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「問い」をカタチにするインタビューメディア

発想とカタチ

ゲームプレイヤー・1048さんが、
美術作家・梅沢和木さんに聞く、
「作品制作に及ぼすゲームの影響」

今回お届けする記事は、「カンバセーションズ」初の試みとなる「聞く側」「聞かれる側」の立場を入れ替えた"リバース"インタビュー。前回話題を集めたアーティスト・梅沢和木さんから、カリスマゲーマー・1048さんへのインタビューから一転、今回は「ゲーム」という観点を軸に、1048さんが梅沢さんの創作活動の秘密に迫ります。

1048
どんなゲーム体験をしてきたのですか?

今日は、先日僕がインタビューされた時にも軸になった「ビートマニア」「ゲーマー」という観点から、アートとの関連性を探っていけたらと思っています。そこでまず聞いてみたいのは、梅ラボが「ビートマニア」の10段であることをプロフィールに書いていることです。要は、単にゲーム好き、「音ゲー」マニアであるということだけではなく、それがアーティストとしての作家性に何かしら関係しているんじゃないかと。

梅沢:これをプロフィールに掲げていることは結構重要で、それが「ビーマニ」をやっているひとつの目的でもあるくらいなんです。作家がプロフィールに書く内容って、出身大学や主な展示、受賞歴などがほとんどで、みんな似たようなものになるんですよ。そこに、違う称号のようなものがあると単純にカッコ良いと思ったし、自分が中学生くらいから音ゲーをそれなりにがんばっていて、ゲーマーというのがルーツにある。また、ゲームをプレイしている時の映像体験を作品に取り入れているし、日本にはアニメの他にもこんなコアで独自性を持った文化があるんだということを伝えたいという思いもありました。

先日、僕が梅ラボにインタビューされた時にも聞かれたけど、最初にやったゲームは何でしたか?

梅沢:「ロックマン2」ですね。もともと兄貴が凄くゲームをやっていて、それを横で観ているというのがスタートで、そこは1048さんと同じです。当時は、1日のプレイ時間が30分と決められていて、その間ずっと「ロックマン2」をやっていましたね。ゲームができない時間は、ロックマンの世界を広告の裏にボールペンで自分で描いて、そこにキャラクターやアイテムなどを描き込んでいました。要は、ゲームをプレイできない時間は、絵を描くことでプレイするみたいな感じだったんですけど、自分が好きなように描けるのが何より楽しかった。キャラクターそのものよりも、ステージを描くことが楽しくて、他にも幅が1mm以下の細かい迷路なんかを描くことも凄く好きでしたね。

「ビートマニア」をやるようになったのは中学生くらいからですか?

梅沢:そうですね。初めてやったのは、友達がうちにプレステの「beatmania 2ndMIX」と専用コントローラーを持ってきた時なんですけど、その友達がソフトと専コンを置き忘れていったので、やり込むことができました(笑)。最初は、判定が結構難しくてあまり面白いと思わなかったんだけど、やっているうちにだんだんできるようになっていきました。その後、ゲームボーイ版の「ビーマニ」を経て、また家庭用に戻り、ゲーセンなんかでもプレイしていたんですけど、美大受験をきっかけに、大学3年くらいまでゲームをやらない時期もありました。

美大に入ってからは、ネット上で集めた画像などをもとに作品を作り始めるようになったと思うんですが、そもそもネットとはどうやって出合ったんですか?

梅沢:親父がパソコンを買ってきたことがきっかけで、パソコンの向こう側に人がいるということが衝撃でした。「もうひとりじゃないんだ」みたいな(笑)。ネットを通してたくさんの人たちが色んなことを考えているということが分かるだけでも楽しかったし、こんなものがあったら一生楽しめてしまうという戸惑いと喜びがありましたね。

1048
なぜ画像をなぞり始めたのですか?

ネットをやり始めてからすぐに画像を収集するようになったんですか?

