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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

AR三兄弟長男・川田十夢さんが、
映画作家・大林宣彦さんに聞く、
「これからの映画の可能性」

AR(拡張現実)という技術を武器に、テレビ、雑誌、音楽、ファッションなどあらゆる素材やメディアをマッシュアップし、未来の可能性を次々と見せてくれる話題のユニット、AR三兄弟。そんな彼らは、未来の映画についても色々と考えを巡らせているようです。そこで、今回AR三兄弟の長男こと川田十夢さんがインタビュー相手に指名したのは、「時をかける少女」「転校生」などの代表作で知られる日本映画界の巨匠・大林宣彦監督。現在全国で公開中の最新作「この空の花―長岡花火物語」を劇場で見たことが、川田さんに大きな衝撃を与えたといいます。日本映画の常識を覆してきた大林監督に、果たして川田さんが聞きたいこととは?

川田十夢
監督にとって映画とは何ですか?

最新作「この空の花」を有楽町スバル座の最終日に観に行ったのですが、まるで劇場空間そのものが映画になってしまったかのようなとんでもない体験をしたように感じました。この映画作家はなぜこんなものを作れるんだろうと思い、お伺いさせて頂きました。

大林:昔からずっとこういうことをやってきたんですよ。僕の作品は、映画人からは受けが悪くて、美術関係の人たちなどの間で盛り上がっていくことが多いんですね。つまり映画ではないのかもしれないですね。

監督の映画は、僕が小学生の頃から上映されていたし、日本映画の基礎を築いたひとりとして、もちろん前から存じ上げていたんですが、今回改めて過去の作品を観直して、毎回スゴイことをやっていたんだなと。『北京的西瓜』では意図的に37秒間の空白を入れるなど、映画の常識にとらわれないことをされていますよね。

大林:僕自身としては、極めて古典的に映画を作っているつもりなんだけど、同時に世の中の映画の通念とはずいぶん違うことをやっているなとも感じています。もともと僕は熱心な映画少年で、映画の100年の歴史は追体験も含めすべて見てきているんですね。映画というのは本来自由で、何をやってもいい表現のはずなんです。ところが不幸なことに、劇映画は2時間という尺が基本になってきて、劇映画以外のものはドキュメンタリーくらいしかなくなってしまった。それがとても不自由に感じたし、自分はそこにハマらないで映画を作ろうと。普通映画を見て育ってきた人には憧れの監督がいると思うけど、僕の場合それがエジソンなんです。

映画というメディアそのものを発明した人ですね。


大林:そう。黒澤(明)、小津(安二郎)、ジョン・フォードの後継者を目指すのではなく、エジソンが発明した映画というものの可能性を自由に考えたいという意識があるんです。そういう意味では、僕にとって映画を撮るということは発明なんですね。僕が「HOUSE」という映画で初めて日本映画界と一緒に仕事をした時にね、スタッフたちと色んな映画の話を楽しくしたんです。でも、「そういうものと、みんなが実際に作っている映画は違うね」と聞くと、「だって監督、仕事ですから」と言うんですね。東宝なら東宝映画を作ること、松竹なら松竹映画を作ることが彼らの仕事なんですね。そこから生まれてきた名作ももちろんあるわけですが、僕はスゴく違和感を持ったんです。それ以降は、あくまでも個人の映画少年/映画作家という生き方を続けてきたし、そこに自分が映画を作る意味もあるのかなと思っています。

僕も普段はまったく手本もジャンルもないようなことをやっているんですが、監督を見ていると、全然違う世界なのにスゴく良いお手本になるような気がします。

大林:ものを作るということは、手本を作ることだと思うんです。手本があって何かを作るのは、アマチュアです。アマチュアをバカにしているということではなくて、趣味の世界に生きるというのは生活者として素晴らしいことです。でも、詐欺師のような業を持ってしまった僕らのような人間がやることは、手本を作ることしかない。それが良い手本か悪い手本かはわかりませんが、なんとか少しでも多くの人が真似してくれるような手本を作りたいなと願ってやっています。役に立って、ようやく詐欺師ではなくなる(笑)。

有楽町スバル座最終日の大林監督による舞台挨拶。 (C)大林千茱萸

川田十夢
映画では、嘘をついてもいいのですか?

