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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

AR三兄弟 長男・川田十夢さんが、
ビジョンクリエイター・河森正治さんに聞く、
「発明を生み出す創造力について」

今回でカンバセーションズ最多の4回目の登場となるインタビュアーの川田十夢さん。先日、放映されたテレビ番組「情熱大陸」も大きな反響を呼び、ますます注目を集めている川田さんが今回インタビューする相手は、「マクロス」シリーズや「地球少女アルジュナ」「創聖のアクエリオン」「AKB0048」をはじめ数々のアニメーション作品を世に送り出してきたビジョンクリエイター、河森正治さん。第26回東京国際映画祭の関連企画として、去る10月18日にMTV81主催で開催された「J-Culture in the Frame」におけるトークイベントとして実現した両者の対話の模様をお届けします。
※今回のトークイベントの模様は、MTVの番組「MTV81」にて、11月21日と28日の2回に分けて放映される予定です。

川田十夢
「オリジナル」とは何ですか?

河森さんがこれまでにつくってきたものは、物語の構造自体が発明だったりして、過去に見たことがあるような設定というものがまずないですよね。

河森:常にどこかで冒険をしたいという思いがあって、それがないとオリジナルと言ってはいけないんじゃないかと思っているところがあるんです。もちろん古代の神話にまでさかのぼれば、たいていのストーリープロットは描かれてしまっているので完全なオリジナルなどないとも言えますが、組み合わせ方によって、明らかに既存の枠組みから意味が変わることがある。例えば「マクロス」であれば、音楽と戦争の組み合わせというだけだったら、それこそ音楽を効果的に使った戦争映画などもたくさんあるわけですが、アイドルの歌が戦争を終結させるというカタチであれば新しいんじゃないかとか。それが思いつくまではなかなかオリジナルと言い切る自信が持てないんです。

僕らが普段見ているアニメーションにしても映画にしても、起承転結があったり、一定のルールの中で成立しているところがありますよね。過去に完成された文法があって、それをなぞることが映画だと思っている人もいますが、一方で文法や構造から発明しているような人も中にはいて、河森さんはまさにそういう人だなと感じます。

河森:僕はもともと発明家になりたいくらいの気持ちがありました。数学が苦手でそっちには行けなかったけど、いままでにないものをつくりたいという思いは強いんです。すでにあるものを高いクオリティでつくっている人はたくさんいるので、自分としてはこれまでになかったものや、少しでも新しいものがつくれたらいいなと思っています。若い頃はいまよりさらに生意気で、周りと同じことは絶対やりたくなかったので、既存のアニメーションでうまくいったと思われる手段をあえて全部禁じ手にしたりしていました。ただ、実際にやってみるとそれがいかに大変なことかがよく分かる(笑)。結局それらは非常に有効な手段として発明されていたということなんですよね。

既存の文法に少しずつ足し算をしてつくっていくことと、「0」を「1」にしていくことでは、だいぶ考え方も違いそうですね。

河森:冒険的な実験に付き合わせてしまったスタッフたちには頭が上がらないくらい苦労をかけてきたわけですが、自分たちが考えたプログラムでやっている分、うまくいかなかった時にもどこが失敗なのかがよくわかるんです。仮に人が作ったフォーマットを借りてつくっていたら、何が成功で何が失敗かがわからないと思うんですね。例えば、初めて監督をした劇場版作品「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」にしても、TVシリーズとはキャラクター設定などを大幅に変えているのですが、それは自分たちがつくったプログラムがもともとあったからできたことなんです。

「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」(1984) ©1984 ビックウエスト

川田十夢
物語はどうやってつくるのですか?

河森さんは「マクロス」のメカニックデザインからスタートして、いまでは脚本から監督までしていますよね。これだけ広い分野で活動をしているなかで、ご自身の仕事の領域というものをどのように考えているんですか?

河森:大学2年の時から働き始めた「スタジオぬえ」という会社は人手不足だったので、入って1ヶ月後くらいには仕事を4本掛け持ちさせられていて、半年後には新しい企画開発にひとりで関わるような環境だったんです(笑)。みんな忙しかったので、「マクロス」のストーリー構成も勝手に自分で書いちゃったところが多いんです。そういう環境で育ったので、あまり役割の区別がついていないところがあります。ただ、受注のデザインの場合は気が楽です。そういう仕事では、良い悪い、売れる売れないのジャッジをするのは監督とプロデューサーなので気持ち的には凄く余裕がある。ただ、最近は意見を言ってくれる人があまりいなくなってしまって、そうなると参加する面白さも半減なんだけどなと思ったりします(笑)。

これまでにひとつの分野や役割に特化しようと考えたことはなかったんですか?

