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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

グラフィックデザイナー・有馬トモユキさんが、
小説家・長谷敏司さんに聞く、
「未来を示唆するSFの想像力について」

今回カンバセーションズに初登場するのは、グラフィックデザイナーとして、広告からアニメ、ゲーム、音楽関連のデザインまで幅広く活動している有馬トモユキさん。その有馬さんがインタビューするのは、『円環少女』『あなたのための物語』『BEATLESS』などの作品で知られ、今年に入り、ゲーム「メタルギアソリッド3」のノベライズ作品『メタルギア ソリッド スネークイーター』を上梓した小説家・長谷敏司です。SF小説の装丁なども数多く手がけてきた有馬さんが、長谷敏司さんにいま聞きたいこととは?

有馬トモユキ
未来への不安はありますか?

僕はグラフィックデザインを仕事にしていて、タイポグラフィの講師などをすることもあるのですが、グラフィックデザインやタイポグラフィに関わる人たちの高年齢化が進んでいるんですね。どんな分野でも未来が想像できないものは滅びると思っているのですが、デザインの未来を誰も言ってくれないという認識が僕の中にあって、むしろそのヒントになりそうなものを指し示してくれるのは長谷さんの作品だったりするんです。

長谷:僕は、21世紀に入ってから新たに生まれたビジョンというのはまだほとんどないと思っているんです。例えば、モバイルやネットワークは90年代の延長ですし、大きく変わったものはスマートフォンくらいですよね。先進国にドラスティックな変化が見え難い状況のなかで、現在の20代後半から30代の人たちというのは、そろそろ自分たちで次につながる新しいビジョンを描かないといけない時期に入ってきている。新しいものを探すというのは、新しいビジョンを享受する側の態度としては正しいと思うのですが、物書きとしての自分の立場を考えると少し違う。アンテナを広げて面白いものを探すというのは、作家としては自分が作れていないと考えると無責任な態度でもあって、「こんなに面白いものを作ったんだけどどう?」と新しいと思えるものをこちらから提案する立場でいるべきなんじゃないかなと思っているんです。

僕はやはり誰かに未来を指し示してほしいと期待しているところがあって、例えばそれがSFの想像力だったりします。

長谷:いわゆるSF第一世代の人たちが描いた未来のビジョンというのはいまだに実現していないですし、50年以上前に提示されたビジョンには当たっている部分と外れている部分がそれぞれあります。携帯電話の一般化などを指して、SFの未来予測が外れたと言われることもありますが、科学や技術は当て物ではないですしね。だから、外れたら修正して次のビジョンを出し直すことができる。なのに、何かしらビジョンを描くというアプローチができる人間がそれをし切れなかったから、未来に夢見るものが見えにくい現在になってしまったとも言えます。いまある状況に対して修正をかける仕事を、その立場にある人がすることで何かが次につながっていくだろうし、つないでいくことが自分の職業の誠実な社会的立ち位置なんじゃないかと思っています。

グラフィックデザインの仕事も時代とともに役割が変わってきています。例えば、ロゴマークやポスターなどの役割も変容しているし、誰かがゲームチェンジをすることで従来の職業がなくなることもあるかもしれません。でも一度振り切ってしまうことで変わる部分もあるだろうし、僕個人としては最初に崖から突き落とされる立場でいたいとも思っています。一方で、伝統的な価値観の中でやってきた人たちを、どういまの時代につなげればいいのかということをいつも考えています。

長谷:僕は割と不安に常に追われているタイプなのですが、「進歩」と「不安」というのはあまり関係ないと思うんですね。おそらく100年後には、いま我々が不安に思っている原因となるものを当たり前のように享受しているだろうし、一方でまた新しい不安も生まれているはずです。不安自体は人間から出てくるものであって、進歩から生まれるものではない。PCがないようなアフリカの村で生きている人も、先進国の日本で生活を営んでいる人も不安を感じるシステム自体は同じで、結局未来への不安というのは、進歩の結果自分がそこにいられなくなるような原始的なことだったりする。人間の神経システムはおそらく100年後も変わらないだろうし、つまるところ、未来に対して自分がどう動いていけて、いかに居場所や生活を確保できるのかということなんだと思います。

有馬トモユキ
なぜ色々なメディアと関わるのですか?

