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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

クリエイティブディレクター/PARTY代表・伊藤直樹さんが、
爲末大学・為末 大さんに聞く、
「表現における身体感覚の重要性」

今回カンバセーションズにインタビュアーとして参加してくれるのは、デジタルメディアを中心にさまざまなプロジェクトを手がけ、日本を代表するクリエイティブ・ディレクターのひとりとして、国内外から注目を集めている伊藤直樹さん。「身体性」をクリエーションの重要なテーマとして掲げてきた伊藤さんが、今回インタビュー相手に選んだのは、400mハードルで3度のオリンピック出場経験を持ち、今年6月に惜しまれつつも現役を引退した為末大さん。引退後もさまざまな場での講演やイベント、ツイッターでの発言などで話題を集めている為末さんに、伊藤さんが聞きたいこととは?

伊藤直樹
体と頭のバランスをどう保っているのですか?

以前から為末さんの著作やツイッターなどを拝見していて、体と頭のバランスがよく取れている人だなという印象を持っていました。普通は、例えば部屋で本ばかり読んでいると、身体が鈍ってしまったり、逆に身体を磨くと言葉が持てないということが多いと思うのですが、為末さんは身体を磨くことと、脳を磨くことをどう両立させてきたのでしょうか?

為末:僕は現役の頃から、何かしら表現をしたいという欲求が強かったんですね。グラウンドで練習をしている時は大体ひとりだったのですが、基本的には寂しがり屋なので、練習をしている時に感じたものをシェアしたいという思いが強くて、それを言葉で表現しているうちに自然とこういうバランスになったのだと思います。その辺は他の選手とは若干違うところだと思っていて、フィジカル的に僕より優れている選手はたくさんいますが、その身体の感覚を人に伝えるとなると、また別の話になってくるんですよね。よく言われるように「ドン」とか「ガツン」とか効果音で表現するアスリートが多い(笑)。僕はそれを言葉で伝えることに興味があって、そういうことに取り組んできたんだと思います。

言葉で伝えるということを意識するようになったのはいつ頃からなのですか?

為末:高校生くらいからですね。その頃から、自分が持っているコンセプトなどに対して、みんながどう思うのかを知りたくなって、人の意見を集めるようになったんです。少し言い方は悪いですが、自分のアイデアや感情をぶつけて相手を挑発、触発することで、相手の反応を引き出すようになりました。向こうからボールを投げてくれる人がいなかったこともあって、こっちからキャッチボールをスタートするということを、その頃からやり始めたんです。もともと僕は物事を客観視する癖があって、運動会の玉入れなどに参加しても、ちょっと引いて見ているところがあったりして(笑)。そういう性格だから、集団がこうだと言っていても、自分にはそうは見えないこともあって、「もっとこうした方が良いんじゃないか」とか「こういうアイデアを試したい」という思いが強かったんでしょうね。

言葉を鍛えるために具体的にしていたことは何かあったのですか?

為末:自分としては、特に言葉を鍛えたという意識はないのですが、23歳の頃から本をちゃんと読み出したことは覚えています。世界選手権でメダルを獲った後に、テレビで自分が話しているのを見て、ボキャブラリーが貧困だなということに気づき、これはマズイと(笑)。もともと読むことは好きだったので、もし本だけ読んでいたら頭でっかちな人間になってしまっていたかもしれません。でも、僕の場合は、いくら頭で理解しても走ってみて遅かったら使いものにならないですよね。だから、本を読んで自分の中に入ってきたものをすぐにアウトプットする癖があるんです。例えば、ボルトはこういうふうに走っているということを論文などを知ると、すぐに自分の身体で試したくなる。そうやって実験をしたいという感覚が強いし、アウトプットとインプットのどちらかだけに偏らないようにバランスを保とうとしているところはあると思います。

伊藤直樹
大衆とはどう向き合っているのですか?

為末さんには、とにかくまずは試してみて、そこでの反応を見ながら対話を重ねていくという姿勢が常にあるように感じます。 我々も表現をしていると、ネットなどで色々な反応があります。表現というのは自分の何かを晒すことでもあって、そこで得たレスポンスを次に活かしていくわけですが、ネット全盛の時代において、自分の表現をパブリックにしていくということには、どう向き合っていますか?

