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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

メディアアーティスト・市原えつこさんが聞きたい、「来訪神をリデザインする方法」

メディアアーティスト・市原えつこさんが、
民俗学者・畑中章宏さんに聞く、
「『奇祭』や『仮装』の成り立ち」

以前に、東京・秋葉原にナマハゲを”実装”する映像作品「都市のナマハゲ」を発表したメディアアーティストの市原えつこさんが、「来訪神」「祝祭」というテーマをさらに推し進めた新作の構想を進めています。そんな彼女が作品制作のヒントを求め、今回インタビューするのは、『21世紀の民俗学』『天災と日本人』『災害と妖怪』などの著書で知られる民俗学者の畑中章宏さん。「都市のナマハゲ」が生まれるきっかけになったというフランス人写真家、シャルル・フレジェさんの展覧会『YÔKAÏNOSHIMA』の図録に寄稿するなど、「祭り」や「仮装」というテーマを民俗学的視点から研究してきた畑中さんに、市原さんが聞いてみたいこととは?

市原えつこ
ナマハゲの正体はなんですか?

私は2016年頃から、「祭り」や「仮装」というものに興味を持ち始めたのですが、そのきっかけとなったのが銀座メゾンエルメスで開催されたシャルル・フレジェの展覧会です。畑中さんはこの展覧会の図録に寄稿されていましたが、私はこの展示に触発され、「都市のナマハゲ」という作品を発表しました。この時は、ナマハゲが持っている集落の治安維持の側面など、いわば祭りの機能や合理性にフォーカスし、東京・秋葉原にナマハゲを移植するというテーマで映像作品をつくったのですが、次回作では、もっとおどろおどろしい人間の本能、あるいは呪術性など、祝祭というテーマをより包括的に扱いたいと考えているんです。

畑中:ナマハゲのような行事や祭り、仮装というのは、民俗学という観点から色々な解釈できると思います。例えば、以前に僕は、「渋谷のハロウィンは、死者の仮装である」という内容の原稿を書いたことがあります。いまでこそハロウィンはコスプレという側面がフォーカスされていますが、もともとはケルトの伝統社会において、死者や先祖の霊を供養する節句だったんですね。日本でもハロウィンに近い冬の時期に再生を願って仮装をする習わしがありますが、これも同じ文脈に連なるものだと思います。祭りにおける仮装というところでは、年に一度決まった時期に異形の姿で現れる来訪神、日本では民俗学者の折口信夫が「まれびと」と呼んでいた存在が知られていますが、これらは死者の霊であり、自分たちの先祖、つまり祖霊なのではないかと僕は解釈しています。

渋谷のハロウィンの様子。 Photo:畑中章宏

なるほど。私はてっきり、来訪神というのは自然霊のような存在だと考えていました。

畑中:自然霊というのはもう少しアミニスティックで素朴な存在で、祖霊とは少し毛色が違うかなと思っています。ここで言う祖霊というのは、ある家系や一族の「ご先祖様」の霊ではなくて、子孫も残さずに人知れず不幸な死を遂げ、お墓にも入っていないような人々の霊のことです。共同体が現在まで存続していることを示す存在として、名を残すことなくこの世を去った顔が見えない霊たちが、妖怪や河童、あるいはナマハゲなどの形で表象しているのではないかと。

かつて戦争や災害などで亡くなった人たちの霊だということですね。ナマハゲが祖霊だという発想はありませんでした…。

畑中:一般的な「ご先祖様」のイメージを象徴するものは、ニコニコした翁や媼のお面などですよね。でも、自分たちの世代がいまここにいられるのは、幸せな人生を送り、子宝にも恵まれて長寿をまっとうした人たちのおかげだけではなくて、系図から離れた人たちによって支えられているところがある。それを忘れさせないために、顔が見えない者たちの集合体としての霊が不定形でおぞましい姿をした妖怪やナマハゲとなり、一年の終わりや季節の変わり目に現れ、「俺たちのことを忘れるな」と言っているのではないかと。そういう意味で、祖霊というのは本質的に恐怖を覚えさせるような存在で、特に生々しい可能性を持った子どもたちに対して、ある種トラウマになるような衝撃を与えることで、魂の循環が行われているのではないかと解釈しています。

市原えつこ
どんな妖怪に惹かれますか?

ちなみに畑中さんは、ここにあるシャルル・フレジェの作品集に収録されている妖怪たちの中だとどれがお好きですか?

