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「問い」をカタチにするインタビューメディア

未知との出会い

ウェブデザイナー・萩原俊矢さんが、
国立民族学博物館 館長/文化人類学者・須藤健一さんに聞く、
「インターネット時代の民族学について」

今回インタビュアーを務めてくれるのは、「カンバセーションズ」のサイトデザインを手がけるcookedのメンバーであり、普段はフリーランスのWebデザイナー/プログラマーとして活動している萩原俊矢さん。単独では初めてのカンバセーションズ参加となる萩原さんが、"いま話を聞きたい人"として挙げてくれたのは、大阪・国立民族学博物館(通称:みんぱく)の館長で、文化人類学者の須藤健一さん。インターネット時代における新たなリアリティの在り方に着目する「インターネット・リアリティ研究会(ICC)」にも名を連ねる萩原さんが、独自の視点で文化人類学/民族学の核心に迫ります。

萩原俊矢
研究を始めたきっかけは何ですか?

須藤館長はオセアニア研究が専門ということですが、どんなきっかけでリサーチをするようになったのですか?

須藤:1970年に大阪万博が開催され、その跡地に世界中の人々の生活用具、彫像や仮面など民族資料を集めた博物館を作ろうというところから「みんぱく」が生まれたわけですが、その時に若手の研究者たちが世界中に派遣されたんですね。その5年後、沖縄の本土復帰を記念した「沖縄国際海洋博覧会」というものが75年に開催されることになったんです。私は太平洋地域の人々の生活文化を伝えるという目的でスタートしたこのプロジェクトに携わることになって初めて行った海外が、ヤップやチュークなどの島々でした。そこで半年近く現地の人たちと生活を共にしながらフィールドワークをして、人間とモノの関係性を押さえた上で、海に暮らす人々の文化を「海洋博」で展示するということをしたんです。

世界にはさまざまな地域や民族があるなかで、オセアニアに興味をも持った特別な理由はあったのですか?

須藤:日本には、長男が跡継ぎをする家父長制度がありますが、太平洋地域や台湾などには、女性の血のつながりによって家族が作られたり、土地が相続されていく母系社会というものがあります。すでに台湾を研究している人はいたので、自分は太平洋に行ってみたいなと。現地では、島の男がすることをひと通り一緒に経験して、ホームステイ先では長老から家族の系譜や歴史などを聞きました。母系社会では、父親は自分の子供に決して手を出してはいけないから、子供のしつけをするのは母親のお兄さん、つまり母方のおじさんなんですね。女性は財産や家庭を守る存在なのですが、母系社会の中でも日常的に力を持つのは結局男性なんです。そこでわかったことは、子供を生めない男性というのは生物学上弱い存在で、だからこそ自分たちで制度を作って権力を主張したり、威張るしかなかったという人類の歴史があるんだということでした。

交通や技術が発達し、色んなやり取りが簡易的になるなかで、フィールドワークのあり方や、現地の人たちとのコミュニケーションは変化しているのですか?

須藤:現地に身を置くという基本は変わりませんが、最近は、これからの地球はどうあるべきか、どういう生活をしていくべきかということを現地の人たちと議論するようなコミュニケーションも生まれています。グローバル化の流れで携帯電話などは世界の隅々まで行き届いていますよね。でも、私がフィールドワークをしてきたような島の人たちは、外から来たものをすべて受け入れて迎合するということは絶対にしないんです。自分たちの知っている生活や、祖先から受け継いできた知識や技術を慎重に守りながら、便利なものも受け入れている。多くの日本人はもはや薪で風呂を炊くことはできないけど、彼らにはそれができるんです。それができる間は絶対にこっちに来てはダメだよ、外来の新しい依存してはいけないよという話をするんですが、彼らもそれはわかっているんです。新しいものと古いものをコントロールしている彼らの生活を見るとホッとするし、人間の欲望や利便性の追求というのは、そろそろ何とかしないといけないなと思ったりしますよね。

萩原俊矢
「美」には種類があるのですか?