為末:例えばツイッターにしても、先ほどの高校時代の話と同じで、とりあえず自分の意見やアイデアを書いてみて、そこに矛盾があるのか、どれくらい世間とのズレがあるのかということを見ているところがあるんですよね。ツイッターに自分の考えを書くのは、そこに反応があるからで、その反応に対して自分が触発されることをどこかで期待しているのだと思います。半匿名的なネット特有の反応に最初はカチンと来たこともありましたが、それにも徐々に慣れて、いまはたかがツイッター、されどツイッターと思ってやっているところがありますね。

オリンピックなどで大衆やテレビの前に自分を晒してきたことで、そういうものに対して人一倍耐性がついているというのもあるのですか?

為末:鍛えられる能力ではあるんだなということはわかりましたね。ある意味、大衆に麻痺していくとも言えるのかもしれないけど、慣れていくことで怖さや苛立ちが薄くなっていった感覚が実感としてありました。慣れるというのはツイッターなどにしても同じで、ツイッターで自分の考えを表現することが習慣になってくると、別の場所で発言する時でも、思っていることを遠慮せずに話せるようになっていったところがありましたね。

インターネットの世界では、「あっち側」「こっち側」という表現をよく使うんですね。為末さんはサンディエゴで生活していた時期がありましたが、その頃の為末さんのツイッターを読んでいて、サンディエゴという「あっち側」から日本を見つめて、日本人にメッセージを送ってくれている感じがしました。日本の反対側で、天候も環境も全く違う環境で自分と対峙していくなかで、客観的に見えてきたことなどはありましたか?。

為末:外から日本を見るという経験は初めてだったのですが、その中でジワジワと見え方が変わっていく感覚がありました。僕はいつも「一度冷めてみる」ということを結構大事にしているんですね。陸上をやっている時、最初は「たかが陸上競技だろ」と言われるのが嫌いだったのですが、実際にその視点に立ってみると全然見え方が変わるんです。自分の人生において、「たかが」と「されど」とのバランスというのは常に重要なんです。そういう意味で、一度引いて日本を見れたことは良いクールダウンになったし、それによってアメリカのシンプルさや日本の複雑さなど色々見えてきたものがありましたね。

日本に戻ってきた現在は、サンディエゴにいた時とはモードが変わっているのですか?

為末:サンディエゴにいた時は考える時間がたっぷりあったのですが、日本ではあまり暇がないんです(笑)。だから、頭の中で練りに練ったものを出すというよりは、半分くらいの状態で出して人の反応を見るという感じになっているのかもしれません。そういう意味では、サンディエゴにいた時とは少し変わってきているのかなと思います。

伊藤直樹
これからも身体の観察は続けるのですか?

為末さんは引退をされたことで、トップレベルで自分の身体と対話していくことは終えられたと思いますが、これからも身体と向き合うことは続けていくのですか?

為末:何かしら身体に関わることはやっていくと思います。引退してひとつ気づいたことがあるんです。陸上をしていた時の「疲労」というのは、食べて寝れば回復する類のもので、それを僕はずっと繰り返してきました。でも、仕事を始めてみて、体力とはまた違う「疲労」のメーターがあるんじゃないかと感じたんです。そのメーターは、むしろジョギングなどの運動して体を疲れさせることで回復するようなもので、いわば精神の体力みたいなものなんじゃないかと。現役時代は自分の体力を回復させるために色んなことを試してきたのですが、また違うメーターがあるんだということに気づきました。これまでの人生は走ることしかなかったからわからなかったのですが、道理でみんな走るわけだと(笑)。

僕は、もの作りにフィードバックするために走ったり泳いだりしているところがあるんですね。為末さんの場合は逆で、これまでは身体を観察することが軸にあって、その周りに本を読んだり文章を書いたりするということがあったのかなと。それがいまは我々の比率に近づいてきていているような気がします。

為末:そうですね。僕は、身体を観察するセンスみたいなものが少しはあるんじゃないかなと思っているんですね。例えば、「このふくらはぎの感じだと明日はアキレス腱が痛くなるな」とか、そういうことばかり観察していましたからね。最近は、仕事で疲れると首から上が風船のようなものにギュっと詰められたような感覚になることがあるんですが、走ることでそれが治るということをこないだ発見したんです(笑)。現役時代から、自分の身体を観察しながらそういう原因を探っていくということを続けてきたので、これからは伊藤さんがおっしゃる通り、体感をベースにしながら、そちらの世界に行こうとしているのかなという気はします。

僕は表現の世界に生きていて、周りを見渡してみた時にスポーツをやっている人はまだまだ少なくて、表現における身体の話を深くできる人はあまりいないんです。為末さんの場合は、自分の言語で本気で語り合える人はスポーツ界にはどのくらいいますか?

