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「問い」をカタチにするインタビューメディア

問いから学ぶ

アートディレクター/グラフィックデザイナー・色部義昭さんが、
アートプロデューサー/ディレクター・北川フラムさんに聞く、
「アートフェスティバルのつくり方」

今回、カンバセーションズに初参加してくれるインタビュアーは、日本デザインセンターに所属し、さまざまな企業や文化施設のロゴやサイン計画、ブックデザインなどを手がけるグラフィックデザイナーの色部義昭さん。今回色部さんがインタビューするのは、「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」や「瀬戸内国際芸術祭」の総合ディレクターなどで知られるアートフロントギャラリーの北川フラムさん。同じく北川さんが総合ディレクターとなり、2014年に開催される「中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス」では、デザインディレクションを手がけることになっている色部さんが、北川さんにいま聞いてみたいこととは?

色部義昭
なぜ裏方の仕事に回ったのですか?

北川さんはもともとはアーティストになろうとしていたのですか?

北川:昔から絵を描いたりするのは好きだったんですが、高校の時に選択授業で取った美術の成績はたしか「2」でした(笑)。授業中は遊んでいるし、課題もやらなかったから当たり前なんですが。でも、田舎の高校にいた当時から、社会のために何かしないといけないという思いは強くて、浪人して東京に出てきてからはデモに行ったりするようになりました。でも、それ以外に何をやったらいいかわからなかったし、将来の職業についても同じでした。そんな時に村上華岳という日本画家が京都市芸大の卒業制作で描いたという絵を見て、凄く驚いたんですね。当時から図書館に行って本を読んだり、美術館に行って展覧会を見るということはずっと続けていたのですが、その村上華岳の絵と、その後に上野の国立近代美術館で見たボナール展をきっかけに、自分も本格的に絵を描きたいと思い、藝大を受験したんです。

学生時代はどんなことをしていたのですか?

北川:色んなことをやりましたが、主にコンサートやお芝居などの裏方の仕事のお手伝いをしていました。学校では彫刻の勉強をしていたのですが、だんだん裏方のお手伝いの方が主流になってきて、デパートの展示会の準備のために泊まりこみのバイトなんかをよく友達と一緒にしていました。そのなかで色々お手伝いをするチャンスが増え、それが現在の仕事につながっていった感じですね。しばらく食べられない時期もあったのですが、自分で色々思うところがあり、ちゃんと仕事をしようと思って最初に取り組んだのが、工事現場の仮囲いにパブリックアートを設置するという仕事でした。その頃から色々なコンペにも参加するようになり、まともに働くようになっていきました。

なぜ絵を描くことを辞めて、裏方の仕事をするようになったのですか?

北川:自分が好きだったアーティストなどを見ていても、みんな晩年はあまり良くないんですね。それはなぜかということを考えてみると、美術というのは宛名のない手紙のようなところがあって、誰にそれを見せたいかという根拠をみんな失ってしまっているんだということに気づいたんです。それは美術というよりは日本社会の問題で、結局絵を描こうと思っても社会の問題に辿り着くんだと。それなら自分は裏方に徹して、そういう問題に取り組んでいこうと考えるようになったんです。

色部義昭
アートとデザインの違いは何ですか?

いままで開拓されていなかった分野のことをどのように仕事にしていったんですか?

北川:いま考えると、普通なら都市計画などをやる建築家が参加するようなコンペに自分も出していたのは向こう見ずだったなと(笑)。でも、そのなかで仕事を頂けたというのがいまにつながっているんです。コンペで選ばれたら、自分が考えていることをある程度実現できるわけですよね。ささやかではありますが、若い頃から感じていた「こういう部分を変えなくてはまずい」ということを、仕事としてやるようにしてきたつもりなんです。美術には、デザインや建築のような需要と供給の関係というものがないので、例えばパブリックアートのように具体的な地域に関わって、ある意味「用を成す」というのは美術至上主義者からしたらおかしいということになるんですよ。でも、実際の社会に晒されて、好き嫌いを含めて色んなことを言われる世界にアートを持っていきたかったんです。

デザインとアートにはどんな違いがあると思いますか?

