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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

映像作家・鹿野 護さんが、
小説家・小川洋子さんに聞く、
「言葉に頼らない世界に惹かれる理由」

今回インタビュアーになる鹿野 護さんは、ヴィジュアルデザインスタジオWOWに所属し、さまざまな映像やインターフェースデザインを手がける傍ら、サイト「未来派図画工作」や展覧会などにおいて自らの作品を発表しているトップクリエイター。そんな彼がインタビューするのは、91年に『妊娠カレンダー』で芥川賞を受賞し、その後も『博士の愛した数式』や『薬指の標本』など数々のヒット作を世に送り出し、つい先日12年ぶりとなる書き下ろし長編小説『ことり』を発表した小川洋子さん。「映像」「言葉」「物語」「科学」「死」などさまざまなキーワードが飛び出す非常に刺激的な対話になりました。

鹿野 護
何を思い浮かべて書いているのですか?

僕は職業柄、何かを見たり聴いたりした時に、これを映像化するにはどうしたらいいかな? ということを無意識的に考えてしまうのですが、小川さんの作品には、違和感のようなものが常にありながら、それがスッと馴染んでいくような不思議な映像感覚があるんです。

小川:小説を書いている時は、私の頭の中にも映像があるんです。その映像が、読者が思い浮かべている映像とどのくらい近いのかは確認のしようがないですが、書いている時に頭の中にあるのは、言葉以外のものなんです。

それは映像のように動きがあるものなのですか?

小川:微妙なんですけど、やっぱり動きがありますね。ただ、そんなにわかりやすく動いているわけではないんです。ぼんやりしていると見過ごしてしまうようなところに、実は書くべき動きがある。書いている時は、言葉を考える時間よりも、その頭の中の映像を見たり聴いたりするというところに自分の感覚を使っているところがあります。

その映像が浮かばなければ書けないということですか?

小川:そうなんですよ。何か素材になりそうなものと出会った時に、それが映像的であるほど小説になりやすいんです。逆に、面白いストーリーが先にあって、それを小説にするということはないですね。ストーリーやあらすじというのは言葉で説明できるものですよね。そういうものは小説にはなりにくいですね。

新作の『ことり』を読ませて頂き、頭の中にイメージは思い浮かぶけど、実際に映像化するのが難しい作品だなという印象を受けました。僕は日頃から、映像や絵を言葉にするのは難しいなと思っていて、例えば、自分の顔を電話で説明できなかったりする。その時と似た感覚のようなものを作品の中から感じました。

小川:例えば、人物を描写するにしても、言葉にできないものこそが大事だと思うんです。『ことり』に登場するお兄さんが話す「ポーポー語」にしても、それ自体は小説の中に一言も出てこないですね。私の頭の中で、「ポーポー語」で会話をしている状態というのは言語化不可能だったんです。そういえば、こないだ面白い体験をしたのですが、私の小説をマンガにするという話があって、最初に、「主人公に名前がないと顔が描けません」と言われて、あぁそうかと。でも、私の頭にある映像ではみんな名札をつけているわけではないし、人種すら決まっていない。それでも小説を書くことはできるけど、マンガになると、洋服のボタンのデザインまで描かきゃいけないんですよね。

鹿野 護
なぜ科学的な題材に惹かれるのですか?

新刊の『ことり』にしてもそうですし、以前に書かれた『言葉の誕生を科学する』など、なぜ言葉の起源に着目しているのですか?

小川:これまで小説を書き続けてきて、今頃になって気づいたんですけど、私が心惹かれるものは、数学でもチェスでも、言葉に頼らない世界なんですよね。そういうものこそ書きたいと思う。私にとっては、人間同士が言葉をぶつけあっている恋愛小説のようなものよりも、人と人が出会い、黙ってチェスをする世界の方が物語的なんです。そう考えていくと、「動物はこんなにたくさんいるのに、なぜ人間だけが言葉を喋るんだろう」という疑問が出てくる。人間も最初の段階では、他の動物と同じように言葉を持たないという選択肢があったはずですよね。もしかしたら人間の中には、本当は鳥なんかと同じように言葉を持たない方向に行きたいんだけど立ち往生してしまっているタイプもいるんじゃないかと。そういうところから『ことり』のお兄さんが生まれたんです。