監督の作品には、「転校生」や「時をかける少女」「ふたり」など、原作小説を映画化しているものが多いですよね。原作の設定を大きく変えているものもあるのに、映画の中にはしっかりと「まこと」がある。そんな魔法みたいなことをされていますよね。

大林:もともと何かを見ることよりも作ることへの興味が強い性質なので、例えば推理小説なども、まずはじめに犯人を確認してから読み始めるんです。小説を書いた作家の考えを追体験するのが楽しいんですよ。だから、小説を映画化する時も、この小説家がもし、もとから映画作家だったらどんなものを作るんだろうと思いながら原作を読んでいくんです。その小説家の頭の中にあった混沌とした世界、それこそ小説にする時に切り捨ててしまった部分も含めて形にしていくことが、映画人としての僕の仕事だろうと。僕は小説も漫画も書きたいし、なんでもやりたい人間なのですが、だからこそ映画を撮るからには映画的であるということにこだわり尽くしてみようと思うんです。

©PSC

監督の作品は、映画という虚構の世界の中で、ついていい嘘、ついてはいけない嘘を明確に線引きしているように感じます。

大林:僕は、小説家の佐藤春夫が言っていた「根も葉もある嘘八百」という言葉が好きなんです。僕たちがやっていることは虚構、つまり「嘘八百」なんですが、そこに根も葉もなければ、ただの詐欺師なんですよね。表現者というのは、チャーミングな常識人であるべきだと僕は思っています。そのためには、根も葉もしっかりした大嘘をやって、そこから真を導いてやろうというのが僕の確固たる考え方であり、生き方なんです。普段から、自分という人間に、根や葉があり得るのか、映画を作る資格があるのかとストイックに問いかけるように努めています。それはつまり良い人であるということなんですが、良い人になるということは、自分が悪い人だと承知することの単なるリアクションに過ぎないんです。そもそも何かを表現するということもアクションではなく、社会に対するリアクションですよね。自分が良い人になるというのは、そうした社会を映す鏡になるということで、そうなれた時だけキャメラを回そうと思っているんですよ。

現実も映画もすべてがつながっているということですね。

大林:そうですね。例えば、まだファーストキスもしていないような若い女優でも、僕の脚本次第では、映画の中でそれを経験するわけです。それはある意味とんでもない犯罪を犯しているとも言えますよね。じゃあそこで僕ができることは何か。例えば、20キロあるスタジオの照明が、撮影中にその子に落ちてくる可能性というのは完全にゼロではない。では、もしそれが現実になった時に、自分が飛び出していって彼女を守れるのかと考えるわけです。「スタート」と声をかけてから「カット」と言うまでは、その子は僕が創造した人物になっているわけだから、自分が死んででもその子を生かしてやることが僕の責任だろうと。それが果たしてできるのかと自分に問うんです。そう考えているうちに、やがてその子に惚れ込んでいって、「お前のためなら死んでやれる」と思えた時に初めて、自分がこのカットを撮る資格を得られたと感じるんです。そういう感情は必ず相手にも伝わるので、それに応えた演技をしてくれる。映画という虚構の中でより純なる恋が結びつくことで、観客もその女優に惚れて、映画が豊かになるんです。

「この空の花―長岡花火物語」©PSC

川田十夢
ジャンルへのこだわりはありますか?

監督の作品はひとことでジャンルを表すのが難しいものが多いと思います。ジャンルということについては、どうお考えですか?

大林:ジャンルというものにはスゴくこだわりがあるのですが、むしろその結果、どのジャンルにもハマらないものになってしまっているのかもしれません。ただ、ジャンル分けをしようとはあまり思わないですね。例えば、今日一日自分がどう生きようかと考えた時に、ひとつのジャンルだけでは生きられないでしょ。人は毎日色んなジャンルの中で生きているんだから、その都度そのジャンルに忠実でいようと僕は思うわけです。それを映画にも当てはめているだけなのかもしれないですね。

