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「問い」をカタチにするインタビューメディア

問いから学ぶ

Maltine Records主宰・tomadさんが、
アートディレクター/6%DOKIDOKIプロデューサー・増田セバスチャンさんに聞く、
「ユースカルチャーのこれまでとこれから」

今回のインタビュアーは、インターネットレーベル「Maltine Records」を主宰し、Tofubeatsをはじめ新進アーティストたちの作品をリリースし、さまざまなイベントなども精力的に開催しているtomadさん。弱冠16歳でレーベルを立ち上げ、昨年大学を卒業したばかりの彼が、"いま話を聞きたい人"として挙げてくれたのは、原宿のショップ「6%DOKIDOKI」のプロデューサーで、きゃりーぱみゅぱみゅのデビュー時から美術演出、世界観作りなども手がけ、日本の「カワイイ」文化を世界に発信し続けている増田セバスチャンさん。そんな増田さんがこれまで歩んできた道のりについて、tomadさんが聞きました。

tomad
23歳の頃は何をしていましたか?

僕はいま23歳で、7年前にマルチネレコーズというインターネットレーベルをスタートしました。当時は先のことも考えず、同級生と一緒に始めたんですが、そのうちに色んなアーティストが関わってくれるようになり、大学を卒業しても就職せずに現在に至っています。とはいえ、現状これだけで確実に食べていけるほど安定しているわけでもなく、正直将来どうなるのかわからない…。そこで増田さんにまずお聞きしたいのは、僕と同じ年くらいの頃に何を考えていて、将来についてどう思っていたかということなんです。

増田:僕が同じくらいの年の頃は、パフォーマンスアートをクラブや劇場などで色々やっていました。狂ったキャラクター達が檻の中に入って闘ったり、巨大な生クリームのケーキを作ってそこに車ごと突っ込んだり、腐った食べ物を1ヶ月かけて展示するというようなことを、「これが僕の表現だ!」と思ってやっていたのですが、ギャラリストや美術評論家には散々に言われて、落ち込んだりしていましたね。まさに若気の至りというか、勢いだけは凄いということをやっていたけど、まったく食べれなかった。実はいまでも変わっていない部分はあって、仕事としてお金を頂いてやっているものと、自分のクリエーションというものがそれぞれあり、後者の方は湧き出てくる衝動なんかが元にあるんですが、やっぱりそっちはお金にはなりづらい。両者のバランスが取れている人は素晴らしいと思いますし、自分はそれがあまり上手くいっていないんです。

増田さんは、いまの僕と同じくらいの年齢で「6%DOKIDOKI」をオープンしたと思うんですが、それは大きな賭けだったんじゃないですか?

増田:「6%DOKIDOKI」を始めた95年当時、お店を開くことに対する一般的なイメージは、脱サラのお父さんが喫茶店を開くようなもので、若い世代にはハードルが高かった。それこそサラリーマンが退職金を開店資金にするような感覚だけど、当然僕にはお金がなかったから、お店を出すと決めてからの半年間で肉体労働をして貯めた100万円でマンションの一室を借り、それをお店と言い張ったのが始まりなんです。当時は、そんな大それたことをしようという感じではなく、まずは始めてから考えようという感じでした。こんなのお店じゃないと言われたりもしたけど、逆にそのノリを面白がってくれたり、そこにリアリティを感じてくれた人たちもいたんですよね。

自伝でも読ませて頂きましたが、ショップをやっていると当然毎月の家賃もありますし、金銭的にかなり大変だったそうですね。

増田:パフォーマンスでは全然食べられなかったけど、お店だったらもっとみんなお金を払ってくれるんじゃないかという思いから始めたところもあったんですが、実際は全然そんなことなくて。しかも忙しすぎてパフォーマンスとか舞台の活動もできなくなってしまい、始めの頃は本末転倒でした(笑)。当初は売り上げゼロの日ばっかりで、お客さんが来ない日もあった。そのなかで家賃を払うために今月はあといくら必要かを計算し、それに合わせて夜にバイトをしていました。でも、自分の中ではそれは当たり前のことで、作品が売れなければ食べられない役者やアーティストと同じで、売れるまではみんなバイトをしていますよね。それはショップをやるにしても同じことだと思ってやっていましたね。

tomad
諦めようと思ったことはないですか?

すでに20年近くショップを続けてきて、つらい時期というのもあったと思うんですが、そういう時でも諦めずに続けてこれた理由は何だったんですか?

