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「問い」をカタチにするインタビューメディア

未知との出会い

「PAPERSKY」編集長・ルーカスB.B.さんが、
「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会・梶川 伸さんに聞く、
「お遍路の歴史や魅力について」

地上で読む機内誌「PAPERSKY」の編集長ルーカスB.Bさんと、インタビューサイト「カンバセーションズ」がコラボレートし、トヨタのプラグインハイブリッドカー「プリウスPHV」に乗って、四国・お遍路の道をたどる特別企画「HENRO-ing 1200years×1200km×120sec.」。「カンバセーションズ」では、その道中で出会ったさまざまな方々のインタビューを紹介していきます。今回は、「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会の副会長を務め、お遍路さんたちを導く「先達」としても活動している梶川 伸さんにインタビュー。50歳を前にして初のお遍路を経験して以来、四国に足を運び続けている梶川さんに、お遍路の歴史や魅力などについて聞きました。
※「HENRO-ing 1200years×1200km×120sec.」の旅の記録は、PAPERSKYのWebサイトでご覧になれます。

ルーカスB.B.
「ヘンロ小屋プロジェクト」とは何ですか?

梶川さんが副会長を務めている「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会について教えて下さい。

梶川:中心になっているのは、歌洋一さんという徳島出身の建築家で、彼が歩き遍路をしている人たちのための休憩所をつくり始めたことがきっかけになっています。建築家として成長した彼が、地元に何かお返しをしたいと考え、小さい頃から周囲の人たちがお接待をしていたのを見てきた経験をもとに2000年にプロジェクトをスタートさせ、翌年に第1号の小屋が完成しました。その後、歌さんひとりでは大変だろうと考えた人たちが集まり、彼の活動をサポートすることを目的に発足したのがこの会になります。歌さんの活動拠点でもある関西の人たちが中心になっているのですが、この会を立ち上げた徳島出身の人間から声がかかり、私も参加することになりました。

具体的にはどんな活動をしているのですか?

梶川:ヘンロ小屋プロジェクトはボランティアで成り立っているのですが、地元の方に土地を提供して頂いたり、建設のための寄付金を募ったり、自分たちで労力奉仕することなどが主な活動内容です。こちらから休憩所をつくりませんかと呼びかけると、四国の方たちは非常に敏感に反応してくれて、11月末には53番目の休憩所ができました。また、一度小屋ができると、それを維持・管理したり、お遍路さんのお接待をしたりする地元のグループができるんです。こうした動きには本当に驚かされますし、これが四国のお接待に通じる温かさなのだと思います。僕たち大阪中心のメンバーも、四国をまわった時に非常に暖かくして頂いたこともあり、自分たちとしても何かお返しがしたいという思いで活動を続けています。

Photo:Koichi Takagi

梶川さんはこれまでにどのくらいお遍路をまわっているのですか?

梶川:13回ほどになります。私は普段大阪に住んでいるので、四国に来ると少しホッとするんですね。頻繁に四国をまわっている人たちの間で、「また”お四国病院”に行ってくる」と言ったりするのですが、定期健診のような感覚で四国に来ている感覚があるんです。ここに来ると何か良い作用があるような感じがして、都会の生活に疲れた時などに、また四国にでも行ってみようかとなるわけですが、そうした人々を受け入れてくれる素地というのが、四国の人たちやお遍路の文化にはあるのだと感じます。また、街と山の境界線を歩いて行く遍路では、人と自然それぞれに触れ合うことができ、その虜になる人も多いのだと思います。

ルーカスB.B.
なぜお遍路を始めたのですか?

梶川さんがお遍路を始めたきっかけは何だったのですか?

