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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

グラフィックデザイナー・大原大次郎さんが、
フェアリーデバイセズ株式会社・藤野真人さんに聞く、
「人間と人工物との新しい関係」

SAKEROCKを始めとする数々のミュージシャンのCDジャケットや、CM、TV番組のロゴデザインなどさまざまな仕事を手がけながら、「文字」を題材にしたワークショップや展覧会なども精力的に行なっているグラフィック・デザイナーの大原大次郎さん。そんな彼がインタビュー相手に選んでくれたのは、フェアリーデバイセズ株式会社で代表を務める藤野真人さん。全世界から集めた宇宙画像を用いたプラネタリウムソフトや、ピアノの鍵盤をユーザーインターフェースにしたバイオリン、切り花が枯れにくくなる花瓶などを開発する藤野さんに、大原さんが聞きたいこととは一体?

大原大次郎
無重力空間で文字はどう変わりますか?

藤野さんに展示を見て頂いた後に、僕の制作したモビールが、頭の中の思考が言語化される瞬間のイメージに近いというお話があって、それがとても興味深かったんです。まずはその辺のお話からお伺いできますか?

藤野:本来文字というのは、整然としたものじゃないですか。でも、大原さんの展示では、文字がモビールなどの形に分解されていて、スゴく生っぽくてグロテスクな感じがしたんですね。文字の断片がクルクル回りながら、ある瞬間だけ言葉として認識できるというのが、アイデアが浮かぶ瞬間に似ていると感じました。思考というのはロジカルに考えていくものですが、これは面白いと思うアイデアは、混沌の中から突然生まれてきます。その混沌のイメージというのは、タグクラウドのような言葉の集積ではなくて、まさに大原さんの作品のように、文字自体が解体されているような状態なんですよ。そこからある瞬間だけ何かしらの文字や意味が浮かび上がってくるというイメージがあって、大原さんの作品は、そうしたアイデアが生まれる時の思考過程に似ていると感じました。また、アイデアが浮かぶ瞬間というのは、周りの環境によって簡単にゆらめき、吹き消されてしまう脆弱性があって、その辺りも共通する感じがして、何か揺り動かされるものがありましたね。

通常グラフィック・デザインというのは、正面から視覚情報を捉えるものですよね。でも、この展示では、グラフィック・デザインの特徴である正面性や、逆に当たり前すぎて忘れがちな重力、遠心力というような物理現象を意識しました。そこで、無重力の研究をされていたこともあるという藤野さんにお聞きしたいのですが、無重力環境では、文字を書くという行為や、文字の形象などにどんな変化が起こると考えますか?

藤野:ツールという観点から考えると、例えばボールペンというのは、インクタンクに詰まっているインクが、重力によってペン先にまで落ちていくことで文字が書けるという仕組みになっています。ということは、重力がない宇宙空間などではインクが落ちてこないで、ペン先のボールだけが空転してしまうんです。そこでアメリカは、バネを使って上からインクタンクを押すことで文字が書ける構造のボールペンを考えました。この開発には莫大なお金がかかったという話ですが、その間に宇宙開発のライバルだったロシアは、鉛筆で文字を書いていたという(笑)。これは有名な笑い話ですが、重力を前提にしているツールというのは、無重力空間では一切使えなくなってしまうわけです。ボールペンと同様に、筆に墨汁をつけて文字を書くということも難しくなると思います。

ということは、もし僕らが無重力空間に生きていたとしたら、「かな文字」は生まれず、例えば球体みたいなものだったり、文字というものがいまとは全然違う形になっていた可能性もありますね。

藤野:そうですね。漢字の「ハネ」や「ハライ」というのは、明らかに重力を意識したものですよね。そうしたものの対極にあるのは、一番安定的な形態である球体だと思いますが、無重力の世界では、文字がより球体に近い形やシンプルなピクトグラムのようなものになっていたかもしれないですね。

大原大次郎
どんな思いで開発をしているのですか?

藤野さんは基礎医学や生物学を学ばれていたそうですが、もともとは学者になりたかったのですか?