増田:厳しい時期でもとにかく「ここで終わったら悔しい」という思いでやっていましたね。最初にお店を出す時は「すぐ潰れる」とか散々言われたし、食べられない時にそこで終わってしまったらそれまでなので、意地でやってきたところがありますね。90年代はまだブログとかもないし、意外と記録が残っていないんですね。そんななかで同世代のインディーズブランドやショップがどんどんなくなっていき、ここで自分もやめてしまったら、僕たちのやってきたことや時代がなかったことにされてしまうと。自分たちがこの時代に生きていて、もがき苦しんで生み出してきたものをなかったことにはされたくないし、少しでも足跡を残せたらという思いが昔からあるんです。

日本以外の国でやってみようと考えたことはありませんでしたか?

増田:もちろんいつか海外にも行こうとは思っていたけど、海外だけで活躍していて、日本では全然知名度がないような存在になるのは嫌だったんです。それまで自分をバカにしてきたヤツらを見返したいという思いも強かったし、そういう意味で身近に一番敵が多かった(笑)。もちろん海外の人たちが支持してくれるなら、どんどん外にも出て行こうと思っているけど、同時に身近な敵も潰しておかないとみたいな(笑)。だから、40歳を過ぎたいま、自分をバカにしたヤツらへの「復讐編」が始まった感覚なんです (笑)。けちょんけちょんに言われて凹みながら20年やってきて、40を超えてやっと注目された。でも一方で、もっと狭い世界では「早くから売れてたよね」とも言われるし、どっちなんだと(笑)。

増田さんの仕事は、メジャーからアンダーグラウンドまで幅広く、さまざまな世代に支持されていますが、時代を追うごとに自然とそうなっていったのですか?

増田:ある時、原宿から外に出ようと決めたことがあったんです。原宿の中で認められるようになってからも、これを外に持っていった時に通用するのかなという思いがあったんですね。でも、SNSやMyspaceなどで自分のページを立ち上げたら、海外などからもメールが来るようになって、これはもしかしたらいけるんじゃないかと。それからは、あえて色んなジャンルで勝負をしてみようと思い、振れ幅も相当広がりましたね。映像から舞台まですべてをやれる人はあまりいないみたいなんですが、自分としてはひとつのことを、アウトプットを変えてやってきているだけなんです。

6%DOKIDOKI

tomad
90年代はどんな時代だったんですか?

6%DOKIDOKIのような世界観は、もともと増田さんのなかにあったものなのですか?

増田:昔からオモチャやお菓子などカラフルなものは好きでしたね。80年代後半から90年代前半頃というのは、いとうせいこうさんの「ノーライフキング」のように、人間が機械に侵されていくというような未来像があったんですね。ただ、僕自身未来が本当にこうなっていくようには思えなくて、あまりリアリティはなかった。それよりも自分が育ってきた商店街にある本屋やオモチャ屋、駄菓子屋などで目にしたマンガやカラフルなパッケージが原風景としてあって、そこにリアリティを感じていたんです。でもまさか、20年前に僕のことを散々怒っていた評論家やギャラリストたちは、これだけ街中にキャラクターが侵食している未来になるとは思ってもいなかったと思います(笑)。

TOWA TEI with BAKUBAKU DOKIN「Wordy」Music Video

もともと僕は文学や哲学、現代美術などが好きなんですが、増田さんの自伝にもアートをはじめ、90年代のサブカルチャーに影響を受けたということが書かれていて、親近感を覚えたんです。クラブやレイヴなどにもよく行かれてれていたそうですね。

増田:当時はちょうどテクノブームで、クラブに行くとそれまで聴いたことがないような音楽がかかっていて、色んな業界の人たちが集まっていて、そこから何かが始まるような空気感があったんです。レイヴにしても、ショップの買い付けでL.A.に行く時とかによく行っていました。当時はネットも発達していないから、街中の古着屋なんかが並んでいる通りにひとつだけあるギャラリーでチケットを買うんですよ。まず、L.A.の情報誌に載っている番号にがんばって英語で電話をするところから始まるんですけど、そうするとそのギャラリーに行けと言われて、そこでチケットを買うと、初めてそこに会場の地図が載っている。警察の規制が厳しかったんですね。それで、その地図通りに車で行くんだけど、そこは真っ暗な砂漠の中で、本当にやっているのかと不安になってきた頃にようやく小さな明かりが見えて、音が聞こえてきて、凄い数の人が集まっている。その感覚が探検みたいで凄く楽しかったですね。

いまでは東京にも色んなクラブがあって、ネットとかですぐに調べて遊びに行けちゃいますですが、当時は違ったんですね。

増田:そうですね。当時日本にはレイヴ文化もなかったから、みんな手探りで参加していましたね。でも、簡単に目的地にたどり着けない楽しさというのもあって、回り道をすることで色んな発見や、これからどうなるんだろうというワクワク感がありましたね。

