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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

AR三兄弟 長男・川田十夢さんが、
映画監督・山戸結希さんに聞く、
「映画を通じた世界とのつながり方」

カンバセーションズには3度目の登場となるAR三兄弟川田十夢さん。大林宣彦監督本広克行監督に続き、川田さんがインタビュー相手として指名してくれたのは、またしても映画監督の山戸結希さん。日本映画界の巨匠、ベテランであり、人生の先輩でもある過去のおふたりとは打って変わり、処女作「あの娘が海辺で踊ってる」が2012年に劇場公開されたばかりの山戸さんですが、すでに数々の賞を受賞し、いま最も将来が嘱望される映画監督の一人です。デビュー以来、山戸作品のほぼすべてを見てきているという川田さんが、山戸監督に聞いてみたいこととは?
※このインタビューは、雑誌「QUOTATION」との共同コンテンツです。6月24日発売の『QUOTATION』VOL.15の誌面でもダイジェスト版をご覧になれます。

川田十夢
なぜ映画を撮り始めたのですか?

まず始めにお聞きしたいんですが、そもそも山戸監督はなぜ映画という表現を選んだのですか?

山戸:大学では哲学科に在籍し、哲学研究者になろうと思って勉強していました。「本当のことを知りたい、本当のことを言葉にしたい、言葉にしながら本当のことを見つけたい」という気持ちからだったのですが、「言葉だけでは表現できないものがある」という実感もたしかなものとして生まれていました。ちょうどそのタイミングで、映画研究会のポストに空きがあったので、自分で新しく映研を立ち上げて、そこから人を集めて、1本作品を撮りました。その流れでさらに2作目も作って…という感じで、気付くと制作を続ける状況の中にいました。

言葉だけでは何かが足りないという感覚があったんですね。

山戸:そうですね。言葉を頼りに世界の本当のことを知ったとして、結局世界がどうできているのかを知ることと、世界を生きる意味を得るのはイコールではないということの切実がありました。そういう言葉のエリアの境界線が前より鮮やかに見えるようになった頃から、映画を撮るようになっていったのですが、初めて映画を撮った時は全然脚本通りにいきませんでした。現場でのリアリティは脚本とは全く別の源泉から来ているから。外部的要因が入ってくることで、ネガティブにも、ポジティブにも、思わぬカットが撮れたりしたんですが、そういう偶然性というのは、それまでやっていた哲学=言葉の世界の外から来るもので、ただただ刺激的でした。

本当のことを見つけるための手がかりとして映画があって、監督はその作品の中で呼吸をしながら色んなことを経験をしているんじゃないかと思うんです。その経験のログみたいなものを、僕らは作品を通して見ているのかなと。

山戸:脚本のベースは、自分ひとりが考えていることだけで出来ていますが、映画というのは言葉だけでは絶対に完成しなくて、他のスタッフの思考や、役者の身体を通して表現されるものだから、どういう道筋をたどって目的地に行くのか、毎回経験しながらでしか分からないものなのだと思います。映画を撮っている時はいつも思考停止になってしまっているので、その時のログや痕跡みたいなものが逆に感知してもらえるのではないでしょうか。撮った作品がまだ少ないからかもしれないですが、いまのところ映画における外部性や偶然性というものが、毎回良い方向に開かれていきます。だから世界の中で、映画が祝福される瞬間は確実にあって、むしろそれだけのために外部性の波の上で経験を転がし続けているのではないかと思います。

デビュー作の「あの娘が海辺で踊ってる」について、監督が「処女が集まって作った処女性に関する処女作は発明だ」ということを書いていたのを読んで、この人は発明ということに意識的なのかなと感じたんです。過去の映画をなぞって映画を撮っているわけではなく、いわゆる「映画が大好きな人の映画」じゃないんだなと。

山戸:すでにあるゲームの中で戦っても世界は広がらないと思っているところがあります。哲学、文学、映画なんでもいいのですが、そのゲームの中の評価軸でどこまで点を取れるかという陣取り合戦みたいなことには興味がないんです。既存のゲームやルールの外の、世界の本当のことを教えてくれる場所で、ある真実をつかみたいという感覚ですね。とにかく本当のことにしか興味がなくて、そのためだけに表現はあって、それは自分の頭で考え、新しいものを作っていくことでしか開かれない世界にあると思います。

「あの娘が海辺で踊ってる」(2012) 監督:山戸結希

川田十夢
どんな映画を撮りたいですか?

山戸監督のインタビューはまだそんなに多く露出しているわけではないので、ごく初歩的なこともお聞きしたいんですが、これまでどんな映画を観てきたのですか?

山戸:やはり周りにはシネフィルのような人が多いのですが、そういう方たちに比べると私は全然観ていないと思います。本は懸命に読んできましたが、映画の世界に入ったのはつい最近のことだったので、基本的に趣味で鑑賞する程度で、あまり勉強のような感じで観ることはなかったですね。

『あの娘が海辺で踊ってる』(2012)

例えば、前回僕がインタビューをした本広克行監督の「踊る大捜査線」シリーズなどは観ていますか?

