じられなかったら、所詮写真は現実のアイコンみたいなものでしかないということになるけど、写真を見ていて面白いのは、現実にはないような何かがそこで作られていることで、その写真を見る体験は、撮影された場所に行く体験とはまったく違うものなんですよね。写真を見るという体験の方が現実よりも強度があると思えた時に、先ほど話した「見ごたえ」というものを感じるんだと思います。

大和田良
小説と写真にはどんな違いがありますか?

平野さんがやられている文学と写真の決定的な違いを挙げてもらうとしたら、どんなものがありますか?

平野:写真は、小説などと違って時間をかけずに見ることができるじゃないですか。例えば、小説だとひとつの作品に何日も費やして、その間に色々考えたりもするから、一回読むだけで好きになったり、深いところまで理解できることも多いと思いますが、写真の場合は、あまり何も考えずに写真集を一冊見終えることができる。写真だけではないですが、鑑賞時間が短いというのは、この時代においては決定的だと思うんですね。とにかくいまはあらゆるジャンルで余暇の時間の壮絶な奪い合いになっていますよね。そのなかで小説というのは、特に時間コストに対する報酬意識が、読者の中でものスゴく強い。先ほどの読みごたえの話じゃないですが、難解な現代アートの作品が目の前にあっても、3分間見てわからなければそれで終わりますが、小説でわけのわからないものを1000ページくらい書いたら、やっぱり読者は怒るんですよね。

たしかに写真集の場合はすぐに全部見ることができてしまいますからね。

平野:その分、いかに簡単に通り過ぎられないものを作るかという問題はあると思います。また、すべてを意図しなくても、ある一定量の情報が入ってしまうというのは、写真が小説と決定的に違うところだと思います。例えば、震災後にアーティストが被災地をどう描くかという問題があった時に、小説であれば作家が書こうと思なければ入らない情報も、写真の場合は映ってしまう。震災以降は、日常の素晴らしさというものにフォーカスが当たったと思うんですね。その時に、なんてことのない日常を撮っていて、それまではどうでもいいと思っていた写真の中に、実はこれは重要なんじゃないかと思えるようになったものもあって。例えば、震災後の復興にあたって、街を元通りにするのか、新しく作り直すのという議論がよくありますが、個人的には新しくした方がいいと思っているんですね。いくらモニュメンタルなものだけを再現しても、結局日常というのは、いつも通っている道路にひびが入っていたとか、そうしたどうでもいいような細部が積み重なったものだと思うんです。写真というのは、そうした細部が映るものなんですよね。最近は、誰もが見ているようで、実はその写真家にしか見えていなかった風景が、高い技術で表現されているものはやはりいいなと感じるようになりました。

写真が持つ特性や力は、この時代においてどう作用していると思いますか?

平野:僕は8ヶ月になる娘がいるんですが、子どもの写真を結構撮っているんですよ。すでに、自分が20歳になるまでに撮った写真よりも、まだ8ヶ月しか生きていない娘の写真の方が多いくらい(笑)。これだけ密に記録が行われていると、自分のアイデンティティというものが、写真や映像で埋め尽くされていっている気になるんです。自分自身や、自分が見たものをとにかく残したい、それを人に伝えたいという欲求が、いまの人は強いと思うんです。そこには、現代人の寄る辺のなさや、自分が存在しているという手応えが得にくいという時代背景があるんじゃないかなと。写真というのは、そういう部分に深くアクセスしているように感じます。また震災の話になりますが、家族を亡くしただけでなく、写真まで全部なくなったというのは、被災者のショックに追い打ちをかけたと思います。他方、いまはライフログが膨大になりすぎていて、その人が死んだ後に、残しておきたくない写真データなどをどうするのかという問題があって、そこはまだ真剣に話し合われていないような気がします。

大和田良
プロとしてやっていくって、どういうことですか?

最近はカメラのツールとしての機能性が高まっていて、少しお金をかければプロとほぼ同じ画質で撮れてしまう時代になっています。プロとアマの間に技術や画質における面での差がなくなってきた時に、プロとしてどんなことが大切になってくると思いますか?