梅沢:いや、それよりも先にまずゲームをやるようになりました。WINDOWS上でクリックをして遊ぶものとか、当時ネット上にはコアでマニアックなフリーゲームというのがたくさんあって、それをダウンロードしてコツコツやっていましたね。もちろん、「ドラクエ」や「FF」とか正統派のゲームもやっていたけど、フリーゲームの方が自分で見つけた感覚があって、その体験がいまの自分を形成している部分もあると思います。自分の中ではアンディー・メンテのジスカルドさんとステッパーズ・ストップのポーンさんがフリーゲーム界の二大巨頭で、普段働いている仕事の傍らで自分たちが本当に作りたいゲームを作っていて、そのほとばしる表現に共感できるところもありました。呼吸するように大量に作っていたのも印象的でした。

僕は、2009年にFrantic Galleryで開催された個展「エターナルフォース画像コア」についてのネット上の動画インタビューで梅ラボの存在を知って、展示を見に行ったんです。その動画では、キャラクターなどネット上の画像を出力してなぞり始めたことが作品作りの原点だと話していたけど、それをゲーム的な見地から考えると、用意された譜面に対して、自分の身体をもって鍵盤を叩くという「ビートマニア」の行為とリンクするんじゃないかと感じたんです。

梅沢:リンクするどころか、完全にその通りですね。画像を配置してなぞるという行為は、キャラクターなど二次元の世界のものと一体化できるんじゃないかという錯覚のもとになされているんですが、いまの1048さんの言葉を受けて言い換えるなら、それは画像を体験すること、画像をプレイすることなんですよね。ものを作る人間なら多くがそうだと思いますが、僕は良い作品を見たり、素晴らしいものに触れると、この感動や体験を自分はどうしたらいいんだと、焦燥感や嫉妬のようなものを覚えるんです。特に自分のルーツでもあるフリーゲームなどをしている時にそういう体験をすることが多かったんですが、じゃあそこで自分は何をしたらいいんだというところから、画像をなぞるという行為につながっていったんだと思います。

Photo:越間有紀子

鑑賞者側の観点からも、人によって見える譜面というのが変わってくる「ビーマニ」と似ていて、観る人それぞれが梅ラボの作品から自分自身の譜面を見つけてプレイするという構造があると思えたんです。鑑賞者がバーコードの読み取り機のようになって、自分に適当なものを作品の中から読み取っていくというプレイングが成立しているんじゃないかと。

梅沢:鑑賞=プレイングというのもまさにそうですね。もともとゲームというのは永遠にループできる没入体験装置だと思っていて、コアなプレイ体験をしようとするプレイヤーに対して凄く準備がされているんですよね。対照的に、アートというのはコアな鑑賞体験をしたいユーザーに対して開かれていない。特に「ビーマニ」というのは、やり込めばやり込むほど没入できて、その陶酔感や見えてくる世界というのが凄いんですよね。僕としては、そんな「ビーマニ」くらいのプレイングが、絵画の鑑賞でもできるといいなと思っているんですけど、それはなかなか難しいことで。でも、凝集された自分のアイデンティティによって、まったく異なる人たちが感動できる表現というものが本来のアートだと思うんですね。そういう意味では、ゲームやアニメを知らない人が僕の作品に感動してくれると、良いプレイングをしてもらえたなと感じるんです。

1048
ゲームとアートの関係をどう考えますか?

ビートマニア」では、譜面を攻略することを「解けた」と表現する人が結構いるんですね。「解けた」と言っても「ビーマニ」は難しすぎて満点は出ないので、つまり自分なりの文脈を打ち立てることで「読み取っている」ということだと思うんです。この感覚も梅ラボの作品と共通していて、結局個々の感性に基づいた文脈でしか解釈ができなくて、すべてを包括することが限りなく難しいというか。

梅沢:例えば絵画には、アートの文脈に沿って配置されたいくつかのコマを、鑑賞者が読み解いていくというところがあるんですね。一方で、例えば最近色んな種類が出てきている「音ゲー」の世界にも、新しいゲームを説明書を見ずにやり始めて、自分なりのスタイルで読み解いていく快楽がある。そういう意味では共通しているところがあるんですが、例えば「ビーマニ」だと、ひとつの画面の中にゲージやノーツ(落下してくるオブジェ)、グラフ、数字、イメージ映像、アバターなどが同時に表示されていて、プレイヤーはその五次元くらいの映像世界をすべて認識しているわけですよね。これは凄い情報処理能力だし、アートに置き換えた時に、こんなハイコンテクストな読み取りができるのは、ごく一部の人でしかないと思うんです。

