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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

映像作家/アートディレクター・鹿野 護さんが、
劇作家/演出家・柴 幸男さんに聞く、
「演劇に流れる時間について」

カンバセーションズには今回で2度目の登場となるアートディレクター、映像作家の鹿野護さん。前回の小説家・小川洋子さんに続き、今回鹿野さんがインタビュー相手として選んだのは、劇団「ままごと」の主宰として活動する劇作家、演出家の柴幸男さん。ループやサンプリングなど音楽的手法を演劇の世界に持ち込んだ独自の表現で注目を集め、2010年には『わが星』で第54回岸田國士戯曲賞を受賞するなど、目覚しい活動を続ける柴さんに、鹿野さんがいま聞きたいこととは果たして?
※このインタビューは、雑誌「QUOTATION」との共同コンテンツです。13年12月24日発売の『QUOTATION』VOL.17の誌面でもダイジェスト版をご覧になれます。

鹿野 護
なぜ構造を意識するのですか?

柴さんの演劇をいくつか拝見して、シンプルな繰り返しが少しずつ変化していって全体が浮かび上がってくるような作品の構造に驚きました。まずは、どのようなプロセスでこうした作品が生まれているのかというところから聞かせて頂けますか?

柴:もともと僕は中学、高校の時に読んでいた「ハリウッドの脚本術」みたいな本に則って台本を書いていたんですね。その本には三幕構成で直線的に時間が流れていくようなわかりやすい劇の形が書かれていたのですが、ある時、決められた箱の中に自分のオリジナリティを放り込んでいくのではなく、一直線に時間が流れていくその容れ物自体を疑ってみたらどうなるのかということを考えたんです。そこからは時間の流れ方をわざと変えてみるなど、構造というものを意識して作品を作るようになりました。例えば、音楽のようにループが重なることで作品が完成していくということを演劇でもできないかなと思って始めた手法だったんです。

当時から演劇の世界ではそのような手法というのはあったのですか?

柴:いや、あまりなかった気がします。自分としてもとにかくビックリさせたいという思いもありました。ただ、みんな同時期に同じことを考えていたと思うんです。その頃から時間軸を解体・再構築するような手法が同時多発的に出てきました。その理由として、僕はミュージックビデオの影響というのもあるのかなと思っています。90年代後半からミュージックビデオ出身の映画監督などが台頭し、既存の映画とは違うドラマ構造を持つ作品なども出てきて、そういうものを見てきた経験というのは大きいと思うし、僕自身こういうものを演劇でも作れたらいいなとお手本にしていたのが、ミシェル・ゴンドリーのミュージックビデオだったりするんです。

柴さんの作品は後から編集したような演劇に見えるんですよね。話を切り刻んだり、時間軸を逆行させたり、見ている人の記憶や想像力にかなり委ねているというか、挑戦されている感じがしました。

柴:そうですね。でも、最近は繰り返しの手法もすっかり定着して、僕よりももっと巧みに時間を操る人も多いし、そこで勝負するのはしんどいなと(笑)。ただ、この手法を使ったことで、演劇的なこととは何かということを捉えることができた気がします。当時僕が使っていたのは、編集、演出的な頭脳で、作家の頭脳ではなかったんです。ああいう複雑な構造というのは頭の中だけでは考えられないので、稽古をしながら作っていくところが大きかったのですが、そうすると劇の根本的な部分が弱くなっていく気がしたんです。俳優が会話を進めることで時間を生み出すという演劇本来の力が弱まり、音楽など代わりになるものが時間を展開してくれないと劇が成立しないというのはまずいなと。例えばこれがダンスであれば、振りを重ねて見せるというのはよくあることだと思うんです。そういう意味で当時僕がやっていたのは、劇の時間をダンスの時間にすり替えるような「演劇のダンス化」だったのかなと。

ままごと+三鷹市芸術文化センター「朝がある」(2012) Photo:青木司

鹿野 護
どうやって時間を作るのですか?

作品について考える際には「時間」というものが常に意識にあるのですか?

柴:時間のことしか考えていないと言ってもいいくらいです(笑)。特に最近は演劇を見る時に「いま何が時間を生み出しているのか?」ということを考えるようになりました。先日、瀬戸内国際芸術祭のプログラムで小豆島で滞在制作をしていたんですが、僕らは幼稚園を拠点にしたんですね。そこには大量の紙芝居が残っていたこともあって、紙芝居屋さんをやることにしました。紙芝居というのは数分で終わる演劇とも言えるし、どこでも劇場にすることができて、額縁もあるからみんな安心して観てくれるんですね。実際にやってみると、紙芝居にも時間があるんだということに気づいたんです。一枚の絵が持つ時間というものがあって、どれだけ話が面白く展開しても絵が変わらないと息苦しくなる。いま時間が成立しているかどうかということを凄く考えて物事を見ているところがあるんです。

ままごと「港の劇場」瀬戸内国際芸術祭2013 小豆島 醤の郷+坂手港プロジェクト Photo: 濱田英明

演劇で時間を作っていくというのはどういう作業なのですか?