為末:なかなか難しいですよね。こちらから投げかけたことが相手に響いているなと感じることはよくありますが、そこで返ってくる言葉はフンワリしたものだったりすることが多いです(笑)。そのなかで水泳の北島(康介)くんなんかはやはり鋭い感覚がありますね。勘がスゴく鋭い。言葉で表現しようとする僕とは違って、彼の場合はもっとトガッていて、肌で理解している感じがありますね。あと、陸上の末續(慎吾)くんとかも調子が良い時は「膝が顔に当たりそう」という表現をしたりするんですね。大げさな表現ではあるのですが、その感覚はよく分かります。ただ、そういう感覚を共有できるアスリートは全体の数パーセントしかなくて、例えば心理状態の話などになると、なかなか共有できる選手は少なかったかもしれないですね。

伊藤直樹
アスリートに「美しさ」は必要ですか?

僕は以前から為末さんに「走るアート」「走る日本製品」といったイメージがあったんです。 為末さんの本などを読んでいると、走りや振る舞いに美学を感じますし、精密機械のように限りなく機能的であり、同時に美しくありたいと考えていたんじゃないかと。

為末:選手には色んな考え方をする人がいますが、大きく分けると2つのタイプがあると思うんですね。ひとつは、自分が理想だと考える走りに必要な要素を盛り込んでいこうとする考え方。もうひとつは、逆に要素をそぎ落としていくことで、本来の自分の自然な動きに近づいていこうとする考え方です。競技人生の前半は足し算型、後半は引き算型になる場合が多くて、僕も最後の方は後者に近かったんです。じゃあ何を省き、何を残すのか、AとBのどちらを選んでいくのかという局面で、選手が頼りにするのは科学的な根拠ではなく、自分の美意識や感性だったりすることが多いんですね。そして、そのジャッジは往々にして当たることが多い。僕の場合は、競技人生の終盤は、自分が気持ち良いとか心地良いと感じることが正しいことなんだという考えを意識的に持って取り組んでいました。そういうところはアートやデザインに通じるところなのかもしれませんね。

たしかに為末さんには、他のアスリートに比べて、デザインされていた感じがします。僕が見たSFCでの講演で、為末さんは昔の写真も出していましたが、中学、高校の写真を見ていくなかで、どんどん美しくなっていっている印象を受けたんです。多くのアスリートは、まずは早くなりたいとか合理的でありたいと思うはずですが、為末さんはそこに美しさというものを両立させている数少ない人のように感じました。


為末:美しい動きはパフォーマンスも高いということを自分のひとつのコンセプトにしていたから、美しくありたいという思いは強かったと思います。自分なりの理想というものがあって、そこに近づきたいという思いを常に持っていたのですが、それは単純な「速さ」とはまた違うものなんですね。だから、陸上を辞めた後もその理想の追求は終わるものではなくて、また別の登山口から登り始めているイメージなんです。それが何かを言葉で説明するのは難しいのですが、おそらく伊藤さんもそうだと思いますが、ジャンルをまたいで何かをつないでいくというところにスゴく興味があるんです。

現役時代も、スポーツ以外の要素を参考にしていたところはあったのですか?

為末:そうですね。さっき話したAかBかを選ぶ時のセンサーというのは、競技をやっているだけで磨けるものではないと思うんです。それは言語や、写真や絵画などの芸術、もしくは数式なんかとも通じるものがあるかもしれない。現に数学者の人が「美しい数式」という表現をすることもありますよね。人間は何かを極めていくと、美しさというものを高い次元で共有できると思うんです。そこには普遍性のようなものがあるんじゃないかと思い、陸上以外のものにも触れていこうと意識していたところがありましたね。

伊藤直樹
これからやりたいことは何ですか?

