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「問い」をカタチにするインタビューメディア

未知との出会い

写真家・平間至さんが、
東京大学名誉教授/ 「場の研究所」所長・清水博さんに聞く、
「いのちを表現する写真について」

タワーレコードの「NO MUSIC, NO LIFE」シリーズに代表される数々のミュージシャンの撮影から、愛猫「ミーちゃん」を捉えた写真集、舞踊家・田中泯さんの「-場踊り-」を追い続けているライフワークまで、精力的に活動を続ける写真家の平間至さん。そんな平間さんが今回インタビュー相手に選んだのは、東京大学名誉教授で、現在はNPO法人「場の研究所」の所長を務める清水博さん。昨年の震災以降、地元・塩竈の状況を目の当たりにし、写真の持つ意味を改めて問い直そうとする平間さんが、いま清水さんと話したいこととは?
※このインタビューは、雑誌「ShINC.MAGAZINE」との共同コンテンツです。11月22日発売予定の『ShINC.MAGAZINE』Vol.3の誌面では、平間至さんや、取材現場で撮影をしてくれた大和田良さんの写真などとともに、インタビュー記事をご覧になれます。

平間至
なぜいま「情感」が大切なのですか?

今日は、写真の話をしながら、日頃清水先生が考えられていることをお聞きできたらと思っています。そこでまずは去年の震災の話なのですが、震災後に僕が思ったことは、結果を求める前にまずは行動をするということでした。実際に現地へ行くと、マスコミが伝える情報とは違う状況が山ほどあるんですね。メディアが伝える情報を見て、勝手に自分で結果を予測してしまう人が多い世の中だからこそ、リスクを持って行動することがスゴく大切なんじゃないかということを感じました。当初は、写真を通して津波の怖さを伝えたいという思いがあったのですが、実際に行ってみると、あまりにスケールが大きすぎて、これは自分が撮れる相手じゃないと。しかも、日常と非日常の間にグラデーションがなく、パッキリ分かれている状況を目にして、写真を撮ろうという気持ちはなくなってしまったんです。

清水:写真を撮れなくなってしまったということが何を意味しているのかということは、いま日本人が考えないといけない問題だと思います。以前に、生物と物質というものがどう違うのかということを考えた人がいましてね、その人が考える生物の特徴というのは、自分の居場所と相互に働きかけ合いながら、双方から変化していくということなんです。それは私の「生物にいのちがあるように、居場所にもいのちがあるんだ」という考えにつながっていくのです。いのちというのは生命の「はたらき」のことで、生物と居場所という両者に互いにいのちを与贈し合うというはたらきがあって、初めて生きていく状態が生まれるんだと。私はこれを「いのちの与贈循環」と名づけています。生き物のいのちは、居場所のいのちの中にある。つまり「二重生命」なんですね。そして、平間さんが写真を撮れなかった理由というのは、ただ機械的に、一重生命的にではなく、二重生命的に撮っているからだと思うんです。ある「場」から情感を感じる時、私たちはその場のはたらきに包まれている状態なんですね。平間さんはその情感を、写真で表現されているのだと思います。

平間至「田中泯 −場踊り−」

写真というのは視覚表現ですが、僕はいつも撮る前に目をつぶりたい気持ちになるんですね。なるべく視覚に頼らず、視覚以外の五感を使って写真を撮りたいという思いがある。それはもしかすると、その場の「情感」を感じたいということなのかもしれないですね。

清水:そうですね。例えば、平間さんが撮った舞踊家の田中泯さんの写真を見ると、まさに田中さんは居場所のいのちに包まれている感じがするんですね。自分のいのちを居場所に与贈することで、その場のいのちに包まれる。その状態が写真から伝わってきて、スゴく共感ができるんです。居場所のいのちというのは、見ろと言って見られるものではなく、情感として感じるものなんですね。普段生活をしていても、この場所は感じが良いなとか、ちょっとイヤだなと思うことがあると思います。これは居場所からのはたらきかけであり、それを私たちが情感として受け取っているんです。生物というのは、こうした情感のコミュニケーションをしていて、それはいわゆるデジタル・コミュニケーションとは違うんですね。そういうものをどれだけキャッチできるかということはとても大切なことだと思います。

いまはその「情感」というものが、日常の中であまり大切にされないことが多いですよね。どちらかというと、なかったことにされてしまう傾向がある気がします。

清水:情感というのは、身体表現や視覚表現だけに限らず、さまざまな分野において重要なことだと思います。例えば、ある企業の社長が書いた本によると、いまの若い人たちは、儲けようという動機だけでは働かないんだそうです。それよりも自分がやっていることがどれだけ社会貢献につながっているかを考え、それに納得できた時にエネルギーが出るんだと。こうした情感的な情報のコミュニケーションの方が、データで示されるような客観的な情報よりも共有されやすいんですね。科学者などにしても、それぞれの分野で成功した人の大学入試時の成績を見てみると、たとえば数学者であっても数学の結果はまったく関係なく、むしろ国語の成績に関係があるようなんです。これもおそらく情感に関わる問題で、新しいことを考えたり、創造的な研究をする上でも情感というのは大切になってくるのだと思います。

平間至
「果の論理」「因の論理」って何ですか?