河森:自分の中ではデザイナーという感覚が強いんですね。アニメーションの監督としてもシナリオを書いたりすることも全部独学でやってきたんですが、デザインだけは先輩から習っているのでロジックがわかっているんです。だから、監督をする時にしても、監督というものをデザインしているというか、デザインと同じ感覚で世界観を構築しているんですね。そもそもデザインには世界を構築するとか設計するという意味合いがあるし、大体のことはカバーできてしまうんです。ストーリーデザイン、世界観デザイン、演出デザインといった具合に全部デザインだととらえています。でも、だんだんそれだと折り合いがつかなくなってきて、「ビジョンクリエイター」というあやしい言い方になったんです(笑)。

自分のことを説明する肩書きというのは難しいですよね。僕も言い方がよくわからないので「AR三兄弟」って名乗っているんです。

河森:ARというのをネーミングに入れたのは素敵だし、三兄弟という響きもいいですよね。「三位一体」という言葉がありますが、「2」だと関係性は直線的になってしまうけど、「3」になるとそこに面積が生まれてくる。自分のテーマとしても、いかに立体的に組み合わせられるかというのがあるんです。XYZ軸という3つのベクトルがあったとしたら、それらの軸をいかに組み合わせて、立体的にできるかを考える。例えば、音楽の使い方などにしても、ハリウッド映画なんかだと戦闘シーンには勇壮な曲を、悲しいシーンには悲しい曲を流すというような説明的なものが多いですよね。それはたしかに感情とリンクする強いものにはなるんですが、物語と音楽のベクトルが合い過ぎてしまって退屈に感じることもある。「マクロス」では、戦闘シーンにアイドルの歌をかけるということを試みたんですが、そうしたベクトルの開き具合、閉じ具合によって作品をつくっていく感覚があります。それを特に意識したのが劇場版「マクロス F ~サヨナラノツバサ~」なんです。

『超時空要塞マクロス』をはじめ「マクロス」シリーズに登場するディーヴァ、リン・ミンメイ。 ©1982 ビックウエスト

川田十夢
「リアル」と「リアル感」は違うのですか?

僕はARという技術を使って現実を拡張しているんですが、現実というのは誰かが書いたプログラムの通りに作用していて、そのプログラムをちょっと書き換えるだけで、世界が入れ替わったように感じられることがあるんです。河森さんの場合も、脚本や設定を書き換えることで、あのシーンがこう変わっていくという感覚を持ってデザインしているような気がします。ただ、多くの人にとってそれはなかなか難しいことなのかなと。

河森:一応頭の中ではシュミレートしているのですが、急に設定を変えたりするとまわりはザワザワと慌てますね(笑)。あまりに決まり切っていると硬くなってしまうので、特にTVシリーズの場合などは途中で変えられるようにしているところがあります。実写映像や演劇が羨ましいのは偶然性やアクシデントがあることで、それをアニメにも盛り込めないかと思って、ギリギリで変えたりもするんですね。多くの人は世界をきれいに構築して、謎を全部解いて終わりたがりますが、本当は謎なんて全然解けていないんですよね。技術がこれだけ進歩しても、宇宙の始まりや生命の謎というのは解けていないし、すべては仮説に基づいているだけ。その自覚が薄れていくとおかしなことになるんじゃないかと思うし、全部答えないと終わった気がしないと言われると釈然としない(笑)。世の中はそういう風にできていないですよね。

河森監督の代名詞とも言える「マクロス」シリーズに登場する可変戦闘機「バルキリー」。

仮説の文法に従順すぎる人が多いのかもしれないですね。おそらく多くの人は文法や設定がないと動けないところがあるだろうし、地図が急に変わってしまうと混乱するんだと思います。例えば、新しく設定した世界観に応じて、「バルキリー」のデザインを輪郭から変えていくということはなかなか普通の人にはできないことですよね。

河森:世界観というのは作品ごとにあって、時代設定はいつで、技術のレベルはどうかというのもあるし、同じ時代でも地球上の色んな国によって民度も違う。そういう作品の世界観の中でのルールというのがまずあって、さらにそれを漫画的なスタイルで表現するのか、実写的なスタイルにするのかなど、表現の上でのルールもつくっていくんです。もしこれが小説や漫画などの原作ものになると、世界観の設定がすでに終わってしまっているので、自分がやれる部分がほとんど残ってないなと思ってしまうんです。