最後にお聞きしたいのは、人一倍体感のセンサーが働いていて、その感覚を言葉にすることもできる為末さんが、今後それをどう活かしていこうとしているのかということです。

為末:何をやったらいいか僕が聞きたいくらいです(笑)。でも、社会の中にスポーツをどう落とし込んだらいいかということにはやはり興味があります。例えば、競技場付きの病院があったらどうかとか、そういうことに自分の経験を活かしていきたいと思っています。あと、体感を通した学びや理解というものがもっとあってもいいと思うので、その辺も考えていきたいですね。例えば、目が見えない人に対して、「正面を向く」という概念を伝えるようとしても、言葉では伝わらないんですね。じゃあそれをどう伝えていくのかを考えていく時に体感が大切になってくるし、そこから人間の新しい理解や、コミュニケーションの形が生まれるような気がするんです。そういう体感ができるものを、スポーツを通してできたらいいなと。

為末さんによる引退後2冊目となる書籍『走りながら考える』。挫折や苦悩、恥など、心の中に立ちはだかるハードルをいかにして乗り越えるのか等、生き方のヒントとなる考えが満載。

それは僕も最も興味があるところです。ダイアログ・イン・ザ・ダークなどにしても、暗闇を作ることで盲目の人の体感を理解させようとしているわけですよね。あれを体感することは簡単ですが、その体験構造をデザインすることはある種発明だと思っていて、自分がやっていきたいことでもあります。為末さんの力をお借りしながらそういうものが考えていけるとスゴく面白いと思います。

為末:そうですね。あと、僕が面白いと思うのはやっぱり人なんですね。ソーシャルメディアにしても、最終的に行き着くのは人間で、人が書いていることや興味を持っていることが面白いわけですよね。そこにはいまスゴく興味があって、人間というものをもっと観察したいし、理解していきたいんです。具体的に何ができるかはまだわかりませんが、そういう社会心理学的な観点は常に持っていたいと思っています。それによってそれまで気づかなかった感情を発見できたりもするだろうし、変わっていく意識もあるんじゃないかなと。これまでは走っている時に自分の右手がどう動いているのかとか、自分の観察がほとんどでしたが、これからは人の観察をもっとしていきたいなと思っています。

11月24日から2013年1月14日まで表参道GYREで開催された伊藤直樹さん所属のPARTYによる展覧会「OMOTE 3D SHASHIN KAN」。3Dスキャナーと3Dプリンターを使い、10年代の家族の肖像をフィギュアという形で残すという試み。

個人的には、為末さんにはこれからも文章を書き続けてほしいなと思っています。「文体」という言葉があるじゃないですか。それは文字通り「文字の身体」だと思っていて、身体を動かしてきたからこそ言葉が体感的になるということがあると思うんですね。例えば、村上春樹さんの文体というのは、やはり普段走っている人だからこそ生まれているものだと思うんです。

為末:おっしゃる通りたしかに何かしら違う気はします。文章を書いていても、足が前に出ていく感覚や、心の動きについての描写など、自分の中に深い体感があるものには、何かしらリアリティがありますからね。

言葉と身体が高次元で両立した文体を持っている人というのは、現代の作家の中でもそんなに多くない。そういう意味で僕はこれからも為末さんの文章をどんどん読みたいんです。

為末:ありがとうございます。がんばります(笑)。


インタビューを終えて

インタビューの中で為末さんは、『試す』という言葉を使っていましたが、僕も水泳などをやっている時は、左手をどうやって入水させるかとか、自分の身体を観察しながら試していくということをしているので、その感覚はよく分かりました。『走る』とか『泳ぐ』というのは一見単純な作業のように見えますが、その中には緻密な身体の連携というのがあるんです。その一つひとつを分析しながら、微修正を重ねて改良していくということを超プロレベルでやっていたのが為末さんで、その話が聞けたことはとても良かったですね。実際にお話をしてみて強く感じたのは、やはり常人では分かり得ない高感度な体感のセンサーを持っている人なんだなということでした。そういった体感をお持ちの人が、これからどんなものを表現していくのかということにも、より興味がわきましたね。
僕は普段、風を感じるという体感をいかに映像の中に表現するか、太陽を浴びている気持ち良さをインタラクティブな触り心地として表現するかということを考えて、ものを作っています。その時に一番大切になってくるのは、自分の体感をいかに表現に落とし込めるかということなんですね。話の最後に出した『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』などはまさにそれを体現する装置で、圧倒的な体感があるんですよね。こういう五感が研ぎ澄まされていくようなものを作りたいと常々思っているし、為末さんの持つ超高感度センサーをお借りしながら、ぜひいつか一緒にそういうものを作ってみたいなと思いました