藤野:はい。でも、優れた学者というのはすでに世の中にたくさんいるので、自分は違う道を選んでもいいのかなと思うようになり、テクノロジーと生物や自然科学などを組み合わせたことをやるようになりました。それだけ聞くと立派な感じがするかもしれないですが、全然そんな話ではなくて、単に「花が枯れるのが悲しい」というような個人的な動機に基づいているものがほとんどです。

現在藤野さんが開発中の草花が枯れにくくなる花瓶。

藤野さんが作っているものは、大まかに言えばITの製品ということになるのかもしれないですが、そのきっかけや込められている思いというのは、たしかにスゴく個人的なものであるような気がします。

藤野:そうですね。例えば、最近は草花が枯れにくくなる花瓶を開発しているのですが、切り花を誰かからもらっても普通は1週間くらいですぐに枯れてしまいますよね。それは僕にとってスゴく寂しい体験なんですね。おそらく世の中にはそういう人たちがたくさんいると思うんです。またその一方で、すぐに忘れてしまう人、元気な時の花を絵に描いて残す人など、問題への向き合い方というのはそれぞれだと思うのですが、僕の場合は、もっと切り花が長生きできるような装置が作れないかと思って、それをずっと実験しているんです。この花瓶がまさに典型なのですが、基本的には自分がほしいと思うものを作りたいというのが前提にあります。当たり前のことですが、「本当に作ってみたい」と思えるものや、「これは面白い」と思ったものを作ることがやっぱり面白いですし、自分がそう思えるものだからこそ、極限までこだわれると思うんです。

Photo by T.Hamasaki

そうした製品を人々に届けていくにあたって、どんなことを考えていますか?

藤野:人間と人工物との関係性には、まだまだ色んなパターンがあると思うんです。自分としてはそこをもっとカルティベートしたいし、多くの人にその面白さを見出してほしいなと考えています。実用的な例で言うと、夜暑い時にクーラーをおやすみモードにするじゃないですか。うちの場合、その操作をするのにリモコンのボタンを6回も押さないといけないんです。こんな時に、クーラーと人とのコミュニケーションが、リモコンを介してしかできないという現状に問題があると感じるわけです。既存のインターフェースには、まだまだ発展する余地がたくさん残っています。僕らは、ピアノの鍵盤を弾くとバイオリンから音が鳴るという装置も作っているのですが、これもピアノの鍵盤というものをインターフェースにして、人とバイオリンの間をあえて延ばしてみることで、どんな体験が生まれるのかということを実験したくて作っているんです。

それによって何か得られたことはありましたか?

藤野:鍵盤を通してバイオリンを弾こうとすると、最初はなかなか勝手がつかめないのですが、「こういう風に音が鳴るんだ」ということがわかってくると、間に鍵盤があるということが気にならなくなってくる。さらに慣れてくると、使う人の個性というものも反映されてくるんです。別の例を出すと、例えばショベルカーの先にマジックペンをつけて文字を書こうとしたとします。もちろん一般の人はショベルカー自体を操作できないけど、熟練した人がそれを必死に練習すれば、上手い文字が書けるようになるかもしれないし、そこには個性も反映されてくると思うんです。このように人間がツールに適応していくということに僕は面白さを感じます。一般的には、機械が人間に合わせるべきだという風潮がありますが、本当は逆なんじゃないかなと。人間が機械に合わせたら、もっとスゴいことができるんじゃないかと思っているんです。


大原大次郎
人間の癖はどこから生まれるのですか?