民族学というのは、昔のものを収集することだと思っていたのですが、改めて「みんぱく」の展示を見ると、2012年に新しく入ったものなども展示されていて、いまこの時代というのも民族学の対象になっているんだと感じました。

須藤:「みんぱく」が74年にできた時に、世界中から当時使われていたものを集めてきたんですね。その時々の生活の中で使われているものを集めるという意識が我々にはあるのですが、皮肉なことに70年代に自分たちが集めたものが現在、現地からはすでになくなっていて、現地に博物館を作るという時に、レプリカを作る資料にしたいという問い合わせがあるんです。先ほど話した島の人たちのように古いものも新しものも両方持っていればいいけど、便利なものだけを残して、古いものは捨ててしまうことが多いですよね。

「みんぱく」には膨大な量の収蔵品がありますが、どのように集めているのですか?

須藤:うちにいる60人前後の研究者たちが世界各地から集めています。「みんぱく」には現在33万点の収蔵品があるのですが、開館から35年が経つので、平均すると年に1万点収集していることになります。ただ、開館当初は一気に集めましたが、現在は年に数千点程度だと思います。いま「みんぱく」の展示を大改編しているのですが、その中でこういう展示をしたいということを各地域の展示チームが検討しています。モノとして展示する時にどんなものがいいのかを考えながら、その時々で必要なものを集めています。

ちなみに、同じ万博公園内には大阪日本民芸館もありますが、「みんぱく」との違いはどんなところにあるんですか?

須藤:大阪日本民芸館にあるものは、著名な作り手がつくった”お宝”なんです。明確な作家名があり、作品としての価値が評価されているものです。一方で我々は、簡単に言えば誰でも作れるようなものを集めているわけです。ただ、例えばアボリジニが描いた絵で、美術市場で高値が付けられているようなものも収集していて、これらは西洋文化の中にアボリジニが入り込み、自分の存在を示しているという動きを紹介するためのものなんですね。

アート作品としてはなく、あくまでも文化人類学/民族学的な側面にフォーカスしているということですね。

須藤:現地の人たちがグローバリゼーションにどう反応し、外来のものを受け入れ、利用しているのかを示す大事な例です。これらを通して、アボリジニのアートと、ピカソの作品は同じ美なのかどうかを問いかけるわけです。「美しいもの」「良い音楽のリズム」といったものの背後には人類共通の何かがあるんじゃないかと。我々は原始的で未開なモノを持っている博物館だと言われてきましたが、来年東京の国立新美術館に700点の収蔵品を持って行って展示するんです。これまで美術館というのは西洋の著名な作品を展示する場所で、博物館は美とはおよそ遠いものを展示するというイメージが強かったと思いますが、何がアートか、何が美しいかということを決めるのは見る人なんです。私たちが持っているガラクタと言われているようなものの中には西洋や日本的な美とは比較できない根源的な美というものがあるんです。仮面にしても彫像にしても、どんな民族でも作り得る美というものがあって、そこには博物館と美術館の壁はない。国立新美術館での展示は、自分が美しいと感じるものは何なのかということを個人個人が意識できる良い機会になると思っています。

「みんぱく」の展示風景。

萩原俊矢
展示では何を大切にしていますか?

僕はデザインの仕事をしていて、アートなども好きなんですが、美術館と博物館では展示の方法が決定的に違いますよね。例えば、西洋絵画はゴツイ額縁に入れられるし、現代美術はホワイトキューブでミニマルな展示が一般的です。一方で「みんぱく」にあるものは美術作品ではなく日用品で、それらを展示として成り立たせるための工夫を随所に感じました。

須藤:みんぱく」で扱っているものには、キャンバスのように定型の形がないので、あるものをそのまま出すしかないんですよね(笑)。それらをガラスケースに入れてしまうのではなく、壊れないものはなるべく触って感じてもらうということを意識しています。先ほども話しましたが、ここにあるものは基本的に誰でも作れるものだったわけで、それはつまり、人が作り出すあらゆるものが展示品になるということです。我々が展示したそれらのものを見た人たちが、想像の中でそれぞれの独創的な美を見出してくれればいい。不定形なものを通して、美の多様性というものを展示できればと考えています。

展示が凄く難しいものや、切り取ることが難しい状況というもの伝えていくための高い編集能力を感じます。展示のアプローチは研究者それぞれが考えているのですか?