以前に田中泯さんが、「多くの写真家は動き続けている自分を、写真に撮ることで止めようとする」という話をされていたんですね。僕にはそれを感じなかったそうなのですが、それは、シャッターが切られる瞬間だけではなく、いかにその前後の時間を写真に取り込めるかということを自分が考えているからかもしれません。例えば、僕が清水先生の写真を撮るとしたら、これまでにお会いした場面や時間の蓄積というものがあるので、初対面で撮るのとは当然写真も変わってくると思うんですね。これから先ふたりがどうなっていくのかということまでどこかで予感しながら、シャッターを切っていくと思います。

清水:平間さんが撮った田中泯さんの写真を思い出そうとすると、どうしても動画として頭に現れてしまうんですよ。これは、田中さんが居場所からのはたらきを感じて居場所と情感的なコミュニケーションしている状態が、非常によく撮られているからなんじゃないかと思います。これに限らず、平間さんの写真からは、「きっとその場でこんなことをやっていたんじゃないか」という動きのある映像のイメージが湧いてくる。だからそれが記憶にも残っていくのだと思います。

例えば、シャッタースピードを1/125秒としたときに、いかにその瞬間に自分のいのちを燃焼させられるかということを考えます。燃焼させればさせるほど、その1/125秒が無限に広がっていくような感覚があるんです。

清水:なるほどね。私は最近、「果の論理」「因の論理」という言葉を使っているのですが、田中さんの写真というのは、「因の論理」によって撮られたものだと思うんですね。どういうことかというと、まず「果の論理」というのは、こうあるべきだという結果を最初に考えて、それに合わせて行動していくという考え方です。例えば、大企業のように「1年後にはこのくらいの儲けがないといけない」と考えるやり方ですね。一方で、「因の論理」というのは、自分が出発点を選択したり、作ったりすることをするだけで後は居場所のはたらきに任せるというやり方です。問題を発見するところまでは自分がやるけれど、その後は自分だけでは決定ができない状態になる。それを写真に置き換えると、予想できない結果として生まれたものがある写真ということになるのです。つまり、居場所からの与贈です。そういう写真を見ると、いのちが撮れているなと感じるんです。

東日本大震災の1ヶ月前の嵐の日に、塩竈・七ヶ浜港で平間さんが撮影した写真。

そういう意味では、「こういうものが撮りたい」というイメージのもとに撮る写真は、「果の論理」の写真ということになりますね。

清水:その通りです。そういう写真は、途中の経過が結果に縛られてしまうから、型にはまった感じがして面白くないんですよ。一方で、自分が条件を設定して、その中で結果を居場所に任せて自分なりに前向きのベストを尽くすという「因の論理」で撮られた写真というのは、そこに被写体の生活や生き様が入ってくるわけです。それは自分のいのちの居場所への与贈です。現代の社会や文化というのは、「果の論理」で縛られすぎていて身動きがとれない状態になっていると思うんです。分かりやすく言ってしまうと、お金に縛られているということなんですね。お金というのは「結果」ですが、それを先に予想してしまうのがマズイわけです。もちろんお金がないと生きていけませんが、動機はもっと違うところにあるべきなんじゃないかと。「果の論理」に縛られている企業や政治というのは、これからだんだん調子が悪くなっていくだろうし、そういう意味でいまの日本の形は、崩壊過程にあると言えるのかもしれません。

平間至
「いのち」を撮るってどういうことですか?

以前から先生は、近代社会になって、人のいのちが帰しづらい世の中になってしまったということを心配されていますよね。例えば、自然界であれば、葉が落ちることでいのちは循環していきますが、そういうものが人間の世界ではなかなか見えづらい。そのことにスゴく共感しているのですが、では写真という行為を通して、いのちを撮るということはどういうことだとお考えですか?