梶川:私が49歳のある時、友人の女性ノンフィクション作家とお酒を飲んでいたんです。その時に彼女が、若い頃に四国八十八ヶ所をまわったことが非常に印象に残っていると話していて、お酒の勢いでそれなら自分も行ってみると言ったんです。当時私は新聞社で働いていて長い休みは取れなかったので、3日間9回に分けて自転車でまわったのですが、恥ずかしい話、みんなが数珠を持ってお参りしていることに驚いてしまうくらい無知のまま来ていたんですね。さらに、一番から二番のお寺に向かう途中に落ちていた数珠を拾って使ってしまうような、まったくヒドいお遍路さんでした(笑)。それは余談ですが、いざ四国をまわってみると、本当にたくさん魅力があって、非常に感動したんです。地元の方たちは、お遍路のことを「お四国さん」と言ったりするのですが、この優しい呼び方が私は大好きなんですね。この言葉には、四国の人たちのお遍路さんに対する意識が最も象徴的に現れていると感じるんです。

四国をまわってみて、特に思い出に残った出来事などはありましたか?

梶川:いまお話した「お四国さん」という優しい考え方の最たるものは、やはり「お接待」だと思いますが、高知県にいた時に受けたお接待が最も印象深かったです。四国には、善根宿といって、お遍路さんを泊めてくれる家があるのですが、僕がお世話になったところは、お寺の住職に薦めて頂いた農家で、納屋を改造して寝泊まりできるスペースをつくってくれていました。そこは4人家族の家だったのですが、誰よりも先に私をお風呂に入れてくれて、食事にしても「うちは決して裕福ではなくて、あるのはお米と野菜くらいだけど、普段4で割っているものを5で割るだけなので、遠慮せずに食べてください」と言って頂きました。さらに主人が、「わしは遍路と酒が好きだ」と言ってお酒まで飲ませてくれて(笑)、翌朝にはおにぎりを持たせてくれたんです。

Photo:Koichi Takagi

それが四国の人たちの優しさなんですね。

梶川:そう思います。世界は、東西冷戦構造が終わって以来、どんどん細分化が進んでいますし、日本でも、会社や家庭といった共同体が崩れつつあると思います。そのなかで、遍路道の周辺には、まだ共同体というものが残っているんですね。都会の子どもたちは、知らない大人に声をかけられても放っておきなさいと親に言われますが、四国では子供たちがお遍路さんたちに、「おはよう」「がんばってね」と自分から声をかけてくれるんです。そういう目に見えない共同体のようなものが、多くの人を四国に惹きつけているのだと思います。

Photo:Koichi Takagi

ルーカスB.B.
お遍路にもブームはあったのですか?

お遍路というのは、いつ頃から一般的になったのですか?

梶川:かつて、京都から遠く離れた四国は、辺地(へぢ)と言われていて、空海の出身地でもあったことから多くの僧たちの修行の道だったんですね。やがて、その辺地が辺路へ、そして「遍路」へと変わっていきました。その過程に大きな影響を与えたのが、室町時代に起きた応仁の乱で、これによって京都が丸焼けになり、それまで都にいた「聖(ひじり)」と言われる仏教者の一部が四国に来て、遍路を大衆に紹介する役割を担うようになっていきます。江戸時代に入る頃から、聖たちが現在の旅行代理店のように遍路をPRし始めたことで、四国遍路は一般にも定着していったのではないでしょうか。

歴史的に見ると、お遍路にも流行り廃りというものがあったのですか?

梶川:遍路の最大のブームは、いまお話しした江戸時代です。長く鎖国が続いたこの時代は、非常に平和な時期でもありました。平和な時というのは、文化やレジャーが盛んになるわけですが、お伊勢参りや金毘羅参りとともに、四国遍路も大変人気を集めました。そして現在は、江戸時代に匹敵するほどの遍路ブームだと言えます。その大きな理由としては、この20年くらいの間に本州と四国の間に3つの橋が架けられたことが挙げられ、それによって大手旅行会社などがお遍路ツアーを組むようになりました。特に私が先達をするようになった2004年頃がピークで、ひとつのお寺にツアーバスが10台もつけられるなんていうこともよくありましたね。

Photo: Koichi Takagi

いまお遍路をまわっている人たちは何歳くらいの方が多いのですか?