山戸:日本国民ならほとんどの方が観ていると思いますし、もちろん私も観ています。狭義的に志向する映画とはまったく違う部分の頭を使っていて、その広がっていく行為自体が、表現のひとつの存在の仕方として、本当に面白いですね。

「あの娘が海辺で踊ってる」(2012) 監督:山戸結希

「踊る大捜査線」はそれこそ国民全員をターゲットにしているような規模の作品ですが、山戸監督は自分の作品を観る人たちの層や人数などはどの程度意識していますか?

山戸:最初の作品は、数字というのは全く考えていなかったですが、もともと明確に女の子に向けて作っているので、最初は同年代の女の子にしか伝わらないだろうとは思っていました。でも、実際に公開が始まると、かなり年上の男性とかも観に来てくれて、客層がカオスだとよく言われていました(笑)。自分としては女の子へのシンパシーで撮っているんですが、深くいけばいくほど、男性からしたらワンダーとして見てもらえるところがあるのかもしれません。

「踊る大捜査線」のような作品は、いま山戸監督が撮っているような世界からは遠いものだと思いますが、いずれ大きな作品も撮ってみたいという思いはありますか?

山戸:正直に言うと、早くそうならないかなぁ…と毎日思っています。いま私の作品を見てくれている人は、普段からミニシアターに足を運ぶようなアンテナを高く張っている人が多いと思うのですが、本当はある日たまたま出会うような映画が作りたいんです。例えば、地方だったら、シネコンやレンタルショップに置いてあるような作品しか見ない女の子がほとんどですし、そういう子たちが見てくれるような、そういう子たちまで届くような映画を撮りたいと強く思っています。

いざ大きなメガホンやアンプをポンと渡された時に、何をやっていいかわからなくなってしまう人もいると思うんですね。でも、監督の場合はそうじゃないと思うし、大きなメガホンを渡されたら、それに見合った大きな作品を作ってくれるんだろうなと。それは勝手に楽しみにしています。

山戸:ありがとうございます。ただの夢みたいなことを言っちゃって恥ずかしいです…(笑)、でもがんばります!

「おとぎ話みたい」(2013) 監督:山戸結希

川田十夢
映画と小説の違いは何ですか?

デビュー作ではご自身でカメラを回していましたが、最近の作品では他の人に任せていますよね。先ほども他者の介在についての話がありましたが、今後その部分はより大きな要素になっていく感じなんですか?

山戸:凄く単純な話、私の身長は155cmで、この目線からしか世界を切り開いていけないんです。自分でカメラを回している限り、その映画はいつまでも一人の身体によってまなざしが固定されてしまいますよね。でも、さっきの「踊る大捜査線」への道じゃないですが、その視点やまなざし、ひいては表現はどんどん拡張していきたいと思っています。そのために具体的に何を選ぶべきかは、まだうまく確定しきれていませんが、方向としてはそっちに向かっていくことになるのだろうと思っています。映画には、私の言葉や身体を超えてほしいです。

台詞のことについても伺いたいんですが、作品の中で「天変地異みたい」というフレーズが反復されるシーンがありますよね。これを見ていて「いま確実に台詞のシュート打ったな」と感じたんです(笑)。この台詞を言わせるためにシーンを作ったのかなと。哲学というのは言葉が先にあり、その言葉だけでは見つからない世界を探すために監督は映画に入ったわけですが、では台詞とシーンはどちらが先にあるんでしょう? 言葉を言わせるためにシーンを作るのか、それともシーンを作るために言葉があるのか。

山戸:きっと、肉体に言葉を通過させたいという欲望がずっと変わらずにあるんです。だから川田さんのご質問の答えるとしたら、言葉を言わせるためにシーンがあるということになりますね。年頃の女の子の持つ強烈なゆらぎの磁場で、その時の一過性、一回性の肉体が「それ一択である」台詞を言うということだけで物語が発生すると思っていて、肉体と言葉がほんの一瞬同じ夢を見ているような、その感覚が本当に愛おしいです。

「映画バンもん!~あなたの瞬きはパヒパヒの彼方へ~」(2012) 監督:山戸結希

映画以外の表現手段というのはあまり考えていないんですか?

山戸:ちょうど最近、文芸誌などに依頼を頂いて、エッセイや小さな物語も書くことになりそうです。ただ、小説にしろエッセイにしろ、映画監督として書かざるを得ない気がしています。もし仮に、私が映画を撮っていなかったら、言葉の世界の中できれいに完成された小説を書こうとしていたと思うのですが、いまはあくまでも映画に芽吹いていくための最初の種を作る意識で1行目を始めてしまうと思います。やっぱりいま、映画というのが一番世界と接続している感じがするし、世界も映画を受け入れている感じが自分の意識として強いんです。世界のために映画があり、映画のために小説やエッセイがあるような感覚ですね。それは逆に、営みの原始的な部分を明るみに出せるということかもしれませんが。

ところで、監督は「これがまとまらなかったら終わりだ」という思いで処女作を撮ったそうですが、何となく始めた映画なのになぜそこまで思いつめていたんですか?