(左)『ことり』(2012)、(右)『博士の愛した数式』(2003)

小川さんの作品には科学的なモチーフがよく登場しますが、それらが物語の中に編み込まれていくと、ものものしさのようなものがなくなっていくんですね。たとえ数学を知らなくても、その世界が心の中に自然と入ってくる感覚があります。


小川:科学の世界というのは、非常に論理的に成り立っていて、その論理の正しさというものに科学者は人生をかけるわけですよね。逆に小説の場合は、登場人物の名前、人種、容姿などにしても、ある種の曖昧さを許してくれる。そういう意味で両者には隔たりがあるように思えるけど、科学者が追求している世界や、数学者が数式で表したいと思っている対象というのは、実はスゴく曖昧で、まだ誰も発見していない世界を相手にしているんですよね。その曖昧な世界を、彼らは論理的に記述しようとしている。小説家にしても、例えば人間の心のような、言葉にできないくらい曖昧なものを扱っている。この世界のあり様を、自分の目で確かめたいという欲求においては両者に差はないと思っています。

どちらも対象にしているものが大きく曖昧なものなんですね。

小川:そうですね。科学者や数学者と接していると、非常にロマンチストで、とても小説的な人物だと感じます。私も今日の鹿野さんと同じように、まったく違う分野である彼らに取材をすることがあるんですね。最初はスゴく不安な状態で行くんですけど、「よくぞ自分の研究対象に興味を持ってくれた!」という感じで、生き生きとわかり易い言葉で語ってくれるんですよ。彼らは、業績を認められるのが死後数百年経ってからかもしれないという世界に生きています。自分はその成果を見届けられないかもしれないけど、何か世の中の役に立つかもしれない。その寛大さや謙虚さというのは、ゼロからものを作っている小説家のような人間からすると本当に驚きです。例えば、フェルマーの最終定理を証明して何の役に立つんだと思うけど、それに一生をかけてしまえる褒め言葉としての馬鹿馬鹿しさや人間の尊さのようなものを、科学の世界の人たちは教えてくれるんです。

鹿野 護
物語はどのように作られるのですか?

例えば、『ことり』では、「言葉の起源」というものが作品のテーマとなり、そのまわりに色々な要素が付け加えられていくことで物語ができるのかなと想像してしまうのですが、小川さんは、作品のテーマは作家が決めるものではないということを書かれていますよね。実際には何を拠り所に物語の輪郭や筋が作られていくのですか?

小川:『ことり』では、自分や自分にとって大事な人と対話するための言葉しか持たず、他を捨ててしまうという選択をして生きる人間を書こうというのがありました。でも、最初の段階から自分でそれをわかっていたわけではないんです。じゃあ書き始める前に何があったかというと、小鳥の研究をしている先生との出会いや、密猟をしてメジロの鳴き合わせをしているグループの存在など、自分の好奇心のアンテナに引っかかってきた色んなものたちが引き寄せられて集まってくるんです。それらはまったく無関係だったはずなのに、自分に近寄ってくることで実はつながり合っているんだということが見えてくる。そこから、小父さんが鳥小屋を熱心に掃除している姿や、お兄さんがキャンディの包装紙でブローチを作っている場面などがわき上がってきて、どこかから「書きなさい」という合図が聴こえるんです(笑)。

最初に大きな筋があるわけではなく、細かい映像の描写みたいなものが次々と立ち上がってくるんですね。

小川:そうです。その映像を一場面ずつ描写していくと、振り返った時にストーリーができていたという感覚です。彫刻家が自分の作品を、「すでにそれは石の中に存在していて、自分は周囲を削っていっただけ」というようなニュアンスで表現することがありますけど、そういう感覚に近いのかもしれません。

小川洋子『物語の役割』(2007)

物語が終わる時というのは、それらの映像が消えていくような感じなのですか?