清水:自分自身でも写真は撮るのですが、まず私は科学者ですから、「いのち」というものをしっかり問いたいという思いが根底にあるんですね。私たちの原点には生活があるわけで、結局大切なことは「いのち」なんですね。「いのち」というのは、生きていることだけじゃなくて、死ぬことによっても広がっていきます。生と死とは循環しているのです。死になることによって個体や種としての生を越えていくのです。田中泯さんは、そのいのちを表現しているように感じるし、それは人間が地球といういのちの居場所でもっている意味を再発見していく行為でもある。その時に写真は、対象を映すだけではなく、その対象が二重生命的にその居場所の中にあるということを撮っていく必要があると思うんです。これからは居場所の表現というものを発見していく時代です。だから私は、本当に優れた人たちに居場所を撮ってほしいという願いがあります。私の場合は、芸術家としてではなく科学者として、生死を超えたいのちを問うために写真を撮らないといけないなと思っています。

今年亡くなった写真家の石元泰博さんのお葬式に参列した時に、石元さんのご遺体と、そばに置かれていた彼の写真集から感じるものが、僕の中でピッタリ一致したんですね。その時に、石元さんという人は、生きている時でも死んだ状態で写真を撮っていたんじゃないかと感じたんです。優れた写真家というのは、ある意味死んだ状態で写真を撮っているんじゃないかと。

清水:個体としては消えてしまっても、それがいのちとして消えてしまったとは言い切れないと思うんですね。いのちというのははたらきのことですから、個体としてのはたらきはなくなってもなお、居場所としてのいのちとしてはたらくということはあり得る。例えば、キリスト教なんかにしても、キリストが十字架の上でいのちを落とした後で、居場所のいのちとして復活してキリスト教が生まれたわけですよね。仏教も釈尊の死後に生まれたものだし、死んだ後にいのちが広がっていくことがある。写真にしてもそれは同じで、生きているものだけではなくて、死んでいるものから「いのち」を表現する写真というのもあるんじゃないかと思っています。

僕は、死の一部に生があると思っています。実際に、死んだ人間の方が生きている人間より圧倒的に多いわけで、生というのはごく限られたものなんじゃないかと。

清水:そういう見方もできるかも知れませんね。例えば、平間さんが撮ったこの写真は、古墳と思われるものの上に桜が1本立っていますよね。これはまさにそうした「いのち」のあり方を象徴した一枚と言えるんじゃないかと思いました。私の自宅の近くには林があるのですが、春になると木々の芽が出て、葉が生い茂ってくるんですね。その時、葉っぱは一枚一枚生きていますが、木々は太陽の光の奪い合って成長競争をしていますから、競争に負けた葉は枯れてしまいます。でも、秋になってすべての葉が落ちる時には、どの木から落ちた葉という区別はなくて、林全体に絨毯のように広がるのです。そして、落ち葉は翌年にまた木が育つためのいのちの源になるわけです。そして分解され、海に運ばれてプランクトンを生み、海の魚を育てます。つまり、葉っぱというのは、落ち葉になった段階で個体を超えて、種を越えて、その影響を地球に広げていくんですね。そういう意味で、生も死も大きないのちのもとにつながっていて、すべての生物は共存在しているんです。

平間至
写真は新しい世界を創ることができますか?

いま出た「共存在」という話につながるかもしれないですが、震災の現場に行って僕が抱いた問題意識は、「どれだけの人たちのことを考えられるか」ということでした。「人間の器」というのはよく使われる言葉ですが、それは、どれだけの人のことを考えてあげられるかによって決まってくるんじゃないかと。

清水:まさにそれが共存在ということですね。共存在ということを意識すると、他の人間や生き物が幸せになるような生き方ができた時に、自分自身も幸せを感じるようになる。そういう意識が新しい人間像を作っていくんじゃないかと思うんですね。ただお金を稼ぐための労働ではやる気が出ないかもしれないけど、共存在という意識があると力が生まれてくる。例えば、動物の世界というのは弱肉強食の世界で、強いものだけが残っていくように思われがちですが、実際は違いますね。全体としては共存在の原理で動いているんです。いわゆる競争原理ではない、共存在原理の中での競争というのは、自分自身を創造するはたらきになるんですね。それによって動物は進化してきたわけだし、現在の資本主義社会のように強いものしか残らない競争とはちょっと違うんです。私たちの表層意識には競争原理がありますが、DNAレベルで受け継がれてきた深層意識には、共存在原理があると思うんです。まさに田中泯さんという人は、その共存在表現を徹底してやっているわけですね。それを写真で撮ろうと思うと、やはりカラーではなく、モノクロになるんじゃないかなと感じます。

平間至「田中泯 −場踊り−」

先生は、カラー写真は意識を映すもの、モノクロ写真は存在を撮るものという話も以前にされていましたね。存在自体に色があるわけではなく、光の反射によってそのものは色付けされている。それを写真に置き換えると、カラー写真というのは、自分が世界をこう見ているという意思表明であり、自分やモノの存在そのものを表現するのがモノクロなんじゃないかと。これはとてもわかりやすいですし、僕の大好きな表現です。