90年代の音楽を聴いてみても、ポップ感があってキラキラしているんですよね。その時代の文化に憧れがあって、自分たちがリリースする音楽にも取り入れられたらいいなと思っているところがあります。ミニマルで機能的なダンスミュージックだけだとあまり広がりのないものになってしまうけど、そこにポップミュージックの良い部分を合わせたら、良いものができるんじゃないかと。

増田:たしかにいまは時代が巡って、90年代ってキラキラして見えるんですよね。もしかしたらtomadくんは、生まれる時代を間違えたのかもしれないですね(笑)。

増田セバスチャンさんによる作品「Colorful Rebellion」。

tomad
なぜ引きこもりが大切なんですか?

僕は中高が男子校で、女の子との触れ合いもなく、つまらない時代を過ごしていたんですね。ちょうどその頃ブロードバンドが普及して、世界中の音楽がダウンロードできるようになったり、YouTubeなんかも出てきて、インターネットに走るようになったんですが、増田さんは学生の頃どんな時代を過ごしていましたか?

増田:僕が高校生の頃はポケベルしかなかったけど、それはそれで結構面白い道具でしたね(笑)。実は、自分の中で最高だった時代は小学生の頃で、いまでも当時の感覚に戻りたいという思いがあります。あの頃の自由な感覚とかは大人になるとどんどん忘れてしまうし、当時は同じものを見たとしても、いまとは全然違う風に見えていたと思います。中学以降は喧嘩が強い人ほどモテるようになり、僕もそういうヤンキー文化に取り込まれ、逆に不自由になっていく感覚がありました。一応自分もそういう方向に行くんだけど、実は全然楽しくないし、ダサいし、いま思い返すと黒歴史でしたね(笑)。このまま大学に行っても自分はダメだと思い、大阪に行くことにしたんです。結局大阪でも学校には行かず、引きこもるようになったんですが、お金もやることもないから図書館に行くようになったんです。そこで色んな本を読んでいるうちに寺山修司の本と出合い、既成概念にこだわらない新しいことをしようと思い、東京に戻ってきたんです。

僕も"ネトゲ廃人"じゃないですが、ネットゲームばかりやっている時期がありました。ネトゲで同じような境遇の人と話したり、チャットで仲良くなった女の子と実際に会ってみたりしたんですが、別に何ができるわけでもなく、すれ違っていくみたいな(笑)。

増田:僕の時代にネットがあったら自分もヤバかったと思う(笑)。でも、そういう時期は、自分のダメさとかを見つめ直す大切なタイミングだと思うし、簡単に未来には行けないですからね。特に20代の頃というのはどんな人にとっても苦しい時期だと思うし、むしろそれを楽しんだ方がいいですよ。食えない時期を過ごせるのも20代しかないですからね。僕の周りにも20代でブレイクした人はたくさんいたし、それによって焦ったりもしたんだけど、結局早くブレイクし過ぎると、その後の引き出しが足りなくなったりもする。どこでブレイクするかとか、生活が成り立つかということと、その人の実力の蓄積というのは比例するわけではないんですよね。

僕は表に出るタイプではないので、周りのアーティストがステップアップしていくなかで、それをまとめる役目になっていくのかなということは何となく感じています。まだまだどうなるかわからないですが。

増田:僕も以前は表に出たくなかったんです。でも、『家系図カッター』で全部さらけ出してからは、結局自分が出ちゃった方が早いなと思うようになりました。その直後に『PONPONPON』の話が来たんですけど、きゃりーちゃんの時も自分が前に出ようと思ったわけではなく、彼女は”不思議ちゃん”扱いとかされたら嫌だなというのがあったんです。そういう扱いをされないためにも、中田(ヤスタカ)さんも含め、突っ込みどころがない大人がしっかり出て話した方がいいのかなという考えがありました。僕のやっている仕事は、幼児的なモチーフなども多いから偏見を持たれがちで、「これ◯◯系でしょ?」みたいに軽く扱われることが多いんですが、それが嫌で。ここに行き着くまでに色んなバックボーンやストーリーがあるから、そういうものも踏まえた上で、どんなことを突っ込まれてもすべて説明できるような隙のない世界観を作るように心がけているんです。

きゃりーぱみゅぱみゅ「PONPONPON」Music Video

tomad
アナログの力って何ですか?