小川:そうですね。ラストはもうそれ以上映像が出てこなくなる感じです。書き始める前は描写すべき映像に覆われているんですが、それをひとつずつ文字に置き換えていき、周囲を見渡して忘れ物がないことが確認できると、「あ、終わったな」と(笑)。悩ましいのは、映像で見ている時には非常に生き生きとしていて好ましかったものが、言葉に置き換えていく過程で、自分がそれと対面している時の感動の大半が削がれてしまうことです。この映像をそのまま言葉に置き換えられたらどんなにいいのにっていつも思います。「私が見たレモンイエローのブローチは本当はもっと良かったのに!」って(笑)。

鹿野 護
なぜ喪失感を描くのですか?

『ことり』は死で始まり、死で終わる物語で、色んなところに喪失感が詰め込まれていて、結構心が痛かったんです。読んでいるうちに色んなところにポツポツと穴を開けられ、それがずっと続いていくような読後感がありました。

小川:これまでの人生を振り返ってみると、おそらく二度と会えない人の数の方が圧倒的に多いと思うんですね。本来ならば、「あの人にもう二度と会えない」という心の穴がもっとブスブス開いてもいいはずなのに、通り過ぎてなかったことのようにしている。小説というのはどんなものにも、その穴をよみがえらせる作用があるんだと思います。

僕も日常から「これが最後なんだ」と感じることがよくあります。特に子供が生まれてからは、最後の連続みたいな感じで、日々ブスブスと穴が開いていくんです(笑)。まわりの人たちにはよく「そんな風に考えない方がいいよ」って言われるのですが。

小川:寂しいから知らないふりをして取り繕っているわけですからね。人間には、なんとも言えない寂しさや切なさ、孤独などマイナスとされている感情が常にベースにありますよね。そこに飛び石のように瞬間的な喜びや幸福があるけど、それが浮かんでいるのは、悲しみの湖なんですよね。でも、悲しみが深いほどその人生は深い気がするし、そこに線香花火のようなささやかな喜びや幸福感が一瞬あって、それはそんなに巨大である必要はない。『ことり』の小父さんの人生もまさにそういうものなんですよね。

でも、それが不幸せな人生だったとは思えないんですよね。毎日繰り返しの生活をしているなかで、ちょっとした偶然性によって物語が展開していくという印象がありました。

小川:日常生活の偉大さは、円環なんですよね。錯覚なんだけど、そこに永遠を感じ取れる。同じ時間に起きて、お昼に同じサンドイッチを食べて、夜に同じラジオを聴くという永遠を感じさせてくれる円環が、人間にとっては喜びになるんですよね。日々開けられた穴を忘れたことにできる唯一の方法がそこにはある。

WOW「Light Rain」

僕は映像を作って美術館に展示することもあるのですが、「あの作品はもう見られないの?」とよく聞かれるんです。中には二度と展示できないような作品もあって、そこには喪失感があるんですね。作品を制作するという行為は、実はそういう喪失感を作ることなのかなと感じることもあります。

小川:絵画なんかにしても、売って人の手に渡ってしまえば、作者は二度と会えないわけですよね。作った本人さえ二度と会えないかもしれないものを作っているということは、スゴく鋭い穴を日々開けているということですよね。小説家の場合は、本が絶版になったとしても、図書館に行けば会えますからね。あまり再会したいとは思わないですけど(笑)。


WOW「Motion Texture」

過去の作品を読み返すことはあまりないのですか?

小川:私は過去の作品の登場人物たちに結構冷たいと思います。あれだけ集まって私に小説を書かせてくれた愛おしい人たちなのに、書き終わるとあっという間にそれぞれの島に帰っていくんですよ。次の小説のために集まってくる人たちの場所を空けないといけないですからね。だから、新しい小説を書く度に、物理的にたどり着けない場所の人たちに出会う感覚があるんです。わかりやすく言えば、彼らはみんな死者なんでしょうね。書き終わったらまた死者の国に送り届けるという感じです。

鹿野 護
作品と作家はどう関係しているのですか?

小川さんの小説は、物語の流れとディテールの描写のバランスがスゴく心地良く感じられます。そういうバランスは意識されていますか?