最新作「この空の花」も、どの引き出しにも入れられないような作品で驚きました。でもそれは、普段見ているものがいかに棚の中に整頓されているかということですよね。

大林:それは高度経済成長期の影響が大きいと思います。当時は、ターゲットというもので物事を分けていて、それが「若者向け」「老人向け」という商品としてのジャンルになったんですよ。ところが僕らが子供の頃というのは、例えば映画一本を老若男女みんなで見るんです。みんなで同じものを見て語り合うことが面白くて、この映画はおじいさんにとってはこういうジャンルだけど、僕にとってはこういうジャンルという感じで、それぞれの人に残っていくんです。例えば、いまでは大人向けの映画というジャンルになっている小津映画ですが、当時まだ子どもだった僕らにとっては、毎週土曜日に見る1本の映画に過ぎなかった。「麦秋」という彼の名作がありますが、子供たちが紙に包まれたままのキャラメルをおじいちゃんに食べさせるシーンがあるんですね。おじいちゃんが歯のない口でそれをモゴモゴしているのを見て子供たちは喜ぶのですが、僕らはそのシーンを見て「いつも自分たちがやっていることだ!」と手をたたくんです。と同時に、大人に気付かれないようにやっていたつもりだったのに、それをちゃんと見ていた大人がいるんだとハッとするんです。油断はできないけど、同時に子供たちのことを見守ってくれているようなこの映画を作った大人は誰だろうと思って、そこで小津安二郎という名前を覚えるんです。そういう映画に育てられてきたから、ターゲットとしてのジャンルはなくしたいと思うし、そこは常に気配りをしているところなんです。ターゲットが核社会を生んだ罪は深いと思いますよ。

川田十夢
ツイッターに興味はありますか?

監督はご自身のDVDの中で、自分の作品について非常にうまく解説されていますが、いまは映画のことを解説してくれる存在というのが少なくなっているような気がします。

大林:映画というのは「作ること」「見ること」に加えて、「語ること」というのがあるんです。僕らの時代には映画の語り部がいっぱいいて、みんな自分が見た映画は必ず語るんですよ。例えば、淀川長治さんが、僕の目の前で僕が作った映画についてある人に説明をしていたことがあったのですが、内容が全然違うんです(笑)。でも、淀川さんの演出が立っているから、こういう風に撮った方が面白かったのかな?と思えてくるんですよ。そうやって色んな語り部の話が集まることで、その作品がチャーミングな映画として記憶されていくんですね。時にそれは本来の作品とは違う伝わり方もするんだけど、それは好意的な誤解であり、クリエイティブな行為だと思うんです。福永武彦が「恋愛は好意的な誤解である」と言っていますが、その好意的な誤解が重なるコミュニケーションこそが、現実を豊かなものにしていくと思うんです。

「この空の花―長岡花火物語」©PSC

いまはツイッターなどでみんなが簡単に意見を言ったり、自分の考えを語れる環境になっていますが、それについてはどう感じていますか?

大林:今回の映画にしても、もしツイッターがなかったら、わけのわからないものを見たということだけで終わっていたんじゃないかな。そもそも僕は、物事そんなにわけがわかるものではないと思っています。わけがわからなければ感動しないというのは、間違った商業主義の洗脳。けれども、わからないというのは、みんなで一緒にわからないって言っているから良いわけで、ただひとりでわからないと言っていても孤独でしょ。ツイッターがあると、わけのわからないものを見たという熱気がまず広がっていくんですね。じゃあ、自分も考えてみようと深まってゆく。ツイッターこそ好意的な誤解の輪を生んでくれるものだと思っています。今回の作品もいつもと同じ個人映画で、当初大きな映画館が見向きもしてくれないなか、スバル座の館主が「この映画はお客さんがひとりも来なくても上映したい」と言ってくれたんですね。それを中森明夫さんや椹木野衣さんらが見てくれたことから火が付いて、ツイッターのおかげもあって気づけば最終日には満員でしょう。やっていることは変わらないけど、もし昔からツイッターがあったら、角川映画や大林映画は違う展開をしていたんじゃないかと思います。ツイッターのコミュニケーションは偏見に傾きにくいですからね。

©PSC

監督の映画は、みんなが同じスクリーンを前にしながら、それぞれ違うものを見ていると言えるほど人によって感想がさまざまで、それがツイッターなどを通して広がっていくんだと思います。「語りしろ」「物語しろ」のようなものがスゴくあって、誰もが感情移入できる入口があるのがスゴイなと。

大林:そう願って作っています。これはジャンルが特定した1本の劇映画ではできないことだと思うんですね。川田さんもおっしゃっているように、特定のジャンルに閉じこもらずどんどん拡張していくことが表現の一番大事なことですからね。今回の映画を見た人たちがツイッターで色々感想を書いてくれていたのですが、4歳の子どもと一緒に見に来たお父さんが、映画が終わった途端に「お父さん、ぼく今生きているの?」と子どもに聞かれたというんですね。それでお父さんは「お前は生きているよ。お前が生きているのと同じように、映画の中の(すでに死んでいる)自転車の子も生きているんだよ」と答えたそうなんです。「だから、一緒に戦争のない時代を作りなさい」と。僕の映画をこの親子が一番しっかり受け止めてくれたじゃないかと(笑)。4歳の子どもだから余計なことは考えずに、僕でも思いつかなかったような感想を純粋に持ってくれたんですね。生きている人間が覚えている限り、死んだ人間も生きているんだぞという、哲学的とも言えることを子どもは本能で感じてくれて、とても感動したんです。

川田十夢
映画の未来は明るいですか?