柴:存在や会話が時間を生み出して、何もない舞台に風を吹かせるような感覚です。つくる時は時間そのものを彫刻のように削り取るような感覚になる時もあります。80分なら80分という何もない時間をどうすれば面白くなるか、80分以上の時間に展開できるか、ということを考えながら、つまらない部分や劇に対して効果的ではない時間、無関係な人間、会話というものをどんどんカットして、これが何にまつわる話なのかを整理していきます。よく彫刻家が石を目の前にすると、中に何かが見えるみたいな話がありますが、それに近い感覚かもしれません。世の中に全くない発想を生み出すというよりは、最適な答えを導くために、あり得ないルートを削りながら日常に隠れている何かを掘り出していくというのが自分の創作かなと思っています。

先ほど、これまでの時間軸を操る手法は劇の根本的な部分を弱めてしまうという話がありましたが、これからは劇の作り方を変えたいということなんですか?

柴:昔僕が目指していたのは、三谷幸喜さんがよくやっていらしたシチュエーション・コメディという劇の形式だったんですね。人の出入りや情報の出し入れによって劇が発展したり、伏線がどんどん回収されていくような構造の面白さが凄く好きだったんです。でも、自分でそれをやろうとした時に上手くいかなくて、時間軸を操るような手法に取り組むようになったのですが、どちらにしろ自分が好きだったのは、見ている人の知覚のスイッチが入ったり、「そういうことか!」と気づかせるような劇だったんです。数学の問題を解いた時や、何かをひらめいた時の気持良さにも近いと思うのですが、それをドラマに組み込めたら面白いなと。その「気づかせる面白さ」に僕が没頭していた時に、あえて考えないようにしていたのが「感情の面白さ」なんです。時間軸を操っている作品の中では物語も記号的であればあるほど良いと思っていたのですが、いまは演劇の大きな特性である感情を揺さぶるというところで何かできないかという思いが強いんです。

鹿野 護
なぜ自分の道理が必要なのですか?

前回お会いした時に、演劇は死と凄く関係しているということを仰っていましたね。時間を考えるということは、死を意識するということでもあるということですか?

柴:そう思います。自分の作品に限らず、演劇というのは誰かを死なせたり、何かをなくならせてばかりだなと思ったことがあるんです。でも、いまの世の中的に、「100年後にはみんな死んでいますよね」とか「宇宙はいつかなくなりますよね」という話をしてもどうなのかという気がしています。これまでは星が生まれて死ぬまでとか、100年や200年という一人の人間では生ききれない時間を演劇が作ることで、自分が見届けることができない壮大な時間を体感したような錯覚が得られて、それを面白く感じてくれていたところがあったと思うんです。でも、数人の人間の間の狭い時間の物語で、何百何千の人たちを感動させることも劇の醍醐味なんじゃないかと。劇の時間を膨らませてお客さんを包み込んだり、円環の時間を感じさせるような作品を作るではなく、「いま」という時間がこれから5年後、10年後に向かって一直線に流れていくということを信じられるような物語が書きたいと思っているんです。

それはすごく健全なことですよね。妻が農業をしているので、よく畑の話を聞くのですが、1ミリほどの小さな種が数ヶ月後に大きくなる。当たり前の事ですが、そうした話を聞くとポジティブにならざるを得ない(笑)。自然の中では脈々とそうした営みが繰り返されているのに、普段はそこに全然意識を向けずに、理屈や知識ばかりに捕われていることが、とても遠回りをしているんじゃないかと思うことがあるんです。もっとダイレクトに人生を楽しむ方法があるんじゃないかと(笑)。

柴:小豆島で滞在制作をしていると、島のおじさんやおばさんたちは、生活するということを満喫しているんですよね。それこそ島では時間の流れ方が全然違っていて、僕らが滞在した場所は外食できるお店もほとんどなかったので、自分たちで一日三食作るんですが、食事をするということが一大行事で、それができないと一日が成立しなくなる。都会では何も意識せずに15分くらいで済ませていた食事も、人に作ってもらったものをお金を出して得ていたんだということを実感するんです。生活のための色んなことに時間がかかるし、お金でショートカットすることができないから、東京にいる時に一日でやろうとしていたことが島では半分くらいしかできない。でも、自分の許容量がわかると逆にあせらなくなるし、身の丈を知るというか、近道がないということを知ることができた。島での生活を通して感覚が変わったところがあったんですが、そういうことを考える時間というのは凄く大切だなと思います。