梶川:定年後の人たちが約半数で、その次に多いのが10代、20代の学生、残りが30~50代といった感じでしょうか。定年後の人たちは、ひとつの人生の転機としてまわっているケースが多いですが、若い人たちになると、スポーツ感覚の人と、自分探しの人が半々くらいです。また、外国人の方も全体の3~5%はいると思いますが、歩きで回っている人がとても多いですね。ヨーロッパにもサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路がありますが、これはフランスから出発して、スペインがゴールになっています。スタートからゴールまでが一直線なので、目的地につくことで巡礼が完結するのですが、遍路の場合は直線ではなくグルっと一周まわる形になりますよね。それが輪廻転生や仏教の思想にも通じるものがあって、必ずしも目的地に到着することが目的ではなく、回っていること、あるいは回り続けることが大事で、それが外国の人を遍路に惹き寄せるひとつの理由になっているのかもしれません。

高知県・金剛福寺で出会った欧米人2人組は、今回が5度目の歩き遍路。 Photo:Koichi Takagi

ルーカスB.B.
これからもお遍路は続いていきますか?

現代におけるお遍路というのは、かつてとは意味合いが変わってきていると思いますか?

梶川:昔に比べると、自分のことを見つめ直そうという人から、レジャー、健康志向の人まで、お遍路の目的が多様化していると思います。ただ、その中でも根本にあるものは変わっていないのではないかという気がします。日本には、本当の意味で宗教があると言えるかはわからないし、お遍路にしても、宗教的な信仰とは少し違う意味合いがあって、より近い言葉は「信心」なんじゃないかと思っています。例えば、お父さんが亡くなってしまったから供養のために四国をまわってみようとか、根本的な部分で信心につながるようなものが動機になっているように感じます。

今年で開創1200年と言われている四国遍路ですが、これから先の1200年はどんな道をたどっていくと思いますか?

梶川:これまで1200年続いてきていて、しかも先ほどお話したように現在が歴史上最大のブームとも言えるお遍路は、この先1200年も必ず続いていくと思います。以前に、四国を歩いている学生さんに、なぜ来たのかを聞いてみたら、ふれあいを求めに来たと答えが返ってきたんです。たしかに四国に来ればいくらでもふれあいはできるけど、それが目的というのはどうなんだろうと思ったのですが、いまの世の中はそれだけふれあいがないんですよね。それはお遍路さんの目的としてはちょっと違うかもしれませんが、そう言わざるを得ない状況というのもわかります。人間というのは一人で生きていくことはできないのに、いま世の中の動きはどんどん細分化する方向に進んでいます。でも、そこに違和感を持っている人たちはたくさんいて、そういう人たちのためにもお遍路はあり続けるのだと思います。

ヘンロ小屋第1号 香峰

お遍路が果たす役割は、今後さらに強まっていくのかもしれないですね。

梶川:戦後の日本を支えてきた根本的な思想というのは、「効率化」ということに集約されると個人的には思っているのですが、一方で、四国という場所やお遍路さんの文化というのは、その対極にあるものです。これは笑い話ですが、仮にヘリコプターでお遍路をまわったら一日で終えることができるんですね。歩き遍路というのは、40~60日くらいかかるのですが、仮に一日合計1万円程度のお金がかかるとしたら、40〜60万円前後の出費になりますよね。それを考えると、ヘリコプターで遍路をまわるのが最も効率的とも言えますが、そんなことをする人はまずいません。また、いま日本では「安心・安全」という言葉がよく使われますが、遍路道には山の中に入って行けば安全ではない場所もあります。それにも関わらず、閉塞状況にある現代の日本において、四国に憧れる人は増えているように感じます。四国という場所が、世の中の流れに対するアンチテーゼとしてあり続ける限り、お遍路もなくなることはないと思っています。

Photo: Koichi Takagi