3.11の後、ドイツのボードゲームを買ったんです。それはプレイヤーが電力会社の社長になるというゲームで、最初はやっぱりみんな原発を建てることを敬遠するんですが、風力や火力発電は燃費が悪くて電力量も少なく、結局最後にはみんな原発を乱立しちゃうんです。それで、ゲームが終わった後に「あ、こういうことなんだ」と。そのゲームが僕にとっては一番大きなメッセージになりました。結局中に入って体験しないと伝わらないんですよね。このゲームと同じように、今回の映画は不思議と中に入ることができたんです。

大林:これは、中に入ることがなければ、なんてことのない映画ですよ。物語があるわけでも、確たるメッセージを伝えているわけでもないですからね。むしろそうした混沌の中でみんなに考えてもらうことで、ひとつの道筋くらいはなんとなく示せるかもしれないと。映画では、この物語を外から見るのではなく、中に入ってきてもらうような技術的な仕掛けを視線のあり方などで入れています。そうすると、わからないということが我が事になってしまうから、自分で考えて解決しないといけなくなる。そういう参加型の映画にしたかったんです。

僕は、映画の未来を発明するということを一生かけてやってみたいんです。ただ、監督の映画を見て、そんなもの作れないんじゃないかとちょっと打ちのめされてしまいました。

大林:そんなことないですよ。映画にはもっともっと先があるはずなんです。コミュニケーションの仕方がこれだけ変わってきているということは、映画も当然変わっていくべきです。また、映画は科学文明が発明した芸術だから、科学の発達が映画の成長にもつながるはずで、もっとその可能性を活かしていくことができると思うんです。すべてがそうではないですが、科学文明は究極的には文化になるんです。例えばいまなら、映画よりもツイッターの方が大きな文化になってきていますよね。映画は遅れています。黒澤明さんは晩年に「もし400歳まで生きられたら、おれは映画で世界から戦争をなくす」と言っていたんですね。映画にはそれだけの力がある。でも、人生が足りないから続きをやってくれよ、と。それを次の世代に伝えようと思い、大学で教える決心をしました。もともと僕は子どもと話をするのが大好きで、それは進化した人たちと話ができるからなんですね。例えば、いまのあじさい革命なんかはまさに進化だと思うんです。この革命は、これまでの単なる過激な反対運動の革命ではなく、自分たちの正気を確かめるための穏やかな集いに見えるんです。こないだはツイッターなどを通して45,000人が集まったそうですが、これは世の中を変える力になるんじゃないかと思っています。いまはコミュニケーションが個人単位になってきていますよね。組織は悪を生みやすいですが、個人だとあまりそうはなりにくい。それはみんながオタクになるということではなく、逆に個人単位のコミュニケーションが広がっていけば、平和をたぐりよせられる時が来るんじゃないかなと。つまりそれは、このサイトと同じように個人同士の「カンバセーション」なんですよ。同一性を楽しむということは、違う人間同士を敵にしてしまうこともあるけれど、個人がそれぞれの違いを理解し合い、楽しみながら語り合うことで、お互いの正気を手繰り寄せていくというのは、良い方にしか向かわないんです。またそれは、芸術家、クリエイターたちの夢であり、責務でもある。そういう時代が来たというのは人類の進化だと思うし、今日はそんな僕らの世代よりもうんと進化した人たちとお話ができ、ひとつの新しい時代に参加できたことがとてもうれしかったですよ。


インタビューを終えて

インタビューの前に、監督の膨大な作品を改めて見させてもらっていたこともあって、映画は発明であるということ、自らが手本でありオリジナルであるということなど、監督がどんな意識で映画を作ってきたのかということがよくわかって勉強になったし、とてもありがたい機会でしたね。『この空の花』には、元「たま」の石川浩司さんが山下清役で出ているのですが、映画の途中で急に役柄から離れ、本来の自分に戻ったかのようにドラムを叩き始めるんですね。それがとても衝撃的だったのですが、今日の監督のお話を聞いて、この映画が個に向けたものであること、個人的な体験やさまざまな物の見方を否定しないものであるということがよくわかったし、そこにある圧倒的な価値観を改めて感じることができました。自分たちとはまったく違う活動をされている方ですが、今日はとても良いヒントを頂けたような気がします。