畑中:この中ではかなり地味な方ですが、鹿児島のガラッパが好きですね。ガラッパは南九州では河童にあたる存在ですが、河童というのは水害などで亡くなった多くの人たちの魂の集合体で、さまよう霊を供養すると同時に、またいつか水害が起こるということを忘れさせないために存在していると言われています。現代における河童は頭にお皿を乗せ、甲羅や水かきを持つなど、わかりやすくエンターテインメント化され、もう少し身近で可愛い存在になっていますよね。その点、このガラッパは渋くて地味なんですが、だからこそ逆に妖怪の「祖霊」としての側面が強く感じられるんです。

ガラッパ(シャルル・フレジェ『YÔKAÏNOSHIMA』より。)

たしかに現代の河童は、ちょっとしたいたずらや悪さをする存在というイメージが強いです。一方でこのガラッパは、人をズブズブと水の中に引き込んでいきそうな雰囲気があるし、非業の死を遂げた人たちの祖霊と言われると、妙に納得できます…。私が興味を持っていたナマハゲやパーントゥには人間と同じように目鼻がありますが、ガラッパにはそれがなく、人間が人間でなくなってしまったかのような感じがして本当に怖いです。

畑中:いわゆる河童のイメージからはかけ離れているガラッパですが、ある意味最も河童らしい存在とも言えるわけです。視覚化、キャラクター化することによって、妖怪が本来持っているおぞましさが失われてしまうところがあって、実は名状しがたいもの、形象化しにくいものの方が怖いんです。ただ、市原さんのように何かを形象化、オブジェ化するアーティストにこんな話をしても、あまり参考にはならないかもしれませんが…。

いえいえ、そんなことないです! 「都市のナマハゲ」は具体的な形を持った作品でしたが、おっしゃる通りつかみどころがないものこそ怖いと思いますし、祭りや祝祭という今回のテーマを考えても、曖昧な形状をした御神体のような存在が必要なんじゃないかとちょうど考えていたところでした。

畑中:一般的にキャララクター化というのは、可愛くすることになっていますよね。でも、現実にはおぞましくて怖い存在というものがやはりあって、それをステレオタイプな意味としてではなく、「キャラクター化」することも求められてるように思うし、市原さんにはそれを期待したい気もします。ただ、あまり僕の話を真に受け過ぎてしまうと、50人くらいにしか受け入れられない作品になりかねないので、適当に受け流してもらった方がいいかもしれません(笑)。

「都市のナマハゲ」展示風景 at ICC

市原えつこ
妖怪は誰がデザインしたのですか?

お話を伺っていてふと思ったのですが、村などの共同体においては、たとえ血縁がなかったしても集合霊というものがなんとなくカタチになりそうなイメージがある反面、さまざまな人たちが暮らしている都市の場合、そもそも集合霊という概念は成立するのかなと。例えば、渋谷における共同体の祖霊、集合霊というのはどんなものなんだろう、とか。

畑中:それこそ先ほどのハロウィンの話につながると思うんですが、僕は先日大阪にもハロウィンを見に行ったんです。そこで改めて感じたのは、緩やかな傾斜や川の跡などがあり、また、大通りと大通りの間を無数の路地がつないでいる渋谷は、歩くことがとても楽しい街だということでした。区画整理された広場を中心に街が広がっているわけではないからか、その辺の路地に人がスッと消えてしまうような雰囲気があるんですよね。そういう点でも、「死者の仮装」であるハロウィンとは相性が良く、渋谷でハロウィンがあれだけ盛り上がっているのはそんなにおかしなことではないんだなと。一方で、渋谷なんかよりもよっぽど怖い気がするのは、殺風景なニュータウンにおける集合霊。「希望が丘」のような地名がつけられているニュータウンなどはツルンとしているイメージがありますが、もともと何もなかったような場所か、あるいは別の何かがあった場所に大手デベロッパーなどが入って開発したエリアには、ステータスやローンの支払いなど、複雑な状況が絡んでいそうです。

遠山郷霜月祭り Photo:畑中章宏

奥様たちのドロドロした思念が積もり積もった祖霊! …怖すぎます。そもそも、共同体における祖霊としての妖怪たちは、どのようにデザインされてきたのかというのも非常に興味がある点です。例えば、私は東京のどこかで継承されていくような民間風習のようなものがつくれないかと考えたりしているのですが、同時にそれは一人の手でつくれるものではない気もしています。古くから伝わる妖怪たちというのは、一体誰が言い始め、その土地の行事に現れるようになったのか、そして、誰がそのカタチをつくったのか、と。

畑中:たしかに謎に包まれていますよね。僕が面白いと感じるのは、起源を同じくしている祭りでも、お面のデザインなどが地域によって異なっていたりすることです。例えば、三信遠地域と呼ばれる愛知、長野、静岡県境付近一帯では、『千と千尋の神隠し』のモデルにもなったと言われる「霜月まつり」や「霜月神楽」というお祭りが各地で行われていて、これらは構造的にはどれも同じようなものなのですが、やはりお面は地域ごとに違うんです。おそらくその背景には、うちは隣の村とは違うぞ、自分たちの方が怖いぞ、可愛いぞという競争心のようなものがあったのではないかと。時に隣の村のデザインを真似たりしながらも、差別化が図られてきたのではないかと思います。