梅ラボの作品にしても、「カオス*ラウンジ」全体にしても、アートという文脈を持っていなくても、何かしら共通点が見つけられれば、身構えることがなくコミュニケーションが取れたり、プレイングを始められるという構造がある。これはまさにインターネットやゲーム的な感覚ですね。

梅沢:日本でも欧米でもアニメ文化はアートシーンに影響を与えているけど、ゲームの文化というのはなかなかそこに入ってこれない。絵画とアニメというのは視覚体験という強い共通項があるけど、ゲームの場合はむしろプレイング、つまり絵画に置き換えると、描く側ではなく、見る側をどう設定するかが大切なんですよね。まるでコアなゲーマーがプレイを楽しむように鑑賞できるアート作品をいかに鑑賞者に自然に誘導させるか、そういった誘導ができるのはどういう作品なのか。これからの自分の課題でもあります。

基本的に梅ラボが制作しているものは平面ですが、ゲームを作りたいという気持ちはあるんですか?

梅沢:たしかにそれだけゲームが好きなら自分で作ればいいのにという話もあるけど、やっぱり自分ができることは絵画であって、ゲーム自体を作るのは難しい。だから自分は、絵を描くという行為によってゲームを追体験しているところがあるんです。仮にゲームを作れる才能と技術があったらやってみたいとは思いますが、いま僕がゲームを作ったとしても、下手の横好きというか、あまり面白いものはできない気がします(笑)。

1048
ゲームとアートの関係をどう考えますか?

「ビートマニア」では、譜面を攻略することを「解けた」と表現する人が結構いるんですね。「解けた」と言っても「ビーマニ」は難しすぎて満点は出ないので、つまり自分なりの文脈を打ち立てることで「読み取っている」ということだと思うんです。この感覚も梅ラボの作品と共通していて、結局個々の感性に基づいた文脈でしか解釈ができなくて、すべてを包括することが限りなく難しいというか。

梅沢:例えば絵画には、アートの文脈に沿って配置されたいくつかのコマを、鑑賞者が読み解いていくというところがあるんですね。一方で、例えば最近色んな種類が出てきている「音ゲー」の世界にも、新しいゲームを説明書を見ずにやり始めて、自分なりのスタイルで読み解いていく快楽がある。そういう意味では共通しているところがあるんですが、例えば「ビーマニ」だと、ひとつの画面の中にゲージやノーツ(落下してくるオブジェ)、グラフ、数字、イメージ映像、アバターなどが同時に表示されていて、プレイヤーはその五次元くらいの映像世界をすべて認識しているわけですよね。これは凄い情報処理能力だし、アートに置き換えた時に、こんなハイコンテクストな読み取りができるのは、ごく一部の人でしかないと思うんです。

梅ラボの作品にしても、「カオス*ラウンジ」全体にしても、アートという文脈を持っていなくても、何かしら共通点が見つけられれば、身構えることがなくコミュニケーションが取れたり、プレイングを始められるという構造がある。これはまさにインターネットやゲーム的な感覚ですね。

梅沢:日本でも欧米でもアニメ文化はアートシーンに影響を与えているけど、ゲームの文化というのはなかなかそこに入ってこれない。絵画とアニメというのは視覚体験という強い共通項があるけど、ゲームの場合はむしろプレイング、つまり絵画に置き換えると、描く側ではなく、見る側をどう設定するかが大切なんですよね。まるでコアなゲーマーがプレイを楽しむように鑑賞できるアート作品をいかに鑑賞者に自然に誘導させるか、そういった誘導ができるのはどういう作品なのか。これからの自分の課題でもあります。

基本的に梅ラボが制作しているものは平面ですが、ゲームを作りたいという気持ちはあるんですか?

梅沢:たしかにそれだけゲームが好きなら自分で作ればいいのにという話もあるけど、やっぱり自分ができることは絵画であって、ゲーム自体を作るのは難しい。だから自分は、絵を描くという行為によってゲームを追体験しているところがあるんです。仮にゲームを作れる才能と技術があったらやってみたいとは思いますが、いま僕がゲームを作ったとしても、下手の横好きというか、あまり面白いものはできない気がします(笑)。

1048
ゲームは人生に役立っていますか?

いままで話してきたように、ゲームというのは梅ラボのルーツのひとつだと思いますが、最近の作品制作において変わってきた部分はありますか?