先日、「メタルギアソリッド」のノベライズ作品を出されましたが、このようなゲームのノベライズはかなりハードルが高そうですね。

長谷:ノベライズに適した文章技術というものがおそらくあるのですが、あいにく僕にはそれが弱かったのでかなり難航しました(笑)。ゲームであることより、「メタルギアソリッド3」というタイトルの物語の作り方が、難しく面白いところでした。「メタルギアソリッド」の小島秀夫監督は、物語を柱から作っていく方なんですね。人間ドラマという柱を作り、そこから枝葉のように世界を広げていくのですが、その時々の社会状況などを取り込みながら、常に新しいものを提示してきています。ゲームとしてプレイヤーを操作して進めてゆく流れも、ドラマの要素になっている。ドラマの世界をしっかり骨格から作っているからこそ、25年間も継続できているのだと思うし、ドラマは柱から作るのが王道です。一方でSFというのは面白くて、柱ではなく壁で建築を作っていくところがあるんですね。極端な話、柱のことは考えずに壁だけで情報を構築しながら一冊の小説を書き切ることもできるし、柱の存在そのものに疑問を投げられる。それはSFというものが作ってきたひとつのデザインの形であり、構築してきた物語の形なんです。そういう点でSFというのは、他の小説の分野などに比べてデザイン性が高いものだと思います。

代表作のひとつ『BEATLESS』なども象徴的だと思いますが、長谷さんの特徴として、他のメディアとの密接な関係性というものがあります。当たり前のことですが、小説家というのは文章で突き進んでいくような仕事ですが、長谷さんの場合は、他のメディアと連携していくことが前提になっているプロジェクトが増えているような気がします。

長谷:僕がSF作家として何をしていこうかということを考えていた時期に最も参考にしたのは、60年代~80年代のSF小説だったんですね。SF作家とはどういう仕事なのかを自分なりに考えておかないと怖かった。とはいえ、いまこの時代に小説を書くということは、色々なメディアとより密接に関わっていくことなんじゃないかと考えています。例えば、小説自体がメディア化するものであったり、他のメディアと一緒に物語を作っていったり、あるいは他のメディアで生まれたものをSFやSF小説の方に引っ張って、面白いものがあると期待してくれている読者と楽しんでいける新しい環境を作っていくということが、いまらしい仕事の仕方なんじゃないかなと。

長谷さんはいまなりのやり方というものを非常に意識されていますよね。

長谷:自分の仕事がなぜいま必要なのかということを考える時に、そもそもの要求はどこから出てきているのかということを意識した上で、自分が求められた仕事のなかでいかに答えを出していけるかということが大切だと思っています。要は、自分の仕事が求められる要因になっているものに対して、いかに正確にアプローチしていけるか、接近していけるかということなんじゃないかなと。

長谷敏司『メタルギア ソリッド スネークイーター』(2014)、『BEATLESS』(2012)

有馬トモユキ
小説とプログラミングは似ていますか?

もともとはプログラマーの仕事をされていたそうですが、長谷さんの文章自体もプログラムではないですが、書いた通りに正確に稼働している感じがするんです。「こいつは死ぬだろう」と思ったヤツは確実に死んだりしますし(笑)。

長谷:そう言われてみると、たしかにプログラマー時代の習慣が残っている気がします。自分のものの書き方、デザインの仕方として、ちゃんと歯車が噛み合っているかどうかを検証しながら、何度もトライアンドエラーを繰り返して修正をかけていくようなところがあります。何度も寄ったり引いたりしながら検証し、ミクロ/マクロどちらのスケールで見ても面白いものにしたいという意識があるんです。作業工程としては、自分が書いたものをゲラでチェックして、そこに赤字を入れていくことで、最終的に書籍の形になるわけですが、このゲラのチェックが、プログラムの納品前のテストみたいに思えることがあります。テストをしてしっかり動くものじゃないと出してはいけない気がしてしまうんです。

長谷さんの文章には周りくどいところがなく、非常にわかりやすいんですよね。僕もデザインをする際に、飾り文字やドロップシャドウなどの処理を極力かけないでシンプルに表現することが多いのですが、長谷さんはより強固にそれを徹底しながらディテールを成形しているイメージがあります。

長谷:検証や修正を重ねながら、行間を埋めていくことでしか自分の作品に確信を持てないだけなんです。そういう意味では、本来の小説の書き方がまだできていないのだと思いますし、余白がないとか、作家の文章芸としては直截過ぎるなどと怒られることもあります(笑)。普通なら書き得ないものを、文章を使ってとらえるということが本来の作家の仕事だろうし、描線を隠すことによって描線を意識させることこそがきっと作家の本道なんです。そういう意味で僕はまだいっぱいいっぱいで書いているところがあって、自分の文章が完成するのは、順当にいけば50代半ばくらいなのかなと考えているところがありますね。