山戸:映画は色んな人を巻き込んで作るものだから、はっきりと後戻りができないんです。例えば、小説や漫画なら、処女作がうまくいかなくて自分が費やした時間が残念だったということだけで済みますが、映画の場合は現実の色んなものを犠牲にしたり、人に迷惑をかけたりしているからもうそこから後戻りができないし、うまくいかなければ次を作らせてもらうこともできないなって。そういう割と卑近というか、周縁的な理由が結構大きかったですね。

川田十夢
これからも映画を撮り続けるのですか?

.監督の作品で、長回しのショットの中で急にそこにいないはずの人が現れる場面がありますよね。現実の世界ならあり得ないことなんですが、当事者の感覚からしたらそれはリアルなんですよね。ある感覚や主観に接続して、それが凝視したものにだけカメラが入っていき、それ以外のものはどうでもよくなる感じがあって、映画というのは知覚レベルで世界と接続し、再構築しているメディアなんだなと。監督は映画に感覚を委ねているんだということを強く感じました。

山戸:そうですね。そっちの世界に全部の知覚が行ってしまって、こっちの世界にある大きな釘を踏んだまま撮影を続けてしまっていたことがありました。しかも、なぜかその感覚ごと映画のシーンの感情に入っていってしまっている気がします。

「あの娘が海辺で踊ってる」(2012) 監督:山戸結希

唐突ですが、監督は中島みゆきと松任谷由実だったらどっちが好きですか?

山戸:中島みゆきを聴きながら、松任谷由実が好きな人と付き合っている感じがします(笑)。私ひとりだったら中島みゆきタイプなんですが、自分が好きな人は男女問わず松任谷由実タイプなんですよ。他者性を取り込みながら生きているんですね(笑)。

川田十夢「シンガーソング・タグクラウド」

なぜこんな質問をしたかと言うと、最近いろんな楽曲の歌詞をプログラムで解析し、あるアーティストがよく使う言葉をランキングにしたりして、その人がどんなことを歌っているかを可視化するということをやっているんですね。そうすると中島みゆきと松任谷由実は全然違うことを歌っていることがわかって。中島みゆきは内的なことを歌っているけど、松任谷由実は男性に対して歌っていて、言ってみれば開かれているんです。監督も以前に「開いた女」という表現をしていましたが、処女性をテーマにした処女作からスタートし、いつかご自身が「開いた女」になったとしても、果たして映画は撮り続けるのかなと。

山戸:もし仮に私が作っているものが小説など言葉の世界の表現だったら、「開いた」後はきっと断筆してしまうと思うんです。内的な中島みゆき的な世界を、開いた松任谷由実が歌うことには、はっきり矛盾があるので。でも、映画の世界においては、両者のはざまにあるものこそが何かを生むんだろうなという予感があります。映画は現実と交わるメディアで、その現実の中でしか、ある時間においてしか撮影されないものだから、いまここと別れがたく、結局どうしてもそこにあるリアリティを内包してしまう。どれだけ逃れようとしても、絶対に空気は映ってしまう。いくら私の言葉や身体が矛盾したとしても、それすらを内包して、それを超えた世界の中で映画が鳴っていると思うから、きっと撮り続けると思います。いまここで呼吸していることのアンビバレンスを投射できるのは、映画だけだと思うんです。

映画と出合えて良かったですね。

山戸:芯からそう思います。いまはまだ映画に対して片思いしている感じなので、いつか映画の方からもそう思ってもらえるように心を尽くしたいです。


インタビューを終えて

今日山戸監督の話を聞いていて、自分と近いところがあるというか、もう他人には思えなかったです。僕は普段プログラムを書いたりしていますが、プログラムをシステムとして動かすにはコンパイルという作業が必要なんですね。要はプログラムというのは、外側にいる人間の介在があって初めて機能するものなんです。僕はプログラムを書いて、それを人前で演奏するようなこともあるのですが、言語だけで完結させるのではなく、空気や場に触れさせることで初めてリアリティが生まれたりするんですね。
それと同じで、例えば『いまこの場所で誰かが発狂する』ということを文字で書いてもあまりリアリティはないけど、ここで本当にカメラを回して、人が発狂している場面を撮ろうとしたら騒然とするだろうし、『場に鳥肌が立つ』ということが起こるかもしれない。きっと監督は映画を通して、そういうことをやろうとしているんだろうな感じました。
この記事を機にもっと多くの人たちに監督の映画を観てほしいですし、今後も監督にはできるだけ映画のためだけに時間を費やして頂き、これからもずっと撮り続けていってもらいたいですね