北川:デザインというのは、色んな人たちの用を成すことが目的ですよね。一方で美術は、たくさんの人たちの支持は必要ないんです。むしろ美術にとって重要なことは色んなものがあるということ。例えば、2600万人の人間をアルファベット26字に例えると、平均値は真ん中の「M」か「N」ということになるわけですが、そこにいるのは「M」や「N」の人たちだけではないんですよね。中にはとんでもない「A」や「Z」もいるだろうし、アートの場合は、それらがすべて違うことが前提なんです。だから、自分が芸術祭などを企画する時でも、まずはとにかくゴチャゴチャと色んなものがあることが良いと思っているところがあります。アートには平均値はなくていいし、まとまる必要もない。その絵がその人に取って良ければそれでいいんです。一方でデザインというのは、ここにいる人たちみんなが納得できるものを思考せざるを得なくて、それぞれ機能が全然違うと思っています。

北川さんは芸術祭を通してどんなことを目指しているのですか?

北川:美術に対する一般的なイメージというのは、高尚でよくわからないものという感じですよね。でも、いまの話ともつながりますが、みんなが面白い入り方ができるのが本来のアートだと思うんです。芸術祭にしても最近はスーパースターたちが面白がって関わってくれているし、これまでアートに興味を持っていなかった一般の人たちも「なんか面白そう」と感じて来てくれているところがあると思います。例えば、同じ義務教育で学ぶ音楽の場合は、カラオケなどもあって、みんながもっと身近に接しているけど、美術となると1年のうちに絵を描く機会がある人は少ないだろうし、音楽のように歌を口ずさんだり口笛を吹くくらいの感覚ではやっていない。それに音楽の場合は好きか嫌いかを平気で言いますが、美術の場合は「好き嫌い」ではなく、「分かる分からない」で判断するでしょう。それがそもそもおかしいんじゃないかと思うんです。極端な話、子供やお年寄りなど、美術に対する知識がまったくない人たちでも面白がって接してくれるような、誰もが楽しんで見られる仕組みをつくるということをしていきたいんです。

田島征三「鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館」 photo:Takenori Miyamoto+Hiromi Seno 「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」より。

色部義昭
次はどんな芸術祭をつくるのですか?

来年の「いちはらアート×ミックス」はどんな芸術祭にしたいと考えていますか?

北川:市原で暮らす人たちの生活のベースにあるのは、地元で穫れたものをどう料理して食べていくかということなんですね。僕はそこに価値や意味があると感じているので、今回はアートに加え、「食」というものをベースに据えた芸術祭を作りたいと思っています。その中で色んなタイプのアートや生活が表現されていくといいなと。また、市原は過疎化が進んでいて、廃校になった学校もあるのですが、学校というものはもともと必然性があって存在していたものだし、地元の人の記憶のアイデンティティにもなっているものだから、それらを活かした色んなプロジェクトも考えています。それと、市原には小湊鐵道もあるので乗り物にも特色を出したいと思っていて、列車やリクシャ、リサイクル自転車なども使いながら、色んな点を線で結んでいけたらなと。

やはりその地域に行ってみると色んな受け皿があるんですね。プログラムのグラフィックデザインが大変そうです(笑)。

北川:市原には東京から近いという利点もあるし、さまざまな特色や財産があるので、それらを活かしながら地域が元気になるようなやり方を考えたいと思っています。食とか乗り物とか、もはやアートなのか何なのかよくわからないですよね(笑)。でも、そういうもので良いと思っています。もともとアートのために何かをやりたいということではなく、その土地を訪れる人や地元の人たちが楽しめるものをつくることが目的なんです。美術関係者に褒められる美術展を目指しているわけではありません。とにかく子供でも面白いと感じてもらえることをして地域を元気にできればいいし、そのためにアートが役立つ場合もあるだろうし、場合によっては食やスポーツでもいいんです。

スポーツですか?

