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「問い」をカタチにするインタビューメディア

未知との出会い

グラフィックデザイナー/cochae・軸原ヨウスケさんが、
「PEPPERLAND」主宰・能勢 伊勢雄さんに聞く、
「ライブハウスの本質について」

去る10月15日、岡山のcafe moyauさんをお借りして開催した公開取材イベント「QONVERSATIONS TRIP OKAYAMA」。岡山に移住もしくはUターンされた方がインタビュアーとなり、岡山で長く活動してきた方々にインタビューするというテーマのもと開催されたイベントのダイジェスト版をお届けします。
公開取材イベントのトリを飾る「SESSION3」では、故郷である岡山に昨年Uターンされたグラフィック・デザイナー、軸原ヨウスケさんが、70年代にライブハウス「ペパーランド」を岡山に設立し、新しい表現者たちに門戸を開放する傍ら、ご自身の映像や写真作品、文筆活動なども精力的に行なってきた重鎮・能勢 伊勢雄さんにインタビューをしてくれました。

軸原ヨウスケ
なぜライブハウスを始めたのですか?

僕は、昨年の5月に岡山に戻ってきたのですが、それまで東京にいて、人生の転機のことある毎に、能勢さんという巨大な背中を見てきたんです。松本俊夫、松岡正剛、ルドルフ・シュタイナーなど、自分の影響を受けたものを見ても、いつも能勢さんがどこかにいて。岡山に戻ってきてから能勢さんがずっとやられている「岡山遊会」というイベントにも参加させてもらったりしたのですが、こうしてちゃんとお話をするのは今回が初めてなので、色々とお伺いしてみたいなと思っています。

能勢:いま軸原さんがおっしゃった「岡山遊会」というのは、すでに30年ほど続けているんですね。今日もそうだと思いますが、こういうイベントというのは終わりの時間が決まっているからいつも話し足りなくて、序の口だけで本論に入れないまま終わってしまうということをこれまでに何度も経験しているんですね。だから「遊会」ではスタートを夜にして、力尽きるまで続けるということをしているんです。

今回インタビューするにあたって、能勢さんが2004年にやられた展覧会の図録を見ていたのですが、本の構造が辞書のようになっていて、能勢さんがこれまでに書かれた膨大な量のテキストなどが収録されているんですよね。あまりの量で逆にどこから聞いていけばいいかわからなくなってしまったんですが(笑)、今日は「ペパーランド」をずっと運営されてきた能勢さんに、ある土地で場所を持つということ、お店をやるということを中心に聞いていければなと思っています。図録にある年表を拝見すると、まず60年代に「アンダーグラウンド・シネマテーク」というのをやられていますね。

能勢:そうですね。岡山にシネマ・クレールという単館映画館があり、そこを経営していた浜田(高夫)さんという人が「映画友の会」というものを運営していたんですね。その初期から僕も関わりがあったので、ペパーランドを始める前からそういう流れのことをやってきてはいたんですね。

70年代に入り、自分のお店を持とうと思った理由は何だったのですか?

能勢:表現には規制というものがつきもので、例えば、公共の場所ではポルノムービーみたいなものは上映できないですよね。だから、自分が場所を持つにあたって、ありとあらゆるメディアの表現ができる場所にしたいという思いがまずありました。また、日本に持ち込まれたアンディ・ウォーホルの「ファクトリー」の映像を見ると、そこは音楽やアートをはじめあらゆるカルチャーが渾然一体となっている場所だったんですね。それを見て、こういう場を岡山にも作りたいというところからスタートしました。ライブハウスというものが、いまは音楽の専門店化していますが、もっと本来の「LIVE」、つまり「生きている」ということに根ざして運営するべくやってきましたね。

ペパーランド外観

軸原ヨウスケ
ライブハウスに求められる機能は何ですか?

開店当時のペパーランドはどんな雰囲気だったのですか?