物語の中で積み上げてきた作品内リアリティのようなものと、この世界のリアリティというものが別にあって、河森さんは両者のバランスの取り方が尋常じゃないですよね。

河森:どこかで勘違いするのが怖いんです。例えば「人型巨大ロボ」のことで言えば、人間には巨人になるという願望が神話の時代からあって、その願望を現代社会の肌触りの中で体感できるというものなんですね。そういう身体能力拡張装置としての機能が作品の中にあるから面白いわけで、これが現実の世界で役に立つわけではないのですが、そこを混同しがちなところがあるんです。また、「マクロス」の戦闘シーンには現実世界の戦闘ではあり得ないところがあるのですが、もともと飛行機で空を飛んでいる感覚が好きで、美しく飛ぶ、気持ち良く飛ぶということを体感的に表現したらどうなるのかというところから入っているんです。だからこれらは「リアルっぽさ」であって、本当のリアリティではない。あくまでも体感的なもので、「リアル」ではなく「リアル感」でとどまるという感じです。

川田十夢
アニメの未来はどうなりますか?

僕は「ノートから鳩が出る」とか「名刺からビームが出る」というネタをやっているんですが、これらは現実の世界に「大学ノートから鳩が出る」というルールがないからこそ面白いわけですよね。技術者には、リアリティとファンタジーの関係の妙みたいなものを操ることが下手な人が多いんです。高い技術を積み上げれば、クオリティの高いものが生まれるのはある意味当たり前。でも、その当たり前を違う見せ方にした時に、河森さんが仰るような立体的なものが立ち上がってくると思うんです。そういう種を映画の中などでも探すのですが、そもそもそういう発想で映画を作っている人は少ないですよね。

河森:もともと映画や特撮というのは、マジシャンや魔法使い、シャーマンなんかがやっていそうなことをテクノロジーを使ってやっているのに近いんですよね。映画が生まれた時にはそのくらいのインパクトがあったと思うんですが、それが普及し過ぎて当たり前になり、退屈になってしまった。もっとメディアとして活性化していかないといけないと思うし、100年以上前に作られた映画というメディアを借り続けているというのは少し情けない。何か新しいメディアを作るくらいのことをしないと申し訳ない気もしてきますね。

まだ言語化されていないだけで、現実と繋がれるプログラムというのは、アニメーションの中にもあると思っているんですね。そこに通信をしたら、現実が少しずつ拡張してくんじゃないかという感覚を持っています。物語の向こう側にあるものをこちら側に持ってきてもなお成立するようなものを河森さんと作れたらいいなと思います。

河森:面白いですね。アニメーションというのは、実写に比べてはるかに長い時間をかけないと作れないのですが、それによって現実世界で進んでいるものとのスピード感のズレが出てしまうんです。僕はもともと体感型の表現が好きなのですが、そのライブ性をアニメーションにおいても何とか留めたい。僕は、テレビよりも映画、映画よりも演劇の方が、良い作品と悪い作品の振れ幅が広いと思っているんですね。要は、感動の振幅というのは現実に近い方が大きいということなんですが、アニメや映画などにしても、まだまだ感動の振幅を激しくしていくような拡張ができるかもしれないですね。

すでにこれだけ携帯電話が普及しているのに、なぜかまだ公衆電話って残っているじゃないですか。その公衆電話で使えて、物語につながれるテレホンカードを作れないかなと思っているんです。作品世界に電話がかけられるようになったら、公衆電話も結構機能するんじゃないかとか、そんなことばっかり考えています(笑)。アニメーションというのは実写とは明確に違って、アニメの中にあるものをこっちの世界に持ってくることで一気に立体的になるところがありますよね。

河森:すでに現実にあるものが出てくる実写とは違い、アニメルックの人なんて現実にはいないのに成立していますからね。人間の脳は不思議で、例えばリミテッド・アニメーションのように1秒に8コマしかないようなものでも実際に動いているように感じてしまう。その錯覚の構造というのが面白いし、さらにそこに感情移入ができるというのは人間の凄い能力だと思うので、そもそも存在していないものが現実世界に出てくるというのは楽しいかもしれないですね。

川田十夢
ARにはどんな力がありますか?