人とバイオリンの間をあえて延ばしてみるという話がありましたが、これを僕の仕事に置き換えるなら、人と紙ということになると思います。僕がやっている文字のワークショップでは、自分の名前を定規などで書いたり、天地逆さにして書いたり、カーボン紙を当てて文字が見えない状態にして書いたりするんですね。これらはそれぞれ「ツール」「方法」「環境」を変えて文字を書くことをテーマにしているのですが、やってみて感じることは、線のストロークなどよりも、字間などの空間の捉え方にその人らしさようなものが出てくるということなんです。文字そのものよりも、間合いなど呼吸に近いようなものに癖の母体というのがあるような気がして、とても興味深いなと。

藤野:この発見はとても面白いですね。癖の母体のようなものは脳のどこかにあるはずなのですが、文字を書くツールを変えると、脳の活性化する部位もおそらく変わってくるんじゃないかと思うんですね。それにも関わらず、似たようなものが出てくるということになると、一体癖というのは脳のどこにあるんだろうと。きっとどこかに文字を空間的に把握する部位があって、それはツールに関係なく共通していて、癖にも関わっているんでしょうね。このワークショップは研究論文にもなるようなスゴく興味深いものだと思います。

いま僕は、自分の手癖感の強いデザインを認知してもらえているありがたさは感じつつも、そこまで自分の癖を偏愛できず、自らの歌声を録音して聴いた時のような気持ち悪さも残るんです。だから、自分の手癖というのがどこから来ているのかという理由付けがもう少しほしくて、こういうワークショップをしているところがあります。例えば、音楽の話で言うと、ベートーヴェンが作った楽曲は、記譜という方法によって再生可能となり、いまそれを聴く人たちは、楽曲そのものではなく、指揮者や演奏者の「癖」や「ずれ」によって感動しているとも言える。現代の音楽にしても、エンジニアリングによってアウトプットには大きな違いが出てきますよね。

藤野:元となる音源を操作していくことで、何がどう変わっていくのかというのは、僕もとても興味があります。例えば、コンピュータに楽譜通り完璧に演奏させたものを標準とすると、人間の演奏というのは、どんどんその標準からズレていくわけですよね。その時に僕が思うのは、「コンピュータ」と「人間」というのは完全な二分化されているものではなく、その間には連続性があって、コンピュータによる標準の演奏と、人間の演奏というのは数直線で結べるんじゃないかということなんです。

そういうものをグラフィック・デザインに置き換えたらどうなるんだろうということは僕もよく考えます。例えば、小学生がなぞって練習するような楷書や教科書体などがありますが、大抵の人はそこから離れた文字を書いていますよね。

藤野:僕たちはあのなぞり文字からどんどんズレていってしまう。そのズレ具合、標準と癖の差を考えていくのはスゴく面白いですね。そのズレを数値的に分析していけば、ある程度のパターンや指標を得ることはできるはずです。だから何だと言われればそれまでですが、そうやって定量的に物事を捕らえることで見えてくる側面があるのも事実だと思います。僕の友人から聞いた「存在の影」という言葉があるんですね。例えば、機械的な演奏から人間っぽい演奏に段階的に変化をさせていった時に、どの時点で人間の「存在の影」というのが現れるのか? 機械の演奏から僕らは「存在の影」をどこまで感じられるのかということが、僕のもともとの興味だったんです。

大原大次郎
言葉に「存在の影」は現れますか?

「存在の影」の話にどこまでつながるかわかりませんが、僕は「文字くじ」というワークショップもやっています。これは、色々な新聞や小説、エッセイなどからランダムに切り出した文字をクジのように引いてもらい、その前後に文字を書き足して言葉遊びをしてみてくださいというものなんですね。例えば、そこである作家が紡ぎ出した特徴的な言葉を使えば、作家の「存在の影」が見えてくると思うのですが、もっとアノニマスな言葉を組み合わせた時には、果たしてどこまで「存在の影」というのが出てくるのだろうと。

藤野:なるほど、これは秀逸ですね。小説のタイトルだったら思わず買いたくなってしまうような名作揃いだと思います(笑)。一般的な言葉にどこまで「存在の影」が含まれるのかというのも興味深い問題ですね。それに関連した研究事例というのは、これまでにもあるんです。ある文章を与えると、それがどの作家によるものなのかを判定してくれるプログラムなどがあって、ある程度計量できるレベルになっているんです。つまり、単語レベルでもその人らしさというのはある程度現れてくるということですよね。