須藤:基本的にはそうですね。研究者は、自分や他の人が集めてきたものを見て、ある社会の人々の生活や創造的な営みをどう表現するのかということを考えます。そのために収蔵庫にある33万点の中から何を選ぶかということなんです。そうやって選ばれたものがいま展示されている1万点なんです。例えば、仮面を展示する時には、仮面が持つ共通性を見せるのか、それとも差異を出すのかということを考えていくわけです。さらにそこにどの程度の文字情報を入れていくかなどを詰めていく。そうした考えをもとに、展示業者さんとチームを組んで具体的な形を作っていくんです。

ムービーやタッチパネルなど色んなメディアも使われていますよね。

須藤:静止画や動画などをいかに使って紹介していくのかというのは、担当者のセンスによるところが大きいですね。個人的には、あくまでもモノの展示を通して、実物や本物を見る人に五感を働かせてもらうことが大切だと思っているので、あまり動画を使いすぎるのは良くないなと思っています(笑)。どうしても動画だけ見て帰ってしまうことになりがちだし、「ビデオテーク」というコーナーに行けば関連動画は見られるわけですからね。とはいえ、みんな忙しいので、展示を見た後に映像まで見る人はそう多くないし、そうなるとなるべく展示スペースで解説を入れましょうということになる。音楽の展示などにしても、映像を出し過ぎるよりは実際に楽器を叩いてもらう方がいいと思うけど、「こんな大事なもの壊したらどうするんですか」ということになる(笑)。その辺のバランスは難しいですね。

膨大な量の映像資料を閲覧することができる「ビデオテーク」。

萩原俊矢
デジタル化は進んでいますか?

先ほど展示を見た後に、「ビデオテーク」のそばにあるタッチパネルを触らせてもらったのですが、展示内容や位置、映像資料、参考文献などのデータが詳細に記された非常に丁寧なアーカイブで衝撃を受けました。今後ネットからもこういうものを使えるようにするという構想はあるんですか?

須藤:これは2年前に作った「イメージファインダー」というものなんですが、すでにネットでも1万点の展示品の写真や場所、年代などの簡単な情報は見ることはできます。それ以上の30万点あまりのデータも内部では持っているのですが、データの精度にばらつきがあるので、今後拡充していく必要があるんですね。また、自分たちの博物館だけではなく、世界の博物館同士が持っている情報を集め、交換し、世界中の人たちがアクセスできるようなシステムを作るという構想も進めています。博物館は、モノを「所有」しているのではなく、「管理」しているだけという考え方をベースにあるのですが、ヨーロッパなどの博物館は、植民地時代に現地から強引に集めたものなどもあって、なかなか難しいところがある。そこで我々のように現地の人としっかり契約をしてモノを収集している博物館が音頭をとって、アメリカのインディアンの博物館や、アフリカの博物館などと一緒にデータを共有しながら、足りないものは現地の人たちに聞いて拡充していきましょうというプロジェクトです。

直感的な操作で展示物情報を検索できる「イメージファインダー」。

世界中のバラバラな場所にあるモノを、写真や情報としてネット上に収集していくという考え方ですね。

須藤:そうですね。一般の人や研究者がそれぞれのレベルでアクセスできるクラウド型のバーチャルミュージアムを作ろうということです。ただ、言語や著作権の問題など大きな壁があるので、今後何十年かかるかわからないほどの壮大なプロジェクトですね。

凄く興味のあるプロジェクトです。「みんぱく」はLANを引いた時期もかなり早かったと聞いていますが、今後もさらにデジタル化を推し進めていくのですか?