きゃりーぱみゅぱみゅは、秋葉原とかで徐々にステップアップしていくアイドルとかとはちょっと違って、突然一気に広がったという印象がありました。ネットなどを通して国内外関係なくフラットにみんなが楽しんでいる状況が衝撃でした。

増田:自分たちからすると段階はしっかり踏んでいて、あとはアイコン待ちという感じだったんです。それまで、原宿のファッションやカルチャーに足りなかったのは音楽だったと思うんですね。例えば、自分ひとりの力ではアナログで1000人くらいを動員するのがいいところですが、そこにきゃりーぱみゅぱみゅというアイコンがいて、音楽と映像があると、拡散のスピードがメチャクチャ早くて、一気に何万という数に広がった。もともと自分たちがやっていることは日本より海外の方が人気があったから、海外への意識は最初から強かったけど、この広がり方は予想外でしたね。いま客観的に振り返ってみると、震災以降、良くも悪くも世界が日本に注目していたタイミングだったからこそ、日本にオリジナルで面白いカルチャーがあるということにも目を向けてくれたんじゃないかなと。

「6%DOKIDOKI PERFECT MOOK」(宝島社)

6%DOKIDOKIという特定の場所に根付いた活動がある一方で、きゃりーぱみゅぱみゅのようにSNSなどを通してイメージが広がっていくような仕事もあるわけですが、増田さんはインターネットというものとどういう距離感で向き合っていますか?

増田:例えば、これまではアンケートに答えてくれる人以外の人の反応はわからなかったけど、いまは検索すればそれを見ることができますよね。たまにネット上の評価を見たり聞いたりして傷ついたりすることもあるし、面白い見方をする人がいることがわかったり、参考にはしていますね。ただ、僕自身としては、ネットの力は使いつつも、もっとアナログなことをやっていきたい。いま現地にいる子たちを集めて、ワークショップをしながら作品を作るというプロジェクトをやっているのですが、そういうアナログから生まれるような活動をもっとやりたいですね。よく「作品の強度」と言っているんですが、アナログから生まれる作品の影響力というものをもっと感じてもらいたい。それによってさらに楽しいものが生まれるはずだし、そういう活動を続けていきたいですね。

日本テレビ「PON!」

増田さんは以前に別のインタビューで、ストリートから出てきてグラスルーツで広がる表現が主流になっていくという話をされていて、それには僕も共感します。増田さんの活動は、若い世代を巻き込みながら、まさにそういったグラスルーツな表現を先導していると思いますが、いま若い人たちに伝えたいこととかはありますか?

増田:若い世代のエネルギーというのはいつの時代も変わらないものなので、それをちゃんと有効利用できるといいなと思います。僕自身、社会に対して抱いていた憤りや、認めてもらいたいという思いから活動をしてきたところがあって、その結果原宿の小さいお店から何かが起きて、何かが変わった。簡単に起きることではないかもしれないけど、もしかしたら僕じゃなくて、いまこれを読んでいるあなたがそれをできるかもしれない。みんながそれに気づいて拳を振り上げれば何かが生まれるんじゃないかなと思うし、自分の活動がそういうことを考えるきっかけになるといいですね。

最後に、今後の活動について教えて下さい。

増田:先日テレビの企画で、子どもたちに嫌いなものや苦手なものを持ってきてもらい、それをカラフルにすることによって好きになってもらうというワークショップをやったんですね。いまもその延長で、色の力を作ったワークショップなどを続けているんですが、こういうアートのもたらす影響力を感じてもらえるような活動をしていきたいと思っています。お金儲けはできないけど、こういうことならできるという表現者は、音楽やアートの世界にはたくさんいるし、そういう力に少しでも気づいた人たちが未来を作っていけば、もっと生きやすい世の中になるんじゃないかと。微力ながらもそのお手伝いができたらいいなと思っているし、そのためにも下の世代から信じられる大人だと思われることも大事だなと思っています。<インタビュー終わり>


インタビューを終えて

まず、初対面で約20歳も年の離れた僕にフランクに接してくれてうれしかったです。どんな質問にも経験とユーモアを交えながら自分の考えを包み隠すことなく話してくれて、グイグイと増田さんの世界に引き込まれていきました。個人的には自分が音楽に携わっていることもあって、他のインタビューではあまり出てこないクラブカルチャーの話で意気投合できて良かったです!
ところどころ人生相談のようなインタビューになってしまいましたが、時代のさまざまな影響があろうとも自分の軸を持ち続けて、いままでブレることなく活動を続けてきた増田さんの生き様に勇気づけられました。これからもまだまだ止まることのないだろう増田さんの活動を追っていきたいです。そして、今後の人生の中でいつか一緒に何か仕事ができる機会が来れば最高ですね!