この「文字くじ」の結果を、自分の手で書き直すということもやっているのですが、そこまでやってしまうと、手書きのフォルムばかりに目が行ってしまい、言葉自体が頭に入ってこなくなるんです。文字を扱うからには、言葉の問題は無視できないと思って始めた「文字くじ」ですが、ここにはグラフィック・デザインの限界も示されているような気がしていて。「文字くじ」の言葉遊びの部分を伝えようとするなら、書き文字に凝るよりも活字を使った方が言葉の面白さにはスッと入れる。

藤野:たしかにこうして見ると、「読む」というところまでいかずに、絵として見てしまいますね。でも、この文字の並びを見ていると、書いた人の性格を想像できる気がしてきます。そこにはかなり濃い「存在の影」があるというのは確かですよね。冷静に考えると想像できる気がするだけで、これだけでその人の性格を分析できるはずはないのに、そんな気がしてしまうのは不思議ですよね。「文字くじ」というのは、おそらく無意識を意識化していくという問題につながってくるんじゃないかと思うんです。普段僕達は気づいていないのに、それを見た瞬間に、「これがお前の無意識だ」ということを突きつけられるようなものはスゴく面白い。大原さんのワークショップや展示作品には、そういうところがあるんじゃないかと思います。

計算しえないものをなんとか概念化して血肉にしたいというのがあるかもしれません。まだまだ探られてない創造的なものというのがあるはずだと思ってやっています。

藤野:まったく同感です。数値化をせずに本質を射抜く人というのも世の中にはいて、そういう人たちをスゴいと思う反面、僕自身は物事をロジカルに理解することで納得するタイプの人間なんですね。だから、そこで数学が必要になってくるのですが、「概念」と「実体」の関係という普段僕らが意識していないものを考えていくというのはスゴく興味があるところで、そこは大原さんとつながっているところなんじゃないかなという気が強くしますね。


インタビューを終えて

ここ数年、自主的に領域の違う方のお話を聞きに行ったり、地方や海外をベースに活動しているような、環境の違う方々に会いに行くことを勝手に行っていたので、カンバセーションズの主旨でもある『領域の違う、異業種の方にインタビューをする』ということ自体にまず大きな共感がありました。インタビュー後、カンバセーションズのディレクターである原田さんに、『これまで何度か大原さんにインタビューをしてきましたが、僕が取材をさせてもらった時よりも、インタビュアーになって話している大原さんを見ている今回の方が、より大原さんの考え方が浮き彫りになっているような気がしました」と言われ、ハッとしました。自分が主体になって話すのではなく、聞き手になりながら応答することで、思考が明快になるんだと。
今回インタビューさせていただいた藤野さんは、これまでに、医学、生物学、科学、天文学、音楽…と領域を横断しながら、常に高度なアップデートをされていますが、その専門性とは裏腹に、出発点の眼差しやアプローチ、着地点などはとても柔らかで、制作されているモノにも、作者である藤野さんへも、心からの敬意と親近感を感じました。
自分の学生時代からの出自も理由ですが、これまでいわゆる理系の方とほとんど交流できずに来てしまったのですが、手癖のことや、ツール、環境、方法、時間、重力…などなど、自分が格闘しているグラフィック・デザインの問題が、期せずして藤野さんの思考や取り組みと触れ合ったことで、こちらからの視点では気付けなかったことが次々とフィードバックされ、アイデアが立ち上がっていくことに興奮し、普段から身近にこんな対話がもっとあると良いなぁと、贅沢な時間を噛み締めていました。
もちろん、領域横断というのはそうそう簡単なものではないということも、改めて感じました。自分の専門性はできるだけ深め、もしくは高めた上で、領域の異なるモノやコトが交流し摩擦することで、それぞれの輪郭がはっきりし、横断の架け橋が見えてくるのだと思っています。
たくさんの気付きを与えてくださった藤野さんに心から感謝します。今後もさらに交流を深めていけるとうれしいです。どうもありがとうございました!