そうですよね。すでに誰かが調べて書いた本などを読んで「知る」ことと、ダイレクトに体験して「わかる」ことは全然違っていて、その「わかる」という感覚が凄く重要だなと。外部から情報をインプットすればするほど、知識は蓄積されるけれども、巨大な「分からない」ことに近づいていく感覚があります。そうではない感覚を得るために、人は身体を動かしてスポーツをしたり、映画や演劇を見たりするのかなと。

柴:ある道理を人から聞いたり、本から知るということも必要だとは思いますが、それはわからないことや知らないことに気づくだけなんですよね。自分が持っていない正解のためのヒントや答えを外からインプットすることで問題を解決しようとする考え方だと辛くなっていくと思うんです。それよりも自分なりの道理を持てた方がいいし、そのためには、いかに自分の中に潜り込んで、気づきを引っ張ってこれるかだと最近は思っています。

鹿野 護「どうぶつと木」(OGATA,Incとの共同制作)

鹿野 護
無意識はコントロールできますか?

最近、意識というものは人間の中の凄く小さな要素だなと思うことがあります。例えば、心臓やまばたきなどは意識して動かしているわけではないし、巨大な「私」という仕組みが無意識の中で形成をされているんだなと。そう考えると、意識の中にある知性というものはさらに小さくて、でもそれによって人は楽しくなったり幸せになったりするのが凄い。最近はそうした無意識と意識の関係が面白いなと思っているんですが、演劇には、人のコンディションや無意識の部分から生まれる偶然性が大きく影響しそうですよね。

柴:そうですね。以前はそうしたブレを作品に入れたくなかったんですが、結局無意識を開放させた方が面白いんですよね。役者さんの能力というのは、いかに無意識を開放させて面白くさせられるかというところにあると思っているので、その能力を使わせないというのは損なんじゃないかと。人が意識的にできることなんて少なくて、例えば、無意識でした振る舞いを意識的に再現するというのは不可能に近いと思うんです。無意識が意識的になることで情報量が減って劣化するんです。不自然な演技というのは、あるひとつの仕草などに意識的になってしまうことで、無意識に人がする振る舞いがカットされてしまうことで生まれます。だから、いかに無意識を開放できるか、その状態を発動できるところまで意識的にセットできるかが大切なんです。

プログラミングの世界には、中央集権型と自律型の指示の与え方があるんですね。要はコップを持たせるために中央から糸を操るのか、コップを持ちなさいという指示だけをするかの違いなのですが、後者の方が高度なんです。無意識を発動させるというのはそちらに近いのかもしれないですね。

柴:そうですね。役者の演出は、まさにプログラムによって指示を与える感覚に近いと思います。不思議なことに、過度に命令を出して全員を操ろうとすると解像度が落ち、複雑さが減っていくんです。逆に抽象的なオーダーだけ与えて、自律させた方が複雑なことが起こる可能性が上がる。とはいえ、任せすぎると破綻をしてしまいます。ある演出家の方も言っていたのですが、その野生の部分と管理の部分のバランスを取るのが面白いところだと。いかに野生性を開放させた状態で管理をしながら、毎回同じところに連れていけるかということなんです。

ままごと「わが星」(2011年) Photo: 青木司

「野生」と「管理」のバランスの取り方は演出家によって違うのですか?

柴:そうですね。指示した以上のことはしてくれるなという演出家もいます。でも、俳優も人間なので、完全に考えるなというのは無理なんですよね。良い俳優さんというのは、こういう場面で人はこういう反応をするだろうということをイメージしながらプログラミングを自己形成して、演技の中で自然に出すことができる人だと思います。それができない人は台詞というプログラムしか処理ができない。例えば、ふたりが会話をしているシーンで、向こうから誰かが「おはよう!」と入ってきたら、普通はその存在を気にしますよね。でも、それができずに目の前の相手だけを見て会話を続ける人にはこちらでプログラムを書き足すわけです。演劇の台本にはすべてのプログラムは書き切れないから、俳優さんがどれだけのプログラムを持っているかが重要で、良い俳優さんは多様なプログラムの中から最も面白くできるものを選択して演技に取り込んでいけるんです。

作家のプログラムと俳優のプログラムがミックスして劇が展開していくのはとても面白いですね。

ままごと「スイングバイ」(2010) Photo: 青木司

鹿野 護
作品はいつ完成するのですか?

作品というのはどの時点をもって完成するものなのですか?