北川:まだわからないですが、もともとこの芸術祭のスタートとなった市原湖畔美術館には湖や芝生の広場があるし、市原全体で見ても、東京・横浜から近いのに非常に自然豊かな場所なんですよね。湖畔美術館もそれを売りにしていて、もちろん美術館だからアートはあるのですが、「晴れたら市原、行こう」というキャッチコピーを使っているように、ここでやろうとしていることはピクニックのようなものなんです。例えば、朝起きて天気が良ければ、ピクニックやサイクリングをしに市原に行く。そうしたら美術館でも面白そうなワークショップがやっているぞと。もともと体を動かすということからスタートしているプロジェクトでもあるので、そこにはスポーツも関係していけると思っています。

色部さんがデザインディレクションを担当した市原湖畔美術館。

色部義昭
21世紀型のアートって何ですか?

北川さん個人としては、どんなアートが好きなんですか?

北川:個人的にはボナールやモネなど割と昔のアーティストが好きです。でも、そもそも時代を越えて残ってきた人たちは良いに決まっていて、それをわざわざ僕が言っても何も始まらない。むしろ同時代の人たちと一緒に苦労しながらやっていった方が面白いし、生きている感じがしますよね(笑)。

「いちはらアート×ミックス」にはどんなアーティストが参加するのですか?

北川:今回初めての試みになるのですが、「AROUND 40」を掲げ、40歳前後のアーティストを中心に構成する予定です。上の世代のスーパースターたちを集めれば話題にはなると思うのですが、将来アーティストが市原とどう関わっていくかを考えた時に、いまの40代くらいの世代であれば、これから先20~30年くらい良い関係性を築いていけるんじゃないかと。20~30年後になって振り返った時に、最初は大変だったけど一緒にやったんだということを共有できることは凄く大切だし、最初に付き合った人間というのはお互いにとって良い存在になりますからね。

イリヤ&エミリア・カバコフ 「棚田」 photo:Osamu Nakamura 「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」より。

いまでこそ北川さんの力でさまざまなアーティストが集まるようになっていると思いますが、最初は交渉なんかも大変だったのではないですか?

北川:大変でしたよ。例えば、ヨーロッパのスターたちを少ない予算で日本の田舎に呼ぶというのは、やっぱり簡単なことではないんです。でも、これを言ってしまっては身も蓋もないかもしれませんが、好きだ好きだと言い続けていたら、向こうはうるさいなと思いつつも悪い気はしないですよね(笑)。それで間違って一度でも来てしまえば、やっぱり田舎というのは断然面白いんですよ。それでハマり出すというケースは多いですね。

実際に芸術祭に参加することでアーティスト自身が得られるものも多そうですね。

北川:まずアーティストが明るくなりますね。都市の美術というのはやっぱり暗いんですよ。都市の時代だった20世紀は、都市の病理に対するカルテのようなアートも凄く多かったんですね。でも、いまは地球全体でどうしていくかを考えなくてはいけない時代になっているし、どの地域も疲弊に直面しています。そのなかでアートには新しい可能性があると思うし、21世紀型の美術というのは、瀬戸内や越後妻有のようなあり方かもしれないとヨーロッパでも凄く評価をしてもらっていて、実際に海外からの視察も非常に多いんです。また、美術に関しては欧米の流れというものがひとつの中心だったわけですが、そこに対する疑問もあります。欧米の真似事のような展覧会を日本でやってもしかたないし、瀬戸内でも越後妻有でも中国でもインドでも、それぞれの土地に面白さがあるし、その地域の魅力が立ち上がってくるようなことをやりたいとずっと思っているんです。

色部義昭
なぜこんなに集客できるのですか?

いまや「大地の芸術祭」や「瀬戸内国際芸術祭」には非常に多くの人が訪れていますが、なぜこれだけの集客ができていると思いますか?