能勢:現在のペパーランドは、鉄筋が丸裸で見えているような造りになっていますが、開店したのは74年のフォーク全盛期でしたので、カントリー調のウッディな内装でスタートしました。当時は、昼間は喫茶店のように席があって、夜はライブをするという感じでしたが、ライブの途中でもオーダーがあればそれを普通に受けていましたね。

70~80年代に東京の青山に「パイドパイパーハウス」というレコード屋さんがあって、初代オーナーの岩永(正敏)さんと親しくなったのですが、そこはレコード屋でありながら、喫茶機能もあって、細野晴臣さんや山下達郎さんなんかが来ていて、そこからひとつの文化が興っていったという話を聞いたのですが、それに近い感じかもしれないですね。

能勢:「パイドパイパーハウス」にしてもそうだし、最近代官山にできた蔦屋書店なんかもカフェが併設されているのは、結局お店というものをメディア化したいわけです。ライブハウスの場合にもそれが重要なんですね。例えば、音楽というのは時代に応じてどんどん傾向が変わっていくわけですが、次の時代を予感させるスペクタクルでエッジなものが常に現れてくるものなんです。それを店側が受け入れられるかどうかが重要で、ライブハウス自体をメディア化していけるかということにも関わっているんですね。ライブハウスをただの音楽を演奏する箱と捉えるのではなく、メディア化ということを考えていく。その時に、1920年代から30年代のヨーロッパのカフェ文化が大事になってきます。現在のカフェは、最近のライブハウスと同様に喫茶店営業に特化することで、メディアとしての機能を閉じてしまったのは残念なことだと思っています。

ペパーランドでのイベントの模様。

ジョナス・メカスの上映なども含め、ペパーランドというのは世界的に見て稀なほどエッジーな場所になっていったと思うんですが、それを商業的に30年以上成り立たせてきたということが本当にスゴいですよね。

能勢:いまもそうですけど、スタンディングだと二階席も含め200人くらい、イスを置いた状態で60人くらいがちょうどいい広さのスペースなんですね。例えば、いま東京でメカスの上映会をやっても、おそらく集客は100人いくかいかないかくらいです。そういう催しを1,000人入る場所でやっていこうとしたら、維持をしていく上でどうしても経済的な面を考えないと無理になる。ところがそれが60人くらいだったら全然問題ないんですよ。ちなみに、ペパーランドを立ち上げた時は、店名に「アンダーグラウンド」という言葉を入れていて、次のメジャーを用意するスペクタクルな芽を育てるという視点でスタートしています。

軸原ヨウスケ
ネット時代以降の「場所」をどう考えますか?

岡山に戻ってくる度に思わされていたのですが、この場所に能勢さんがいることで、色んな人が集まってきている印象があったんですね。能勢さんはインターネット以前の時代から、東京や海外とのネットワークを作られていたと思うのですが、それはひとつの場所を起点にできていったものなのか、それとも能勢さん自身が外に出て開拓されていったのか、どちらだったのですか?

能勢:切り拓くということを意識的にはやっていなかったですね。以前に僕は東京に住んでいた時期があり、そこで気づいたことは、東京というのはニューヨークの田舎じゃないかということでした。でも、実はそのニューヨークもロンドンの田舎で、ロンドンはフランスやドイツの田舎だったりしたんです。このように考えると、岡山から東京を見た時に、田舎だと感じる必要はないんじゃないかと。むしろ岡山で岡山の表現をしていけば、東京や海外などとも自然につながっていくだろうと思っていました。東京にいた頃は、松岡正剛氏がやっていた工作舎という出版社の周りをウロウロしていたんですが、そこで色々な雑誌の編集者に出会うんです。そこで、彼らに一様に聞かれることは、「岡山でいまどんなことが起きているのか?」ということ。東京で動いている人たちは東京やニューヨークの情報には早いけど、地方の情報はあまり持っていないんですよね。彼らがそれを欲しがっているということを感じていたこともあって、じゃあ岡山でもエッジなことがやれるだろうと思い、この場所でペパーランドを立ち上げました。

能勢さんは、地方にいながらにして、いかにエッジーに生きていくのかということをずっと体現されてきていますよね。実は、僕もいつかお店ができたらいいなと思っているんですが、これだけインターネットが普及してきて、場所という概念が並列化してきているなかで、いま改めて場所の意味というのをどう考えていけばいいと思いますか?

能勢:まず、僕からすると、ネットによって自分の活動をみんなが知ってくれるというのはスゴくありがたいことなんですね。ネットで知ってくれるからこそ、その後によりリアルなものに触れに来ることができるんです。ネットの情報だけで満足される方はそれでもいいし、もっと突っ込んでいきたくなったら、出会うしかないのですよ。その手がかりを作ってくれるのがネットなんです。では、そこで改めて場所の意味を考えてみると、これだけネットで色んな情報やモノを探したり買い物ができる時代に、それに負けてしまうような場所やお店作りをしていてはダメだということですよね。その場所に行くと何か不思議な存在があるとか、品揃えが変わっているとか、そういう何かがないと。