メディアがどんどんカタチを失っていくなかで、再生プレイヤーがなくなり、劇場も要らなくなってくると、映画にもこれまでと違う見せ方が生まれるじゃないかなと思うんです。劇場が色々なところに点在しているような感覚になり、その日の天候や時間などによって変化していくような物語もあるだろうと。そこで僕が考えているのは、いま履いているこのスニーカーとかでもいいんですが、モノ自体に何かを物語らせるというアプローチで、それらの断片が折り重なって設定ができていくような作品なんです。

河森:凄く面白そうですね。その話を聞いただけでひとつストーリーが浮かびました(笑)。人間というのは、五感と脳の解析装置によって現実をとらえていますが、例えば目線というのはみんな同じわけではないんですよね。たとえ視覚によってそれをモノとして認識していても、ただの粒子の集まりが可視光線の反射によって視覚に入力されているだけで、例えば虫なんかはまったく違う世界を見ている。僕は貧乏旅行が好きで世界の色んな場所に行くのですが、そこには日本とはあまりにも違う文法があって衝撃を受けるわけです。世界の奥地には自分たちとは全然違うリアリティを生きている人がいるんですね。心理学には「コンセンサス・リアリティ」という言葉があるのですが、単に合意が取れているだけで、現実なんていうものは各々によって違うんだというところが凄く面白い。その現実のプログラムを書き換える感覚というのが、ARにはあるんじゃないかなと。

ちょっと変な話になりますが、メディアというのは古代からあって、土偶というのは皮膚感覚のメディアだと思うんです。あれは現実世界の誰かを見て、それに似せて作ったわけではなくて、何かの時に感じた皮膚感覚のようなものを刻んだものなんじゃないかと。

河森:面白いですね。最近は資料などをネットで簡単に画像検索できて便利なんですが、そのものの重さがどれくらいなのかということはわからない。それに気づかないくらい画像情報に頼りすぎているわけですが、手応えや手触り、痛みというのは凄く大事ですよね。自分も好きで先住民族などを調べたりするのですが、彼らは現代人よりも感覚が一段鋭かったおかげで、違うリアリティを見ていた気がするんです。視覚を使ってモノを見ていたというよりも、自分が体感したものを脳内プロジェクターによって半実体化し、ひとつ違うリアリティを体験していたんじゃないかと勝手に妄想しています(笑)。もしかしたら彼らには土偶が土偶じゃないものとして見えていたのかもしれない。土偶がARマーカーのように機能して、何かが脳の中で起動されていたんじゃないかという気がします。

技術的な話で言うと、これまでに視覚的な解像度を高めていくテクノロジーや、良い音を再生する装置などが開発されてきましたが、最近は触り心地を電子信号で再現したり、匂いをRGBのようなもので表現しようとする動きが進んでいるんですね。視覚、聴覚と来て、その次に嗅覚や触覚などにテクノロジーが向かっているのは興味深いなと。

河森:自分が勝手に思っているのは、人間の脳内ビジョンみたいなものの機能が後退していく代わりに、色々なメディアができたんじゃないかということです。もしくはそういうメディアができたことで脳内ビジョンが衰退したのかもしれませんが。そのなかでARというものは、それを通して現実と触れ合うことで、もう一度原始の脳内ビジョンを呼び起こすような力があるのかなと。

突き詰めていくと、未来は土偶化するということなのかもしれないですね(笑)。


インタビューを終えて

僕が話していることはよくわからないと言われることが多いのですが、河森さんとはもの凄く分かり合うことができたと思います。映画というのは、圧倒的な主観を見せるもので、これまで僕がカンバセーションズで監督に話を聞いている理由は、その人がどういう感覚で世界をとらえ、どう映画に封じ込めているのかというところに集約されるのですが。河森さんの場合は、現実を見てそのままリアルに描いているのではなく、現実にあるものを見て、考えて、作品内リアリティとオリジナリティの両極を成立させてから作っているところがあって、そこが僕の好きなところなんだなと改めて思いましたし、映画というメディアが積み上げてきた文法とは違うところで発明をしているんだということも確認できました。設定そのものを変えるというのは、デザイナーが最も苦手にしているところだと思うんですが、それをすべて自分自身の手でできてしまうことが凄いし、そういうところまで神経が張り巡らされていないとつくれない作品群なんですよね。
僕はまだ河森さんほどの飛躍はできていませんが、少しでも感覚が共有できたことが光栄だったし、引き続きこの路線で行こうと思いました(笑)。もし一緒に何かをやる機会があれば、河森さんの物語の側にあるものを僕が現実的につくっていくようなやり取りになると思いますが、河森さんとであればそれができるような気がしましたね