須藤:どんどん進めていきたいですし、そのための専門家も入れました。いま「みんぱく」には34万点の収蔵品の他に、映像や音響の資料が約8万点、書籍は65万冊以上あります。これらの情報をいかに体系化して、外からアクセスできるようにするかというのは今後の課題です。それができなければ、「みんぱく」が持っている情報は宝の持ち腐れになってしまうわけで、そんな税金の無駄遣いはないんです。「博情館」として、モノと情報を外に発信するということが我々に課せられた大きなミッションです。そのなかで今後は情報のコレクションということに力を入れていく必要があると考えています。

萩原俊矢
文化人類学の醍醐味は何ですか?

術の世界では、メディアアートやビデオアート、プログラムで作動するPC上の作品など、形には残らないデジタル作品を収蔵し始めていますが、今後「みんぱく」で情報自体を展示物として収集するということがあるのか興味があります。例えば、象徴的なテレビ番組やインターネット上のコンテンツを集めるということを考えたり、研究されている方もいるのですか?

須藤:そういうことについて研究している先生は、専門ではないですが何人かはいます。ただ、それらを「みんぱく」でコレクションにするということまではまだ考えていないですね。音楽のLPやCDというのはあるけれど、いまはまだそこまでです。

みんぱくゼミナール 第427回「カザフの死者儀礼―日常から展望するイスラーム」 13年12月21日 13:30~15:00

例えば、数枚の画像をループさせたGIFアニメーションという画像形式があるのですが、アメリカ大統領選でオバマを風刺するGIFアニメーションが話題になったり、最近は「GIFる」という言葉(GIFという動詞)が流行していたりするんですね。風刺画という昔からあるものが、GIFという現代の形式でリバイバルされる状況を見ていると、インターネットからも民族学が生まれるんじゃないないかと感じるんです。また、その土地固有の建築を提唱する「ヴァナキュラー建築」という考え方になぞらえ、「ヴァナキュラーウェブ」と呼んで素人が作った各地のWebサイトを収集している人なんかもアーティストの中にはいるのですが、民族学ではそういった動きというのはないのですか?

須藤:私の知っている範囲ではないですね。やはり文化人類学の基本であるフィールドワークは、まず身体を現地に持って行って、相手と対話や議論をしながら、向こうの社会の全体性をいかに理解して表現するかということで、ある意味オールドファッションなことしかやっていないんです。ただ、若い文化人類学者には新しい人も出てきていると思うし、なぜ人は「GIFる」のかとか、インターネットにはまっていくのかという人間の活動を研究する人は今後もっと出てくると思います。

.僕たちは、インターネット時代におけるリアリティというものを研究をしているのですが、そこで大切になってくるのは「みんぱく」にあるような蓄積された知識や編集力、フィールドワークの力というもので、それが今後のインターネットにもつながっていく気がしているんです。そういう意味でも今日は凄く勉強になるお話が聞けました。

須藤:文化人類学では、全体性をどう捉えるかということを一番の問題にするんですね。ある社会に対して自分が持っているイメージをもとに、現地でコミュニケーションを取りながら調査をしていくなかで得られたものがひとつの全体像になっていく。でも、結局会話やコミュニケーションというのは、相手が言っていることを自分の都合の良いように聞くことで成立していて、そこには意味の多様性があります。人間というのは10人いれば10人みんな違うわけで、それをこうだと決めつけてしまうしかないところがあって、そこで働くのは直感でしかないんです。一人ひとりの人間がいて、彼らが織り成す社会や、それを支える土地や神々があって、それらがひとつのコスモスを形成している。その全体像をどのように直感で知り得るかというのが、フィールドワークの醍醐味なんです。