柴:劇というのは、時間と空間と人間によって成り立っていて、この三位が一体になって発動する仕掛けや企みがなければ完成とは言えないと思っています。また、ひと言に完成と言っても、戯曲としての完成と、演劇としての完成というものがある。僕は、何もない現実の場所や人に劇的な何かを見つけ出せるのが演出家で、存在や言葉に劇を生み出せるのが役者だと考えています。一方で劇作家というのは、紙と文字の中に劇を埋め込める人のことだと思っていて、最近は戯曲の部分をしっかり完成させるということを重要視しているところがあります。

青年団リンク ままごと「わが星」(2009) Photo: 青木司

戯曲を書き終えるというところで作品を完成させたいということですか?

柴:これまでは稽古場で完成させていたところがあったのですが、いまは戯曲に劇がしっかり埋まったと思えた段階で完成にしたいなと思っています。先ほどのプログラムの話じゃないですが、演出に軸を置いて考えていくと、振り付けなどを間違えられた時点で作品が成立しなくなってしまうし、劇場が変わると完成したものがまた未完成に戻るということもある。だから、どんな不特定な要素が投げ込まれたとしても、必ず完成に導いてくれる戯曲を用意することが僕の理想です。言葉の方にもう一度プログラミングを戻したいというのが最近の考え方で、優れた戯曲のプログラムというのは毎回役者を良い状態できるはずだと思っています。例えば、街の公民館で地元のおばさんたちが劇をやりたいと思った時に、その人たちの能力に関係なく、声に出して戯曲を読めば日常とは違う時間や空間が生まれるものが究極の戯曲なんじゃないかと。

ままごと「日本の大人」あいちトリエンナーレ2013 Photo: 羽鳥直志

誰が作っても美味しい料理ができる優れたレシピのようなものですね。

柴:そうですね。料理人というのはどんな料理でも美味しくできる人で、演劇に例えると、俳優という素材を使って料理する演出家だと思うんですね。一方で、「料理作家」という存在がいるのかはわかりませんが(笑)、どんなに料理ができない人でもこの通りに作ったらいつもと違うものができるというレシピを書ける人が料理作家=戯曲家なんです。どちらも料理であることには変わらないんですが、料理作家からしたらレシピを書いた段階で料理は完成していて、料理人の方は食材を見抜いた上でこう調理しようと決めた時点で完成するということです。俳優や空間を素材とすると、それらは固定することができないものなので、そこに完成を求めると難しくなってくるというのが最近の僕の考え方です。また、自分が演劇で感動するポイントは、「一人の人間の頭で考えたことや気づいたことからこれが生まれたのか」ということなんですね。そういう意味でも、もう一度「紙と言葉」というところに完成を持っていきたいんです。


インタビューを終えて

映像やインタラクティブな作品を作ることは、時間をいかに制御するか、ということでもあります。1カットの長さ、トランジションの時間、操作に対する反応速度、動き出しの加速速度など、細部にわたる時間への配慮が必要です。それはデジタルな空間に緻密な『装置』を組み立てていく感覚に近いかもしれません。細やかな調整の連動こそが全体の品質を上げる基盤となるのです。
柴さんの『時間そのものを彫刻のように削り取るような感覚』という言葉はとても印象的でした。組み立てるのではなく、削り取っていく。これは演劇にはまず『実際の空間』という高密度なキャンバス的存在があるからこそ感じられる感覚なのかもしれません。デジタル表現におけるキャンバスの初期状態はNULL(空)が敷き詰められている概念的状態ですが、実際の空間は素粒子も含めて様々な物質がはじめから満たされているのですから。
演劇の台本の話になった時、『行間を読む』という言葉が頭をよぎりました。台本にポーズや身振りのすべてを細かく書いてしまっては、それは膨大な厚さの一冊となってしまいます。抽象的な指示をもとに、俳優が自律的に演技を具体的に組み立てていくことが必要となるのです。俳優の中で作られる具体的でローカルな演技と、劇作家が作る抽象的でグローバルな物語の展開。この二つが乗算されて精度の高い時間の流れがつくり出されていくのでしょうか。
いかに俳優に自律的に演じさせるか。これをプログラム言語的に考えると、いかにオブジェクトに自律的に振る舞わせるか、ということになりそうです。ちょっと乱暴な比喩かもしれませんが、オブジェクト指向的なアプローチとも言えると思います。私はよくオブジェクト自身に乱数のパラメーターを持たせます。このパラメーターによって乱れや偶然性を生み出し、作者の小さな想像を超えた振る舞いを生み出すためです。
それが柴さんの語る『意識と無意識』の関係性にとても似ているように思いました。俳優の無意識を制御すること。オブジェクトの乱数を制御すること。そのふたつはいずれも、柔らかい偶然性を生み、世界観のリアリティと密度をあげるのです。さて、私たちは無意識の先に何を見ているのでしょう? 偶然性の奥に何を見いだしているのでしょう? ますます『分かりたいこと』が連鎖していく、興味深い対談となりました。感謝です。