CHOCHAE軸原さんが手がけたお仕事

それこそアマゾンなんかにつぶされてしまいますよね。

能勢:そうです。さっきも話したように、店というのはメディアなんですよ。ライブハウスにしてもカフェにしても、お店をメディア化できるかということにすべてはかかっていると思います。そういう意味で、いまお店ほどアナーキーな場所というのはないんです。今日のように、もし屋外にこれだけの人が集まって道路脇とかで話していたら、すぐにパトカーが来て、道路交通法違反だから立ち退いてくださいと言われますよね。ところがお店だと、正当な理由がなければ、警察が玄関をまたぐことはできない。個人の部屋と同じで、なおかつ開かれている側面を持つ。ある意味、不思議な治外法権の場所なんですね。そのお店がいまやらなければならないことは、「いらっしゃい!!」の一言で「内」と「外」をひっくり返すということなんです。歴史を振り返ってみても、お店の中には色々なことが隠されていて、それが世界を変えていった例は多い。それくらいお店というものは可能性を持っているんですが、ひとつの機能だけで捉えてしまった途端、それが消えてしまいます。

軸原ヨウスケ
風営法についてはどう思いますか?

(会場からの質問)お店のアナーキー性という話が出ましたが、現在の風営法の問題についてはどう考えられていますか?

能勢:すでに大阪なんかはダンスができなくなってきていますよね。ところが、学校の授業でヒップホップを教えようという話がある。これは一体何なんだ? ということですよね。本来踊るということは教えられるものであってはいけない。色んな音楽や環境に触れるなかで、初めて人間が自発的に踊ることの意味を発見するわけじゃないですか。だから、授業で踊りたくない子にまでブレイクダンスを踊れというのは無茶な話ですよね。

(会場)そのなかで幸いにも岡山はまだ平穏にクラブ営業がされていますが、今後どうなっていくのか、そして私たちはどうしていけばいいと思いますか?

能勢:例えば、大阪などではある地域に歓楽街を集めて、そこを特区にしようという動きがありますよね。東京でも特区でカジノ運営をするということを都が考えていて、それ以外のエリアのクラブやキャバレーなどは全部指導の対象にしようという考え方ですが、おかしな話ですよね。ヨーロッパでもクリミナルジャスティス法案が制定されてからはレイブや大規模なダンスというのはすべてブレーキがかかっている状態なんですね。それに抵抗するカタチで、T.A.Z.(=The Temporary Autonomous Zone)という動きが始まっているんです。日本語にすると、「一時的に自律したエリア」という意味なんですが、こういう形でレイブなりコンサートなりを続けていくというのはひとつの方法です。ヨーロッパでは、T.A.Z.のような動きを作ってメディア化することで、「一定の場所でできなくてもやれるんだ」という考え方が芽生えてきていましたね。

ペパーランドでのイベントの模様。

東東京などでは屠殺所の跡地をみんなで借りて、ひとつのメディアとして使っている事例なんかもあるみたいですね。

能勢:そのようなT.A.Z.的な動きが分散化され、これまでに、キッチンパーティなどが生まれてきました。キッチンパーティみたいなことは、大箱ではなかなか機能しにくいですが、ひとつはそういうゲリラ的な方向がありますよね。要は、営業権を持ってひとつの場所を使うとなると取り締まり対象になるんですが、一般的な貸しスペースだったら風営法にはかかりませんからね。また、大阪にあるもともとキャバレーだったクラブ「ユニバース」という所では、風営法の基準に引っかかる23時の直前に切り上げるパーティが毎週開かれていて、クラバーたちも頭を切り替えているんですね。そういうやり方もあるんじゃないですかね。音楽というのは、人間が持っている最も基本的なものだから、それが消えてなくなることは絶対にない。どんな壁が作られてもずっと音楽は生き延びると思うんですが、重要なのはそれに関わる人たちがもっと利口になること。いま音楽のフロントラインで何が起きているのかということを常に意識して、エッジを見ていくことも大切だと思いますね。例えば最近だと、EDM(ERECTRONIC DANCE MUSIC)という新しい音楽のムーブメントが生まれつつあって、ダンスミュージック中心だった「セカンド・サマー・オブ・ラブ」以来の、EDMを中心にした「サード・サマー・オブ・ラブ」として、バンドサウンドも取り込みながら一気に広がっていく可能性もある。音楽というのは我々の感覚を拓いてくれるものです。いまのDJたちが創り上げようとしているものをしっかり見てほしいなと思います。