なるほど。外部からの目線も意識しながら、カタチが変わっていったところがあるのかもしれないですね。

畑中:柳田国男は『日本の祭』という本の中で、「祭り」と「祭礼」の違いに言及しています。「祭り」というのは共同体の中で維持されていて、神仏と共同体の成員の間だけで執り行われるものですが、一方で「祭礼」には見物客という存在がいて、外部の目が意識されることによってエンターテインメント性を持ち、やがて変容していくものだと。例えば、先に話した「霜月まつり」には、望遠レンズを構えた60代くらいの観光客がたくさん来ていて、これは「祭礼」だと言えます。ただ、一方の「祭り」というのは果たして本当に共同体の中だけで持続していたのかと考えると、隣の集落には負けたくないという競争意識もやはりあったんじゃないかと思うんです。つまり、神仏と共同体の成員だけではなく、近隣の共同体の存在も意識された「祭り」と「祭礼」の中間のようなものが、実はかなり存在したんじゃないかと考えています。

市原えつこ
これからの共同体はどうなりますか?

畑中さんは、民衆のローカルな風俗や信仰などにフォーカスしていますが、これらを言語化されている背景にはどんな思いがあるのですか?

畑中:実は僕自身は、グローバリズムをテーマにしているつもりなんですが(笑)、共同体に関心を持っている背景には、反国家主義、反民族主義というものがあります。国家などに収斂されないものにこそ興味があるし、そこには人間の基礎構造のようなものがあると感じています。僕は日本人で、日本語しかできないので日本の小さな祭りにばかり足を運んでいますが、世界各地に同じような小さな祭りや死者たちの歴史というものがある。そして、これらに共通するのは、市町村や県、国といった制度的な単位とは切り離されたところに存在しているということです。

春駒 Photo:畑中章宏

前回インタビューしたアーティストの和田永さんとも、国家的な単位の共同体よりも、ムラなどの小さなまとまりに魅力を感じるという話をしていました。

畑中:リアス式海岸で知られる三陸地方はお祭りが盛んなところなのですが、面白いのは地域ごとにオリジナリティがあることなんですね。あの辺りは海岸線が非常に複雑なので、同じ北風が良い働きをする集落もあれば、悪い影響を与える集落もあって、北風を表す言葉が隣り合う集落でもまったく違うことがある。日本というのは、風を表現する方言が世界でもまれなくらいたくさんあるそうで、それは非常に面白いなと思います。話は変わりますが、東日本大震災以降、地縁、血縁とは異なる縁、つまり趣味や美意識、価値観を共有できる仮想共同体のようなものが重要だと言われるようになりました。例えば、一人ひとりの顔がわかっている小さな共同体では行動まで監視されてしまうというネガティブな面もありますが、その点意気投合できる数十人規模の仮想共同体には新しい可能性を感じます。

和田さんが実践されている盆踊り的な祭典「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」は、まさにそういうものなのかもしれません。

畑中:自分たちのアイデンティティを発信していくという時にも、ひとつの櫓を囲めるのが50人くらいという盆踊りは、規模感もちょうどいいですよね。おそらくホモ・サピエンス・サピエンスが地球に現れて以来、定住民族の共同体というのは5、6人程度だと小さ過ぎるし、200人を超えると手に負えなくなるもので、その規模感は、文明化、ネット化されて何万人が通じ合えると言われている現代においても、意外と変わっていないんじゃないかと感じます。こういう現代の盆踊り的なものが各地で競い合うような状況が生まれるとしたら、それは先ほど話した近隣の共同体の存在なども意識された「祭り」と「祭礼」の中間のようなものになるのかもしれないですね。そして、そこにはかつての地域の結びつきとは異なる共同体の姿があるはずです。バーチャルな共同体における祖霊や祭りを考えるというのはある種非常に現代的な試みだと思うので、市原さんにはぜひそのあたりを掘り下げてもらいたいですね。


インタビューを終えて

畑中さんへのインタビューを通じて、「自然霊と祖霊」「個人霊と集合霊」といった「霊のマトリクス」の地図をつかむことができ、一体どうやったら辿り着ける概念なのかすら見当のつかないような知恵をたくさん得ることのできる貴重な時間でした。
これまで、おそらく私は「自然霊(都市のナマハゲ。実は祖霊だという新事実がありましたが)」および「個人霊(デジタルシャーマン)」を自覚的に作品で取り扱っていたのですが、掴みどころがなく、漠然としたおどろおどろしさを感じるのはむしろ「集合霊」だったのだなと。祭りというパブリックな場で昇華させるべきものは、「共同体の名もなき祖霊たち」という集合霊で、だからこそ祝祭空間には得も言われぬねっとりした不気味さがあるのかもしれない……とこれまで祭りを見てうっすら感じていた正体不明の感覚の尻尾を掴めそうな気がしてきました。
畑中さんの指摘される通り、一般的なキャラクター化はある種「おそましさや怖さを去勢」するような作用があると感じますが、ざらついた不気味さや不安を煽る何かを殺さずに真空パックして、鮮度高く保持できるようなアウトプットがしたいなと思います。新作制作において最もありがたい、知識という「芽が出る前の土壌の栄養素」を惜しみなく分け与えて頂けて、畑中さんに感謝雨霰です。