北川:まず日本の田舎というのは凄く面白いんですね。ずっと東京に住んでいるだけだと人はおかしくなってしまうと思うし、実際に多くの人たちの潜在的な欲求があるから、瀬戸内や越後妻有にこれだけの人が行っていると思うんです。さらに言うと、日本人というのは旅で色んなことを学んできていて、そこで工夫しながら新しい経験をしてきたのですが、いまは旅がなくなってしまったんです。例えば、東京から高松なんて飛行機で1時間ちょっとで行けるわけですよね。そうなると、行くまでが旅ではなく、行ってから何ができるかを考えないといけない。越後妻有では最初、「こんな広い地域で100ヶ所も回らなきゃいけないなんて冗談じゃない」と言われたりもしたのですが、いざ始めてみるとみんなそれを面白がっているんですよね。瀬戸内にしても、こんなに島ごとに特色があって、海を渡るということがこんなに気持ち良いものだったのかということを学ぶわけです。だから、その場所に行ってからの旅ということを意識しているところがあるんです。最近は「瀬戸内国際芸術祭」にしても、2,3泊くらい滞在して回る人が増えていて、行ってからの旅というものが浸透し始めているように感じます。

北川さんがやられているような芸術祭は、マーケットと関係していないというのも大きな特徴ですよね。

北川:直接的な利点はなにもないし、手間ひまもかかる(笑)。でも、だからこそ良いんだと思っています。これが何かもっと直接的なものだと、「どういうお客さんが買ってくれるのか?」とかすべてお金に直結してしまうんです。現在「瀬戸内国際芸術祭」には4000人のサポーターがいるのですが、多くの人たちが自分が関われる場所を探しているところもあるんですね。東京にいるとどうしてもひとつの駒になってしまうけど、瀬戸内に行くと凄く歓迎をしてくれるし、そういう場所があるというのはうれしいことですよね。それが「これまではこういうやり方をしてきた」とか「こうした方が売れる、効率が良い」という議論になってしまうと、そもそもの目的から外れてしまうんですね。

地方でこうした活動をする意義として感じていることはありますか?

北川:東京に住んでいると、凄くたくさんの選択肢がありますよね。例えばコンサートなどでも色んな歌手の中から選んで見に行けるけど、田舎にはそういう選択肢がない。結局その中で子供の時に見たものというのが、その人のひとつの基準になると思うので、田舎でやるものほど手は抜けないし、子供にとって可能な限り良いものをやろうと考えています。例えば、瀬戸内の男木島には、「昭和40年会」の素晴らしいアーティストたちを呼んでいるのですが、それを子供たちが面白いと思ってくれるかどうかが凄く大事なんです。最近、廃校になっていた男木島の小学校が来年開校することになったというニュースがあったんですよ。それこそ芸術祭などをきっかけに、親の故郷がこんなことになっているんだということを知り、UIターンをした家族が出てきたんですね。僕の希望としてもこういうことがしたかったわけですが、本当にこんなことが起こるんだと驚きましたね。そういう化学反応が、来年の市原でも起きてくれたらいいなと凄く期待しています。


インタビューを終えて

芸術祭のような大きなプロジェクトを動かすには、どのような力が必要なのだろうか? 中心でそれを動かす行政の方やアーティストやデザイナーと、それを周辺で支えるサポーターをはじめとする地元の人や事業者など、それに関わるとても多くの人間の力がまず必要です。一方で、潤沢でない予算や時間拘束の面など、仕事として深く関わるには厳しい条件が重なる。でも、まず各役割の中心を成す人間(役者)をしっかりと巻き込んでいかないと話が進んでいかない。
僕自身がまさにいまそんな渦中にいるわけですが、色々と話を伺っていくなかで思ったことは、周囲の人間をポジティブに巻き込んでいくのが北川さんだということです。アーティストだけでなく、地域の住民や地元の事業者まで様々な人間が、北川フラムという一人の存在を介して各々の夢を見ている。そのような状態が北川さんの周辺に自然にあるのだと感じました。