平野:その問題は文学にも共通することで、毎日たくさんの人がツイッターやブログを書き続けていますよね。とはいえ、そのなかでも小説というのはクオリティや体験の強度は全然違うものだと信じたいですし、小説家や写真家などのプロの作り手がいなくなって、日々膨大に素人が生み出すものだけで人が満たされていくかというと、そうは思えない。やはりハイクオリティなものを求めるということ自体はなくならないと思うんですね。わかりやすいところで言えば、写真にはプリントのクオリティというものがあるし、みんなが携帯で撮っている写真とは違う強度の体験を提供するという点では、大きな武器になりますよね。

「体験」というのは平野さんの中で重要なキーワードになっているんですね。

平野:例えば、最近のアメリカ文学で、メキシコからアメリカの国境を越えようとする人たちの苦難をテーマにした物語などがある。それをルポルタージュのように精密に調査して書く方が、社会を改善するためにはいいんじゃないかという考え方はある。でも、読んだ人がそれを知識として得ることと、それ自体がひとつの体験になっているということは、まったく違うことなんです。文学として描くということを考えた時に、その本を読む人をそれまで形作っていたものが、強烈な読書体験によって変容していくということが大切だし、それが芸術体験というものだと思うんです。そういう作品を発表し続けられるということが、おそらくプロとしてやっていくということなんじゃないかなと。即物的に言うなら、そこにどれだけお金を払ってくれる人がいるのかということですよね。また、基本的にアート表現には賛否両論あるものだと思いますが、例えば小説の場合、1万部売れて賛否が半々に分かれることと、10万部売れて半々に分かれることでは、全然意味が違う。10万人のうち5万人が良いと言っているならそっちを見ていれば良い気がするし、1万人のうち5000人がダメと言っているならそっちを気にしないといけないように感じる。賛否両論あること自体はいいのですが、その時に規模の問題を考える必要が出てくるんじゃないかなと思います。

平野さんはどのくらいの規模の読者に作品を届けたいと思っていますか?

平野:内容によっては、大きなところに届かなくていいと思って書くものもありますが、例えば人間がどう生きるのかといった大きなことを考えた時に、それを読む人が日本の人口の0.01%しかいないみたいな状況はなんか虚しいというか。日本の人口が1億3000万人だとして、せめて0.1%くらいの人にはリーチしたいし、作品がある程度の影響力を持って、文学の外側にいる人にも届いてほしいとは思っています。

大和田良
どんな人に小説を読んでもらいたいですか?

平野さんのインタビューなどを読んでいると、読者とともに歩んでいくという意識が強いように感じますが、読者に対してどんなアプローチを心がけているのですか?

平野:ジャンルが細分化されているなかで、特定のジャンルに興味を持つ層の規模はどんどん小さくなっていると思うんですね。そのなかで、これまで文学というのは限られた人しかいない、清流でしか生きていけない鮎みたいなものとしてあったけど、自分の作品には、鮎の美しさを保ちつつ、フナみたいに清流ではないところでも泳いでいけるたくましさを備えていてほしいなと。僕は、音楽家やデザイナーなど小説以外のジャンルの表現者と接する機会も多くて、そういう人たちと話すことはとても楽しいし、彼らにこそ自分の小説を読んでほしいと思うんです。でも、中には普段小説を読まない人たちも結構いて、そういう人たちに「本あまり読まないから」とやんわり断られるのがスゴく寂しいなって。だから、そういうクリエイターの人たちにも読んでもらいたいという思いがずっとあって、そうすると必然的にハードコアな小説ファンにしか伝わらない表現にするのは難しくて、そうではない人たちでも読んでもらえるような仕上げにする必要が出てくる。作家としてのテーマは譲ってはいけないし、最先端のことをしていくべきだと思いますが、インターフェースのデザインのような部分を少し整えるだけで、だいぶ間口は広がると思っています。

僕自身も、あくまでも自分が撮りたい写真を撮るけれど、鑑賞者のことを意識したり、写真に興味がない人にどう見せていくかということを同時に考えることは多いです。

平野:変な例かもしれないですが、純文学を山に例えると、登山家にしか登れない山だと思うんですよ。でも、富士山の五合目までバスで連れて行ってくれたら、普通の人でも頂上まで登ることができるし、そこで見える景色は、いままで自分の人生で見てきたものとは違う何かがあるはずですよね。これまで純文学の世界では、五合目までバスで連れて行くことは邪道だとされていて、結局その山に登る人が減っていくという問題があったんですが、別に五合目までを端折るかどうかは本質的な問題ではないと思うんですね。そういう意味では、アクセスをしやくすることで、自分の見ている世界を多くの人が見てくれるかもしれないと思っているところがある。究極的には、自分という変わった人間を普通の人たちが理解してくれるというものを書くということが理想なんじゃないかなと思っています。

大和田良
ファンを増やすにはどうすればいいですか?