清水:もし田中泯さんの写真がカラーで撮られていたらどうなるんだろうと思うんですね。そうすると、おそらく私の頭の中には動画として現れることはないだろうと。私自身、亡くなった両親の存在を思い出す時に、カラーで出てくることはあまりないんです。現実の世界には色がついているけれど、ある居場所の中の存在に意味を発見しようとする時に、カラーというのはどれだけ意味を持ちうるのかというのは大きな問題だと思います。色を付けることで意味が失われてしまう部分もあるんじゃないかと。

先生は「場の思想」という本の中で、これまでの「秩序」というのは、近代文明による力の支配の上にしか成り立ってこなかったんじゃないかということを書かれていますよね。僕はそれを読んだ時に、写真というのはある種、多様性のある現実に秩序を与える行為なんじゃないかと感じたんです。力による支配ではない秩序の与え方というのが、美しいプリントというものを通してできるんじゃないかと。

清水:「場の思想」を書いた頃からはだいぶ時間が経っていますが、いま強く感じているのは、多様性のなかに秩序を作るために必要なのは「競争」ではなく、「共創」だということです。違うもの同士がただ横にあるというだけではなく、一緒に秩序を創造することで、はじめて共存在できるようになる。生物というのは、もともと自分自身を創造するものであって、それぞれがぶつかった時に大切なことは、お互いに丸くなることではなく、差異をハッキリさせた上で、両者が意味を持てるような新しい共存在状態が生まれるように自分自身を創造していくことなんです。それを言い換えると、居場所の創造ということになっていくんじゃないかと。例えば、日本、韓国、中国がお互いの差異を認め、その一歩先を考えること。もしくは、地域同士が、それぞれの文化や歴史の上に立ち、自分たちの魅力を発信しながら自分自身を新しく創造して共存在していくこと。これらは、映像や写真がもっている言葉を越える表現力を抜きにできるとは思えない。つまり写真を撮るということは、平間さんがおっしゃるように、新しい世界や秩序を創造する行為だと言えますよね。

平間至
これからの表現者の役割とは何ですか?

先生が話されていた従来の科学技術の研究方法についての考え方も、スゴく写真と密接な問題だと感じます。主観と客観の間には分離できる部分とできない部分があって、科学というのはこれまで主観と客観を分離して考えてきた。でも、これからはその考え方だけでは先に進めないというお話だったと思います。その時に、主観にも客観にもなり得る写真というメディアで世界をどう扱っていけるのか? そこには大きな可能性があるように感じます。

清水:なるほど、全くそうですね。また、そういう写真を紹介していく役割というのも大事になってくると思っています。コマーシャリズムという観点だけで写真を語っても、本質的な役割は見落としてしまうんですね。表現のあり方自体が逆転してきているいま、私たちは何を撮るべきかということをもう一度考えていく必要があると思っています。

平間至「田中泯 −場踊り−」

逆転というと?

清水:これまでのアーティストや写真家には、自分の表現によって社会を啓蒙するという立場がありました。でも、いまはその逆なんです。みんなが生きているということを、みんなの立場から表現することが大切になっていると思うんです。「いま生きている」ということをどう表現するのかということですね。生活というものがまずあって、その表現としてアートがある。そうならないといけないと思います。被災地のことについても同じで、「生きている」というところから建て直していかないと、復興できるはずはないんです。

たしかに最近は写真の世界でも、被写体が生活寄りのものにシフトしています。これまでは写真家が未開の地に行って撮ってきた写真に新しい価値観を見出していたのですが、すべてではないとはいえ、いまは日常を撮って表現していくというものが増えていますね。

清水:やはり「生きている」ということの中に大切なことがあるんですよね。さらに言うと、「生きている」ではなく、「生きていく」ということを改めて考えていく必要があると思うし、いまはまさにそういう方向へと社会がシフトしている最中だと思います。

被災地に行くと、土台しか残っていない家の片隅にアルバムや写真が重ねて置かれているんですね。それを見た時に、写真というものが人間にとって非常に大切なものなんだということを改めて実感しました。うちは実家がもともと写真館をやっていたのですが、僕自身はここ20年くらいメディアを中心に仕事をしてきました。でも、いまは普通に生活している人たちのことを、普通に撮って残していきたいという気持ちが強まっていて、「ひらま写真館」という名前で、全国どこへでも頼まれれば写真を撮りに行くと活動を始めました。まさに先生がおっしゃっているように、啓蒙していくアートではなく、一般の人たちが生きている姿をどう表現していくのかということをやっているんです。

清水:写真ほど歴史を表現できるものって他にはないんです。例えば、写真アルバムというのは、歴史の編集だと言えるし、みんなで歴史を創っていくというのは「共創」の前提になるものだと思います。そうやって歴史を創っていくと、誇りが生まれてくる。誇りを持つということはスゴく大切なことだし、自分たちがやらないといけないという気持ちも芽生える。平間さんのやっている活動にはそういう意味でも期待ができるし、とても夢がある仕事だと思います。