梅沢:基本的な軸はズレていないんですが、最近はベタにアーティストがいまするべきことは何かということを考えています。東浩紀さんが提案している福島第一原発観光地化計画を一緒にやらせてもらっているんですが、いま日本に求められていることという非常に重いテーマに対して、真正面から取り組んでいる。こういう提言を斜に構えて見ることは楽ですが、逃げずに作品で答えを出していくことが重要だと考えています。一見関係ないように見えるけど、この問題の背景には戦後の資本主義の日本が生んだオタクカルチャーが密接に関係していて、ゲームも決して無関係ではない。例えば、いま作っている作品にしても、神のような畏れを抱かせる存在や祈りの対象になるようなものを、都市とネットのイメージを両立させて描こうとしているのですが、コアなイメージ体験と公共性や普遍性を両立させるために構図作りになかなか苦戦しています。

『LOVE展』at 森美術館 2013.4.26-9.1

それはきっと、「ビーマニ」で楽曲のジャンルや譜面の傾向が変わった時、それに対応するのに時間がかかるのと同じようなことですよね。僕も聞かれたことですが、梅ラボはゲーム体験がそれ以外の部分に役立っているところはありますか?

梅沢:ゲームによって得られた没入体験によって、よりコアなイメージが見えて、絵画に没入できるというのはありますね。ゲームをプレイするということは、人生を豊かにする要因のひとつだと思っているし、精神力なんかもかなり鍛えられましたね(笑)。ゲームには自分との戦いという部分があって、きっとアスリートはこういう感じなのかなと。もちろんアスリートはもっと過酷ですし、身体的体験とそれにかける時間と資本のコストが自分の人生と直結している。しかし逆にゲームというのは凝縮された時間でそれを体験できるし、リセットボタンもあるから、現実と虚構を峻別する訓練もできるという意味で別レイヤーの豊かな体験の意味があると思います。人生と直結していないのがむしろ強みだと。

梅沢和木という作家を構成する上で、やはりゲームは切り離せないみたいですね。

梅沢:切り離せないですね。やっぱりゲームは、映像体験として凄く優れているものだと思うんです。例えば、映画にしてもその世界に2時間は浸れるわけですが、ゲームの場合は50時間とか平気でいってしまうわけで、ちょっとした人生の追体験ができますからね。

ところで、「ビーマニ」はこれからも上達を目指してやっていくのですか?

梅沢:もちろんそうですね。プロフィールに「皆伝」(十段の上位)と書けないのがイタいんですよ(笑)。そういえば、ゲームを始めた頃は極端な考え方をしていて、本当にゲームが上達したければ、それだけを永遠にやり続けていればいいと思っていたんです。でも、だんだん実はそうじゃないんじゃないかということに気付き始めて。例えば、「力を抜く」ということが、別の人生経験から参照されて、ゲームプレイに反映されたりする。ある人生経験を経ることで、ゲームへの理解が深まったりもするんです。当たり前のことですが、色んなことをやっていた方が、人生は豊かだということですよね(笑)。


インタビューを終えて

梅ラボの作品は初めて見た時からいまに至るまで、毎回驚かせられるんですが、その良い意味での”斜め上”への行き方というのは、どこかゲームで自分の予想を越える結果や展開を見せられた時と似ている気がしていました。圧倒的情報密度が、ビートマニアの発狂譜面を攻略している時のような鑑賞を誘発することは、もしかしたら僕だけの感情かもしれませんが(笑)。
当たり前のことかもしれませんが、ゲームでもスポーツ並のレベルでもの凄く打ち込んでみると、多かれ少なかれ自分のアイデンティティに影響を及ぼすと思うんです。梅ラボとは互いに同じ『ビートマニア』に打ち込んできたため、ついその話で盛り上がってしまうのですが、根幹部分を紐解くような話はあまりしたことがありませんでした。今回、互いのインタビューでは自分のキャラクターや作品を構成する上での『ゲームとは何か?』を探れたような気がします。
僕がしっかり起承転結を考えていなかったので、あまり上手くインタビューができなかった気もしますが(笑)、最も聞いてみたかったことのひとつ『ビートマニア』の譜面をプレイすることと、梅ラボが絵を描くことの関連性について語ってもらえたし、梅ラボの中でも気づきがあったようなので良かったです。そして、このインタビューを終えた後、梅ラボは目標だった『皆伝』を取得したので、プロフィールが変わりますね(笑)。おめでとう!!