長谷さんの作品には一貫して、未来に対する提案と人間の生死というテーマが同時に入っている気がしています。人の”生き死に”をここまで真っ向に書きながら、しかもそれをエンターテインメントとしして成立させている方は珍しいですよね。

長谷:それは僕自身が病気をしたことをきっかけに作家を始めたということと関係しているのだと思います。何年後かはわかりませんが、人間というのは当然みんな死ぬわけで、僕たちが影響を受けた小説家やデザイナーの多くもすでに死んでいるわけですよね。でも、自分たちと同じようにある時代に暮らしを営んだ人たちが、世界にどうアプローチし、世の中に対してどういうものを残していったのかということは、いまでもその痕跡から伺い知ることができる。当然自分も何かしらの痕跡を残して消えていくわけですが、有限の仕事量の中で、いかに自分なりに面白いと思えるもの、人に読んでもらえるものを出していけるかということを考えながら、日々成功したり、失敗したりしているんです。

有馬トモユキ
SF業界の現状はどうですか?

長谷さんの作品には新しい人間の提案というものが描かれていて、そこにハッとさせられたり、勇気づけられる人も多いと思います。そうした提案性というのは、エンターテインメント作品においても大事な部分だと感じます。

長谷:もちろんSFにも売れる、売れないという話はありますが、それとはまた別の問題として、世界はどうあるか? 人間はこうであるのか? あるいは、そうした大きなものが実はこうなのではないか? といったビジョンの提案がいかにできるかというのがあると思っています。科学や技術は未来に向かって進んでいくものなので、昔はわからなかったことが現在ではわかっていたり、現実感がなかったものに現実味が帯びてきたりするわけですが、あらゆるものが更新されていく状況下で何を提案できるのかというのは自分の仕事における大きな部分です。「本当はたぶんこうなんじゃないか?」と自分の疑問を素直に突き詰めていきながら、いかにして受け手と関わりを持っていけるかが大切ですし、様々な形で提案をしていくものがある限りは、SFというジャンルは生き残っていくんじゃないかなと思っています。

長谷さんがSFに対して興味を持っている人に何か作品を勧めるとしたら、どんなものを挙げますか?

長谷:いまの日本の若い読者に勧めるなら間違いなく小川一水さんですね。SFの必読書となると、いまだに古い作品が出てきてしまうのはしかたのないところでもありますが、自分たちが若かった時代といまの時代の読者というのは、おそらく感性が少しずつ違うと思うんです。とはいえ、僕らが中高生の時に読んできた作品を、いまの読者がどう読むのかというのは想像するのが精密にできるようでできない。そうなると現役の作家を読んでほしいということになるわけですが、例えば少年漫画の世界などを見てもわかるように、どんなジャンルにも本道を進んでくれている人の存在というものがあるんです。そのジャンルにおけるメインストリームとしての面白い部分を支えてくれる人というのがいて、いまおそらく日本のSFの王道として、新しいところを進んでいるのが小川さんだと思っています。

たしかに小川一水さんの作品には、SFのあらゆる要素が入っていますね。そういう部分を担ってくれている人がいるからこそジャンプできるということもありますよね。

長谷:おそらく当事者たちにはそういう意識はないと思いますが、メインストリームで良い仕事をしてくれている存在がいてくれるジャンルは幸せだと思います。観客のみなさんからジャンルに期待できると思ってもらう時、多分SFなら宇宙のような王道の部分に期待を支えてもらっている部分は大きい。ニッチは、誰かがメインストリームで信頼を築いてくれないと先細る。いま何がしか自分が新しい、面白いと思っているものを出した時に、読み手が受け入れてくれたり、誰かがマネタイズしてくれるという信頼のようなものが、この業界にはあるのかもしれないと。そういうマッチングがうまくできていないと、業界は硬直していってしまうんじゃないかと思います。

宮内悠介『ヨハネスブルグの天使たち』 装丁:有馬トモユキ ©早川書房

有馬トモユキ
新しいモチベーションって何ですか?