小川:それは持って生まれたリズムみたいなものなんだと思います。ただ、例えば締切が近いとか、体力的にくたびれているとか、こちら側の世界の事情には左右されないないように気をつけています。物語の中の登場人物には彼らの事情があるので(笑)。これは作家という仕事のありがたいところだと思うのですが、自分が本当に合わせなくてはいけないのは、登場人物の都合だけなんです。

登場人物たちのリズムが、その物語のリズムになっているんですね。

小川:そうですね。『ことり』にしてもお兄さんと小父さんの間には、淡々とした独特のリズムがあるんですよね。例えば、これはチェスの世界の時間の流れ方とは違うし、自分の書きたい世界ごとにリズムやスピードというのがあって、それに合わせていく感じです。

例えば、締切が近いというのは、物理的に最も大きなこちら側の事情で(笑)、僕もそれによって作品の制作に影響が出ることがあります。小川さんは、締切に対してはどう考えていますか?

小川:締切というのもなかなか良い働きをしてくれるんですよ(笑)。次にどうしたらいいかわからない時に、締め切りが迫ってくるとどうしても焦りますよね。そういう時は、登場人物たちに「助けてくれよ」という感じで問いかけるんです(笑)。要は、より集中していま書いている小説の世界に没頭して、耳を澄ませて、目を見開くということなんです。例えば、書き下ろしの小説と、季刊誌に3ヶ月おきのペースで書いた小説というのは、本になった時にやっぱり違うし、それがこの作品が持っていた巡り合わせだったんだなと感じることはよくありますね。

鹿野 護「Hotel Gadget」

作品の運命は作者とはまた違うところにあるんですね。

小川:作者が書きやすいやり方とか、出版社の都合とかを超越して、この作品はこう書かれたがっていたんだなと感じることはあります。作品が生まれるには何か必然があって、それを与えたのは作者だけじゃないんですよね。『ことり』にしても、メジロの鳴き合わせ会のことを知ったのは偶然の力。その偶然を見過ごさないようにしたのは自分だけど、自分以外の力を借りないと書けなかったと思う方が気分としてもいいんですよね。

作品の支配者ではなく、そこに居合わせて見届けるという感覚なのかもしれないですね。

小川:そうですね。私の小説には、誰にも認められずに世界の淵から落っこちそうなところにひっそり潜んでいる人に、ある事情で偶然出会うというものが多いんですね。彼らは、発したくも発せられなかった大事な言葉を抱えたまま無言で死んでいくのですが、その無言に耳を傾ける誰かがそばにいたはずだと。その人が無事に一生を終えて、あっちの世界に行くのを見届けるのが語り手であり、作家なんです。


インタビューを終えて

インタビューさせていただいてから、『私は何を見届けられるのか?』『私は何に見届けられるのか?』という気持ちに包まれることがあります。それは長い時間を意識せざるを得ない、曖昧ではありながらも切実な心象です。あらゆる科学や芸術、哲学、文学。それぞれの分野はかけ離れていて、過程も全く異なるものだったとしても、究極的には、私とは何か? 生きるとは何であるか、という問いにつながっていくと思うことがあります。小川さんがおっしゃられている『見届ける』という言葉は、そうした問いを日常生活で携帯するためのキーワードではないかと感じました。
もう二度と会うことができない。そんな切ない状況が、常に私たちを取り囲んでいる。足にまとわりついてくる子供達とはしゃげるのはいつまでだろう、というのは気づきやすいのだけれど、何気ない日常の光景すら、一期一会の連続であることには、なかなか気づきにくい。もし気づける感性を持っていたら、あまりの喪失感に絶望するだろうか、それともすべてのものが鮮やかに見えてくるだろうか。そんな思いを浮かべながら、自分の平凡な感性を奮い立たせるように、毎日の出来事に耳をすまして、目を凝らしてみています。
どんな人にも自分と同じように物語がある。そう考えると『あの人は幸せだっただろうか?』と考えることは、とても無粋なことなのかもしれません。富や名声といった分かりやすい表面の奥、日常の中のさりげない繰り返しの中に物語は隠れていて、そのささやかな時間の流れの中にこそ、幸福というものが編み込まれているように思うからです。それは小説の中の物語でも、人生の中の物語でも同じだと思います。
小川さんにお話を伺うことで、そうした物語を次々と作り出していく小説家という仕事に対して、あらためて畏敬の念を抱きました。そしてその物語を支配せず、ただ物語に居合わせているだけとおっしゃられる謙虚さこそが、小説の中の豊かな世界を作り出しているのだろうと思わずにはいられません。