インタビューを終えて

僕が高校生の頃、Flashというソフトウエアが流行し、多くのサイトがFlashによってダイナミックに動くものになりました。しかし、それから数年が経ち、iOSやHTML5、jQueryといった『まったく新しい』技術が登場することで、Flashは下火になり、多くの人がたくさんの時間を費やして生まれた創作物は、ほとんどアーカイブされることもなく見かける機会は減っていきました。簡単に作って公開できるFlashですが、閲覧にプラグインが必要だったり、サーバーと連携するような複雑なコンテンツも多かったため、それらを残すには依存環境をまるごとを保存する必要がありました。そのため名作といわれた多くの作品はすでに見られなくなっています。
これはFlashに限らず、多くのデジタル作品に言えることで、大体の作品はOSのアップデートとともに動かなくなってしまう可能性を含んでいます。
僕は国立民族学博物館を訪れて、色々な衝撃を受けたのですが、そのひとつに各国の"言語"や"パン"などが展示されていたことがあります。もちろんすべてのパンを展示するわけにはいかないので、ヨーロッパの地域ごとに特色のあるパンがレプリカにされ、解説とともに展示されるのを見て、形式が曖昧なある"状況"を展示することのへの工夫に驚いたことを覚えています。
見られることを前提とした絵画以上に、パンや言語というのは抽象的で固定しにくものだと思います。このことがインターネットやデジタル作品のような『複雑で依存関係の強い状況や情報をまとめる』ことのヒントになるのではと考えるきっかけになりました。今回のインタビューで須藤館長が『みんぱくは博物館ではなく、情報を展示するという点では博情館とも言える』と仰っていたのが印象に残りました。
2004年に始まったとされるweb2.0から10年が経とうとしている今日のインターネットには、アニメーションのキャラクターや既存のコンテンツを別の作品へと作り変える、生産者とも消費者とも分類しがたい表現者がたくさん存在しています。
誰もが日常的に行っているつぶやきやシェア、短い動画、自分撮りを共有すること、そういう生産と消費の連鎖によって人々はコミュニケーションする時代になりました。
このようにすべてがフラットになってしまうネット上で、『どこまで』を『誰』の作品と考えるかは難しいですが、そういう複雑な状態を切り取り、保存することについて考えることは、ネット時代にデザインや編集に関わる者の大きなテーマだと思っています。
スマートフォンの普及により、この生産と消費のサイクルはさらに高文脈化して、それをすべて網羅してまとめることはさらに難しくなっていくでしょう。そういう時に民族学的な視点や高度な編集の力は大切になると感じています。
街で人々がぶつかりそうになりながらスマホを片手に歩き、知らないひとから『いいね!』されたり、LINEの既読を気にするように、色んな場面で僕たちの感覚がインターネットによって変化し始めています。端から見れば画面に向かって突っ立っているように見えても、画面の向こうにはたくさんの人たちがいる社会がある。これは土地土地の持つ文化ではないものの『ソーシャル』という実際の場所に依拠しない地域性なのではないかと感じています。
技術の強く依存し、複雑に繋がり合った環境の中でも私たちはやっぱり何かを作って、同時にそれを消費しながら生きています。館長とのお話のなかで、オセアニアのような島の人たちは携帯電話などの『外から来たものをすべて受け入れて迎合するということは絶対にしない』というお話を聞いて、自分とメディアの関係を客観視せず、盲目的な私たちのいまを描く意味でもみんぱくは機能していると感じました。
今回、須藤館長にお話を伺うことができて、改めて民族学や文化人類学という分野の方々の持つ広く深い知識とそれらを展示やまとめる編集の技術、そして文化を残すことへの意識の強さを感じることができました。これからも民族学的なアプローチに学び、そしてインターネットとともに歩んでいきたいと思うインタビューになりました。
取材に同行してくださったQonversation原田さん、そして、お時間を作ってくださった須藤館長に感謝します。