先日、「ハヤカワSFコンテスト」の選考で残った4作品を読んだのですが、すべてとても面白くて、改めてこの分野はいいなと羨ましく感じました(笑)。

長谷:大切なことは、その業界や場が持っているモチベーションがいかに更新されていくかということだと思うんです。だいたいのものは古くなっていくし、ずっと同じ切り口が通用するということはない。だから、モチベーションというのは、いま現在その文化に参加している人たちが大切に育てていかないといけないもので、その枝葉の伸びている方向が時代の状況と合っているのかはとても大切だし、そこに対して何がしかのアプローチをしていく必要があると思うんです。いまSFを書いたら面白がってくれる人がいるのは、作家や読者、その他関わって下さっている方々によって作っていくことができたSFのモチベーションというものがあるからだと思うんです。そこにモチベーションが立ち上がることで需要が生まれ、産業として仕事が活性化し、コミュニティが作られ、循環していく。そのエコシステムの中で何をしていけるのかということが、自分の仕事を支える大きな柱のひとつになっています。

菅浩江『誰に見しょとて』装丁:有馬トモユキ ©早川書房

以前にiPhoneでFlashが使えないということがわかった時に、Web業界では思考停止になった人などがいたり、さまざまな反応がありました。でも、そこで自分たちが寄り添っていた基盤が脆弱だったことに気づき、自分がやりたいことを他の場所で活かせるんじゃないかと考えた人たちは良い方向に進んでいったような気がします。これもおそらくモチベーションが更新されたということですよね。

長谷:そう思います。Webクリエイターのモチベーションというものを分解・再編集した時に、Flashというものはあまり関係がなかったということですよね。画面の中で何かを動かしたり、編集したりすることで驚きを与えたり、Webページやネットワークの中でいかにエモーションを作って、動員を生んでいくということが、Webクリエイターが育てたモチベーションで、それがiPhoneなどの新しいプラットフォームや状況に対して還元されていったのだと思います。

僕はいまデザイナーとして、広告から書籍の装丁、ゲームやアニメ関連のデザインまでをやっているのですが、一方で特定のジャンルのデザインしかやらないデザイナーというのもいます。僕個人としては、デザインというフィルターを通してできることは非常に多岐にわたると考えていて、デザイナーがアプリケーション設計からアニメの設定までを考えるような状況が当たり前になってほしいんです。長谷さんの活動や今日のお話を聞いていると、きっと小説家という仕事にも同じようなことが言えるのだろうなと感じました。

長谷:SFにはイマジネーションが求められますが、本来イマジネーションというのはメディアを問わないものであるはずですよね。何か新しいものを読みたい、イマジネーションがほしいということがよく言われますが、それは結局のところ小説特有のものではない。そうであるなら、イマジネーションが求められる場所に自ら出向いて仕事をするということが、おそらくいまらしいあり方なんじゃないかと思うんです。要は、自分が想像したものを、どの窓口に、どんな形で、いかにデザインして出していくかということなんですが、より広義にそれを考えていくと、小説だけではなく、ブックデザインから販売、プロモーションまで、作品がお客さんの手元に届くあらゆる部分にイマジネーションが求められるのかもしれない。新しいもの、面白いものはないかと聞かれた時に、いくらでも小説家自らが出て行って、ここに面白いものがあるよ、新しいイマジネーションがあるよということを自信を持って伝えられる状態にしておきたいし、そう期待してもらえる仕事をしていきたいと思っています。


インタビューを終えて

長谷さんは終始、僕たちに少しでも何かを伝えようとたくさんの言葉をかけてくださったように感じます。インタビューの時間は賑やかに過ぎました。
長谷さんと僕は7年ほど前に、同人誌の書き手とデザイナーという立場でご一緒させて頂く機会がありました。その当時、恥ずかしながら僕は小説の組版が初めてで拙く、修正を電話経由で事細かに伝えてくださったことを覚えています。僕にとって長谷さんは『文章組版の基礎を教えてくれた優しいお兄さん(失礼)』だったのです。そこから作品について知ることとなり、今回のインタビューの機会を頂く運びとなりました。
小説家の方は、数少ない『0から1を作れるお仕事』と考えています。僕たちに物語を通じて発見や感動、インスピレーションを与えてくださる存在です。今回発見だったのは、その小説家、とりわけSFの書き手として現在先鋭を進んでおられる長谷さんが『前の時代を参照しつつ、後にバトンを渡すためにいま可能な活動をされている』ということでした。
僕たちデザイナーは、時代の要請に応じて作るべきものを慎重に選択しなくてはいけないと考えています。物語という、名作ははるか将来にわたって残る可能性すらあるそれに関しても共通していると感じました。これはおそらく作家の方全体というよりも、長谷さんなりの『誠実なお仕事への姿勢』なのだと思います。
とても勇気づけられましたし、何より『すでに私たちいまを生きる作り手は、以前の人々からバトンを渡されている』という事実に気が付きました。長谷さんの仰る通り、『イマジネーションはメディアを問わない』のだとしたら、デザイナーに限らず、僕たちができることは、想像できる限りいくらでも存在するように思いました