小説を読む人などと比べても、写真を見る人の絶対数というのはまだまだ少ないと思います。写真を見る人を増やしていくにはどうすればいいと思いますか?

平野:写真にしても、小説にしても、興味を持ってくれる人は、ほっておいても増えないと思うので、ある程度そういう人たちを作っていく意識が必要だと思っています。最近、保育園の先生と僕ら両親の間で娘の様子を書いたノートをやり取りしているんですが、それを大事そうに受け渡ししているのを見た娘が、スゴく関心を示すようになったんです(笑)。まさに、ルネ・ジラールの「欲望の三角形」なんですが、素直に面白がったり、感動している人たちがそこにいることで、自分も覗いてみたくなるという人間の心理は大事だと思うんです。それで最近、文学関係者のサークルみたいなものを始めて、1、2ヶ月に一度、面白い仕事をしている人たちで集まって親睦を深めるということをしています。芸術の歴史を振り返ってみても、例えばピカソとモディリアーニ、ショパンとリストなど、同時代のアーティストが密にコンタクトを取っていた例は多い。それは自分の創作にも良い影響を及ぼすと思うし、文学、写真、音楽などどの分野においても、作家同士の交流があって盛り上がっている場所が明確に外に発信されていると、世間も興味を持ってくれるだろうし、作品にアクセスしてくれる人も増えてくるんじゃないかなと。

東川町国際写真フェスティバルで選考委員を務めている平野啓一郎さん。

写真の世界で言うと、中平卓馬さんらの写真家が60年代に展開していた同人誌『プロヴォーク』や、それ以前の細江英公さんらによる『VIVO』などの活動には近いものがあるかもしれないですね。そうした活動体としての広がりとは別に、作品そのものの広がりという部分で考えていることはありますか?

平野:文学の世界では本が売れなくなってきているし、読者が何を求めているのかもわからなくなっています。そのなかで部数を伸ばそうとした時に、マーケティングをして、売れ線のテーマを考えるということくらいしかできていないのが現状です。マーケティングから今の人間の何かが見えてくるのは確かだと思うけど、ウケるからと、気の進まないテーマを書くのは作家としてできないし、仮にそれをしたところで読者が喜ぶかというと、むしろそういうことには敏感で、すぐに察知されてしまう。もちろん、そんなリーダビリティを考えずとも、自分が書いたものを良いと思って読んでくれる人たちというのが、僕にとって一番大切な読者だし、その人たちに向かって書き続けることも大事ですが、そういう読者と向き合うだけではなくて、彼らのこともひっくるめて、こういう人たちがいるんだということを、外側に向けて発信していくというのが、次の段階の理想なんじゃないかと思っています。

これまでの小説が、本そのものを通して作家と読者のコミュニケーションが成立していたものだとしたら、これからは、読者から先の外の世界に向けて、作品が独立して広がっていくというイメージが平野さんの理想ということですか?

平野:そうですね。ただその時に「話題になる」ということを字義通りに考える必要があると思うんですね。ワッと騒がれることが話題になることだと思われがちですが、文字通り考えると「話」の「題」になるということなので、ふたりの人間が会っているときにそれについて話すようなものが、本来の意味で話題になるものということだと思うんですね。その本について話し合うことで自分を表現ができるし、相手のことも深く知ることができる。そういう会話の中心に作品が存在できるかどうかが大切だし、そうしたコミュニケーションの核心にアクセスできるものでありたいなと思っています。


インタビューを終えて

最近の僕の問題意識として、写真をしっかり読める人、見ることができる人がまだまだ少ない状況の中で、自分がそこに対してどう考え、アプローチしていけばいいのかというテーマがあったんですが、自分は撮る側の人間だから、どうしても気付けないものもたくさんあると思っていました。そのなかで、今日は文学者である平野さんが、ものスゴく整理された形で写真のことを語ってくれて、それらの言葉は自分のこれからの活動におけるひとつの糸口になるような気がしました。 平野さんが話していた写真の『見ごたえ』の正体が何なのかということはとても気になりましたし、一対一のコミュニケーションだけではなく、読者の外側へ作品が広がっていくことを意識していくことは、文学だけに限らず、写真の魅力などを伝えていく上でもひとつの有効なアプローチになりそうだなと感じました。また、作品の核は変えずに、見せ方の部分をデザインしていくということも、いまの時代にはやっぱり必要なことなんだなとお話を聞いていて改めて思いましたね。今日は、色々な部分で今後の大きな手がかりをもらえたように思います